#81 ある盲目少女と森の主の物語8
黒い塊が暗闇より弾けんばかりに疾走し躍動する。影のみをその場に残し、形の見えないそれを目視で追従するのは如何に優れた身体能力を誇るリード達一行でも至難の業だった。
「っく、早い! リード、そっち行ったわよ! 気を付けて!」
「分かってる、任せてくれ! メルは絶対にマリーちゃんから離れないように!」
「当然です。しかしこれ程とは......。伊達に神として奉られてはいなかったと言う事ですか。......厄介な」
廃屋となった社の中を黒い塊が縦横無尽に駆け回る。その速さたるや、凡そ生身の獣人では考えられない程のものだった。踏み込んだ足は分厚い床板を粉砕し、広間を支える柱を蹴り込み更に加速して襲いくる。
明確な殺意を込めた鋭利な爪を、一行へと確実に命を刈り取る一撃となり降り下ろされる。それを紙一重で受け流し、手に持つ鉄剣で弾き飛ばすリード。追撃に走るも、捉えきれずに周囲を破壊するに止まるエミリー。相手の動きを感知し、更には守りすらする風の魔法を行使しつつ牽制するリエメル。
その傍らにて、淡く黄金色に輝く双眼でしっかりと黒い塊を見据えるマリーは油断なくその動きを観察し、ぴんと立てられた獣人特有の耳は、小刻みにぴくぴくと動いていた。そして、その殺意の塊の様な影へと祈りにも似た悲痛な叫びを上げるのだった。
「お父さまっ! 私です、エルゥです! お願いしますっ、どうか私の声を聞いて下さいっ!?」
「いきなり襲ってくるなんてね。戦いたくないと叫んでも、あの様子じゃあ受け入れてはくれないんだろうね」
「何で襲ってくるのよ!? 私達はあんた達を助けにきたのよ!? いい加減に止まりなさいっての!」
「無駄ですエミリー。あの獣人の動きは明らかに様子が変です。既に自我は無いものと考えて動くのが賢明です。恐らく本能のみで攻撃をしてきているのでしょう、私達を敵と認識しているからこその行動ですね。そしてあの《異形》......。あれは最早獣人の域を超えています」
「あぁもう! あんた達を心配して、わざわざ助けに来た娘の事すら分からないっての!? いい加減気付きなさいよ!」
エミリーの叫びは届く事は無く、未だ周囲を破壊し殺意を振り撒き続けている変わり果てた姿の獣人。暗闇の中を素早く移動し続け、妖しく輝く双眼のみがその軌跡を追従する様に忙しなく動き回っていた。
黒い塊の正体は紛れもなくエルゥの父親そのものなのだろう。しかし、暗闇から襲いくるその身体は聞いていた嘗ての姿からは大きくかけ離れたものだった。
リードの倍はあろうかという程の巨体に比例し、四肢は暴力的に肥大化し、鋭利な爪と牙を携え身体全身に力が並々と溢れている様子が見てとれた。更には、その巨躯を覆う棘の様に鋭くぶ厚い黒々とした体毛。まるで魔物の《魔人狼》かと見惑う容姿を晒していたのだ。
「確実に僕らを狩る気だね。それに対して此方は防戦一方。万が一にも斬り倒してしまわない様に《光剣》も使えない。手元にある量産品の剣じゃあとてもじゃないけど相手にならない......。さて、どうしたものか」
「私も本気でやっていいなら勝てるけど、命の保証は出来ないし......。けど、手加減して勝てる程生温い相手じゃないわよね。あーもう、どうしたらいいのよメルっ! 何か便利な魔法使ってあいつの動きを止めてみせなさいよっ!? 大賢者様なんでしょう!?」
「無茶を言わないで下さい赤鬼。殺してもいいなら既に殺ってます。しかし、自我が見られないならば足の一本でも斬り落として......」
「駄目だよ、メル。それは絶対に認めない。せめて彼がエルゥちゃんの存在に気付いてくれたなら......。いや、待て。そうか、気付いて貰えばいいんだ。マリーちゃん!」
「は、はいっ!?」
突然リードから名を呼ばれ、その身体を跳ねさせるマリー。マリーの身体の中には今二つの魂が同時に存在している。先程父親に向かい叫んでいた獣人のエルゥとマリー本人の魂だ。
必死に父親に呼び掛けていたエルゥの声に替わりマリーの声で返事を返してきた所をみると、どうやら二人はしっかりと自分の意思の元で応答出来るらしい。
リードがマリーの元へと駆け寄り、何やらひそひそと話を始める間も攻撃は止まらない。リードが前線を離れた隙を突き、独りになったエミリーへと鋭く地を這い肉薄し、その凶爪を容赦なく首元へと降り下ろす。
しかし、その爪を身を仰け反らせ危なげなく避けた後、大振りで隙を晒した巨躯の脇腹へと蹴りを見舞うエミリー。
綺麗に脇腹へと決まった蹴撃は、そのまま小爆発を引き起こして巨躯を大きく吹き飛ばしてみせる。その後に間を開けず、今度はリエメルが魔法で精製した岩を次々とその吹き飛んだ場所へと投擲し追撃を仕掛けてゆく。
それら飛来する岩の軌道を確認した黒狼は体勢を素早く立て直し、飛来する岩を軽々しく回避しながら射線より離脱して距離を取ってみせる。
岩が直撃した場所は破壊音を響かせ大きく弾け飛び、砕けた破片と騒音を撒き散らす。その状況下に在っても尚、全く怯む様子も見せずに虎視眈々と暗闇の中から一行の隙を伺っているのが手に取るように分かる程、敵意と殺意を孕んだ視線は収まる気配すらなく一行へと痛烈に突き刺さる。
「ちっ、硬い。やっぱり手加減して勝てる相手じゃないわね。あーもうっ! 本当にもどかしいっ! 苛々するわっ!」
「落ち着きなさい。目的は殺す事ではないのですからあれでいいのです。リードちゃんに何か考えがあるようなので、今は守備に全力を注ぎなさい」
「分かってるわよっ! リード、まだなの!?」
「......よし。頼んだよ、エルゥちゃん、マリーちゃん。君達の声をしっかりと彼らに届けるんだ。周りは気にしなくていい、僕らが必ず守ってみせるから」
「はいっ! 必ず届けてみせます! エルゥさん、私の事は気にせず思いきりお願いしますっ! 私の身体、思う存分に使って下さい! ありったけの全てをぶつけてあげて下さいね!」
マリーはその言葉を告げた後、一つ大きく深呼吸をしてみせる。そして、誰にも聞こえない程に小さくぽつりと何かを呟きを落とす。
「天使様......。いえ、マリー様。貴女様に出会えて本当に良かった。貴女と共に在り、少しだけですがその強さに触れた気がしました。その御力と勇気、少しだけ私に貸して下さい。......どうか届いて」
瞳を閉じ、ゆっくりと祈りを捧げる様にマリーの身体を借り受けたエルゥは、静かに想いを込めた歌を紡ぎ始める。それは、嘗て孤独に押し潰されそうな時に神と呼ばれる者より賜った歌。両親と共に立ち寄ったあの丘で、最後に歌った思い出の歌。
神曰く、その歌は遥か大昔命を掛けて一族を救った英雄を称える歌だと言う。英雄に感謝を捧げ、日々の平和を英雄へと知らせる歌だと言う。魂のみの存在と成っても尚、一族を守り共に在り続ける英雄を称え、感謝し、慰める歌だと言う。その歌に自身の感情と、《依り代》と呼ばれ軟禁される原因ともなった生まれなからに持っていた特別な力、その全てを注ぎ込み精一杯に歌う。ただ一つ、《異形》と成り果てた二人のその心に届けと願いを込めて。
余りにも心を引かれる美声にリード達一行は交戦中だというのにも関わらず思わず振り返ってしまう。これ程に素晴らしい歌声は、生前を含めても未だ嘗て聴いた事がなかったからだ。それほどに綺麗で、耳と心に響き通り、そして何処かもの悲しいその歌に心を鷲掴みにされすっかり魅了されてしまっていたのだ。
しかし、それもほんの瞬き数回の間。ふと我に返り、自身の至らなさに焦燥感を覚えつつ内心舌打ちをし、それを押さえ込み黒狼の強襲に備え臨戦体勢を再び維持する一行。
背中を走る冷やかな悪寒を感じつつも周囲はエルゥの美声が響くばかりで全く動きを見せない黒狼。そこで漸く気が付いた。先程までの刺さる様な殺意や敵意が嘘の様に全く感じられない事に。
しかし、そこで気を抜いてはいけないと警戒をしつつ、やはり背中越しから響く歌声につい気が向いてしまう。そんな時、暗闇からゆっくりと床板を軋ませ歩いてくる巨影が一つ。その目には最早殺意も敵意も鳴りを潜め、籠るのは驚愕と渇望、悲哀と未練の念が並々と溢れていた。
その視線に気が付いたのか、マリーの身体を借りて歌うエルゥは静かに口を閉じて漸くと待ち望んだ者達との対面を果たす。生前失ったその両の瞳に一杯の涙を溜め、震える唇はしかし言葉を発する事なく、変わり果ててしまったその姿をただただ静かに見詰め続けるのだった。
そして、暫しの静寂の中対面した巨躯の狼は震える声で辿々しく言葉を紡いでゆく。
「......エ、ルゥ?」
「漸く、漸く届いたんですね。やっと会えた、やっと届いた......っ! お父さま、神様、お待たせしてすいません。エルゥが黄泉の果てよりお迎えに上がりました」
お読み頂きありがとうございます。宜しければページ下部にあります評価ポイントで作品の評価をしてくだされば幸いです。
また、感想やブックマークもお待ちしております。
お時間を頂きありがとうございました。
次の更新でまたお会いしましょう。




