ガラスの靴は足に合わない【改稿版】
魔法使いの家は森の中にあった。
王都の外れ。誰も近寄らないような、こんもりとした大きな暗い森の入り口に、『魔女出没注意』と書かれた古い看板が、ポツンと孤独に立っている。
下のほうに小さくへたくそな字で『ま女は肉しょくです』と謎の付け足しをされたその看板を無視して、細い道をずっとずっと行った先。ひときわ大きな三本の樫の木の下に、魔法使いの家はあった。
「ごめんくださーい」
ぶどう酒とお菓子の入ったバスケットを下げた少女は、自分が辿り着いた、お菓子でできたような可愛い家をちょっとながめたあと、とんとんとん、とチョコレートでできたような、かわいい戸口を叩いた。
「だれだい?」
「ベルタ・クライン」
家の中から聞こえた不気味なしわがれ声に、少女がはきはきと名乗れば、つやつやの扉はぱっと開く。
ベルタを出迎えたのは、先ほどの老婆のような声の主には到底見えない、ぼさぼさ頭の若い男だった。
「いらっしゃい、ベルタ」
落ち着いた声は、まるで教師か学者のよう。
でも、彼がこの家に住む魔法使いだということを知ってさえいれば、先ほど老婆声の主はどこにいるんだろう、などと、余計なことを考える必要はない。
不思議を操る魔法使いは、姿も声も自由自在なものなのだ。喋る扉や自動給茶機を作ることも朝飯前。
というわけで、家に招じ入れられたベルタは、十数秒後には魔法使いと向かい合って座っていた。クッキーみたいな丸いテーブルに、自分で飛んできたお皿に手土産のお菓子を盛って、ぐびぐびとお茶を飲む。
「なかなかおいしいですね。あなたの手作りですか」
これまたベルタの手土産のぶどう酒を、ティーカップに注ぎ、皿の上から優雅な手付きで丸い焼き菓子を取った魔法使いが、それをひと口かじって、おや、という顔をする。ベルタはひらひらと片手を振った。
「いいえ。みあ……じゃない、えーと、義妹の」
「なるほど、道理で丁寧さがにじみ出ている」
「そうでしょうとも。――喧嘩売ってる?」
とんでもない、と野暮ったい色あせたような金髪を揺らして、最後のひと欠片を飲み込んだ魔法使いは、ふたつ目の菓子に手を伸ばす。
ちなみにベルタが持ってきた菓子はふたつきり。
つまり、彼が手を出そうとしているのはベルタの皿のベルタの菓子である。べちん、と手の甲を叩き落とす、痛そうな音が響いた。
「はたくわよ」
「やったあとに言わないでください」
手を引っ込めはしたが、魔法使いは前髪の奥の不思議な金緑の瞳で、未練がましく、焼き菓子が少女の口に入って咀嚼され、嚥下されるまでを見つめていた。
お茶まで飲み干してから、ベルタが呆れかえった視線を投げれば、未だに彼女の白い首もとを見ていた魔法使いは、ふいと目を逸らして頬杖をついた。
出てきたセリフは、いつもと一緒。
「……今日は何のご相談で? ベルタ」
「…………お城で舞踏会があるのよ」
王子様の花嫁探しの舞踏会。身分の高い家の娘や、大金持ちの娘、美しさや賢さで評判の娘たちが国中から集まる舞踏会だ。もう何年も前から、ベルタはそれが開かれる時を待っていた。
――彼女の義妹はシンデレラだったから。
〜*・*・*〜
「うげ、時乃……?」
四年前、子持ちの裕福な商人と再婚する、などといきなり宣言した、異様に贅沢好きの母に連れられ、姉と共に、義妹となるひとつ年下の女の子と初めて対面したとき、その子はベルタを見てそう口走った。
自身の枯れ葉みたいな色合いとは全く違う、卵色の髪とソーダ色の瞳をした可憐な美少女。ちっとも見覚えは無かったけれど、その瞬間、びびびっと天啓のように、十四歳のベルタの頭に直感が降ってきた。
「み、実愛?」
遥か遠い記憶の中に住んでいたはずの、幼なじみ兼親友の名前を口に出せば、ベルタと同様に、前世と似ても似つかない顔立ちの彼女がコクリとうなずく。
ふたりはしばし無言で見つめ合った。
前世、というものが自分にあるのは知っていたが、まさか現世でその知人に合うとは、どちらも思っていなかったのだ。だって、そんな話はあまり聞かない。
だからふたりの間に広がった感情は、まずは驚愕。そしてそれが収まると……まったく違う外見にも関わらず、お互い瞬時に相手が分かるとは、凄まじい友情だ、と感じ入っていたのである。
「ベルタ、どうしたの。ちゃんと挨拶なさい」
無言で長い間黙り込む二人の子供に対する、怪訝そうな母の声に我に返ったベルタは、母譲りのキツそうと言われる顔に、とりあえずにこりと友好的な微笑みを浮かべてみた。
「はじめまして、義妹になるかた。あたしはベルタよ。……ええーと、おねーさまとお呼び?」
屋敷に来るまでに考えておいた「新妹」にナメられないための挨拶だったが、言ってから、友達におねーさま呼ばわりされるのはちょっと嫌だな、と考えた。
その後改めて旧交を温めた二人は、この珍しい状況を理解するべく、『ゲーム』や『小説』や『マンガ』の知識を総動員して、夜な夜な話し合った。
しかし、思い出せる物の中に、どうもぴったり合うような話は無いし、知り合いの中にそれらの登場人物に当てはまる名前も無い。血のつながらない姉妹兼親友同士のふたりは、それはもう悩んだ。
「……こういう時って、なんか使命がつきものだとばっかり思ってたんだけど。違うのかな、おねーさま」
「私が悪かったから、やめてよその呼び方。……まあ確かに、魔王を倒したりむしろ魔王だったり、主人公だったり悪役令嬢だったりするものよね」
でも、どうもそんな感じもしない。
二人でこきこきと首をひねっているうちに、一年近くの時が経ち、ベルタの義理の父、義妹にとっての実の父が、病気で帰らぬ人となってしまった。
葬儀が終わるが早いか、それまで一応とりつくろっていたベルタの母は、たちまち本性をさらけ出した。
「ほんと、小憎らしい子だこと。いつまでもひとりメソメソして、慰めて貰いたがっているんだわ」
彼女は泣き腫らした目のをしたまま娘を見下ろし、そう言ってせせら笑った。美しくチヤホヤされることに慣れ切っていた彼女はずっと、この義理の娘が、自身やそのじつの娘たちよりも夫に優遇されている気がして、内心妬ましく思っていたのだ。
彼女は一番が好きな女性だから、まま娘の生母が天使のように美しかったという話を聞くのも、そのひとの実家が、自分の生家では及びもつかないような、貴族の血筋だったという事実も、気に入らない。
「いいこと? あなたのお父様のものだったこの屋敷も、財産も、もう全部あたくしのもの。かわいそうに、あなたにはもう何にもないのよ」
他者を貶め、卑しめることでしか、自分の心の安寧を保つことのできない女性。
「泣いてるヒマなんてなくってよ。パンが食べたかったら、自分で稼がなくてはいけないの。当然よね、あたくしとあなたは他人なんですもの」
くすくすという嘲笑。
「でもあたくしも鬼じゃないもの、亡き夫の娘を使用人達の中に放り込んで、みじめな思いをさせたりしないわ。安心してちょうだい、召使いたちは全部首にしたわ。ひとりで仕事をすればいいの、気楽でしょ?」
最後の肉親を失って悲しみに打ちひしがれている少女は、彼女に当然残されているべきすべてを取り上げられ、一番高くて汚い屋根裏部屋に追いやられた。
勝ち誇っていたまま母はしかし、気のいい義父を亡くして、ずびずび鼻をすすっている下の娘が、まま娘の後について屋根裏部屋に上っていくのを見つけて、慌てて引き戻した。
最初は義妹が母に目の敵にされ、掃除、洗濯、料理に皿洗いと、こき使われるのに断固反対していたベルタだったが、自分が庇えば庇うほど母が意固地になって、さらに酷使することに気付いてからは、陰でこそこそと一緒に皿洗いなどをするようになっていった。
家族の前では義妹をしいたげ、人目がないところではほうきやフライパンを握って、夜にはふかふかの寝台から抜け出し、屋根裏部屋のわら布団訪問をして。
そんなある日。
ベルタは台所で、疲れ切ってかまどのそばの床で眠りこける、みすぼらしい様子の義妹を見つけた。
義妹の代わりに仕事を済ませながら、ここに布団を持ってくるべきか、まずは体が痛くならなそうなところに引きずって行くべきか、と悩んだ彼女はふと、灰まみれで眠る義妹の姿に、大変なことに思い至る。
「……っ起きて!」
「ぐ、ぐえ」
ゆっさゆさと揺すぶられて薄目を開けた、汚れていてもなお可憐な少女の襟をひっ掴んで、つばが飛ぶのも構わず、蒼白な顔でベルタは叫んだ。
「あんたシンデレラよ!!」
まま母とふたりの姉にこき使われて、陽が昇る前から陽が沈んだあとまで、こまねずみのように働き回って、灰の中でしばし身体を休める美しい娘。
誰もが知っている童話の中の灰かぶり姫。――シンデレラ、サンドリヨン、アシェンプテル、チェネレントラ……やがて舞踏会に行き、王子を手に入れると決まっている少女。間違いない、という確信。
「童話だったとは、そりゃ盲点……」
きょとんとしてから、淡い色の唇でそうつぶやいた義妹はけれど、もうちょっと寝かせて、と再び目を閉じた。
――夜空には、魔女がブランコを引っかけそうな月と、銀貨になって落ちてきそうな星々が出ていた。
ベルタは外套のポケットに、昨日シンデレラが買いすぎたりんごのうち、ひときわ赤い果実を入れて、テクテクと夜の森を歩いていた。ひとりきり。
地面には、道案内をするみたいに、ぽつぽつと月明かりに輝く白い小石が転がっている。
そこは、王都近郊どころか、国中で唯一、本物の魔女がいるといわれる森だった。
名君と言われる王様
女神と慕われる王妃様
優秀と囁かれる王太子様
昔々、そんな人たちのいるところ、真っ白のお城に、魔女も一緒に暮らしていたそうだけれど。……穢れた存在である魔女は、今の清らかな住人たちに恐れをなして、近くの森に引っ込んだという噂だ。
ときたま、幼いころに亡くなった王の第一子を食べてしまったために、魔女は城から追放されたのだとか、怖いほうの噂話をする人などもいるけれど。
この夜――ベルタは、そんな魔女に会いに来た。
シンデレラだったら、舞踏会が開かれるまではひたすら従順に働いて、耐え忍ぶしかない。というのが主役の意見。でも本当は親切な義姉兼親友としては、もう一歩、物語を確実にする何かが欲しかったのだ。
白い小石の終着点は、月光の下に現れたお菓子で作られたみたいな可愛い家だった。ヘンゼルとグレーテルみたいな気分になって、ちょっとたじろぐ。それでもポケットから進物のりんごと勇気を取り出して、魔女の家の戸口をノックした。
「ごめんくださーい」
「だれだい?」
「あ……ベルタ・クラインと申します」
板チョコそっくりの扉がきぃぃと開く。
想像していたのはの腰の曲がった黒ローブ姿の老婆だったのに、ベルタの前に現れたのは、黒いローブを着てはいても、全く予想と違う背の高い若者だった。
若者は驚きに目を見開く彼女の、枯れ葉色の頭の天辺から、刺繍入りの靴を履いたつま先まで無遠慮に眺め回して、最後に白い手に命綱のように握られた、真っ赤なりんごに視線を止めた。
彼は手入れを怠っているとしか思えない、ぼさぼさの伸びっぱなしの前髪をかきあげてまで、まじまじとりんごを見つめてから、ようやく口を開く。
「それは……毒りんご、ですか?」
小人もいないくせに白雪姫になりたいらしい魔女(?)に、ベルタはとりあえず「毒なしです、ごめんなさい」と間抜けに礼儀正しく謝った。
「だから、もしよかったら召し上がってください」
「……どうも」
毒なしりんごを受けとってくれた若者は、ベルタを家の中に招き入れ、暖炉の前の椅子に座らせ、どこからか取り出したナイフで器用にりんごをむきだした。
だからベルタは、見る見るなぜかウサギに変身していくりんごに呆気に取られながら、自分は魔女の弟子で、魔女は一年も前に亡くなった、という彼の話を聞いたのだ。
「それで、なんのご用ですか。お嬢さん」
「ええと――ガラスの靴は作れますか」
作れますよ。という言葉は、ふわふわと空中を飛んでいたウサギりんごが、ぴょんこんと運んできた。
それが、魔法使いとベルタの出逢い。
ベルタだけでなく、その姉や母にも灰かぶりと呼ばれるようになった義妹は、それまでにも増して、物語のシンデレラらしく、健気にちょこちょこと働き者になった。鳥にも虫にも動物にも人間にも優しく、つねに儚げな微笑みを絶やさずに。
ただ夜には義姉と屋根裏部屋で思い切り笑って。
義姉はちょくちょく魔法使いの元におもむき。
――そうして物語のページと時間は、蝶の羽ばたきのように、静かに穏やかに進んで行ったのだった。
「王子の花嫁探しの舞踏会、ですか」
初対面から変わらぬぼさぼさ頭の魔法使いは、三杯目になるぶどう酒を注ぎながら、ゆるく首を傾げた。
そうよ、とベルタはうなずく。
舞踏会の招待状が届いたのは今朝のこと。見た瞬間、ベルタの母親は姉と悲鳴を上げ、窓掃除中だったシンデレラに仕立て屋を呼びに行かせた。
『あたくしの可愛い娘たち、絶対に選ばれなくてはだめよ。お妃になったら贅沢のし放題なんですもの』
『ああん、お母さま。そんなことより、あの王子様に選ばれると思っただけで、もう目眩がしてしまうわ』
主役の王子というのは、なんでも女神と謳われる王妃によく似た美男子らしく、しかしかといって決して顔だけの青年でもなく、文武両道で有能なのだとか。
女性たちはひと目見ただけで夢中になるらしい。
「完璧な王子様が、天使みたいなシンデレラにひと目ぼれする。まさしく物語らしくて素敵じゃない?」
「……あなたは、本当にここが『シンデレラ』とかいう物語の中の世界だと信じているんですか」
「しつこいわね、その質問何回目」
「百八回目です」
「おおう、煩悩の数」
魔法使いは、諦めたようにため息をついた。
「いえ、まあいいです。よくあるような話ですし。私がそれっぽく成功させればいいことですからね」
「よく分かってるじゃない」
出会ってから約三年。物語の『魔法使い』は突然シンデレラの前に現れなければならないから、ベルタは義妹に内緒でせっせと魔法使いの家に通って、やれドレスのデザインだの髪型だの、魔法使いのセリフだの演出だのと着々と計画を練っていたのだ。
十近く年上のはずなのに、身なりのせいか、どうもぼんやりしたような印象のこの魔法使いが、どことなく彼女の下僕感を漂わせ初めたのは、べつに最近のことじゃない。
「ええと、なんでしたっけ。ドレスは銀河の青色、髪飾りは涙の真珠、上靴は本人しか履けない特別製のガラスの靴、馬車はカボチャ、馬はネズミで……」
ベルタが『王子メロメロ大作戦』などと寒い題名をつけたノートを、疲れたように読み上げる魔法使い。
内容は童話らしく夢いっぱいだ。
他人が聞けば眉を寄せそうな内容を「うんうん」と頷きながら聞いていたベルタだったが、最後にぽん、と何かを思いついたように両手を合わせた。
「あ、あと惚れ薬作ってちょうだい」
「……誰に飲ませる気ですか」
「当然王子様」
ノートからちろりと金緑の目が上がる。
「そういえば、あなたもぴらぴら着飾って、その花嫁探しの舞踏会とやらに行くんでしたっけ」
「まあそういう物語だもの」
「惚れ薬は王子を主人公にひと目惚れさせるため?」
「な、なによ、念には念を入れたっていいじゃない」
枯れ葉色の目が魔法使いを睨みつけると、彼はノートを閉じて呆れたように頭を振った。
「ときどき私には、あなたがどうしようもなくお馬鹿に見えるときがありますよ。……どうやって王子に薬を飲ませるつもりなのです」
ベルタはぐっと言葉に詰まった。
「魔法でどうにかならないの?」
「別料金ですよ」
ぽくぽくぽくぽく、とじつは前世でもあまり聞いたことのなかった木魚の音が、ベルタの頭の中をご機嫌に通り過ぎていく。ちーん。
「え、そもそもの料金おいくら」
滅多にないことだが、にっこりと魔法使いは慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。すると驚くほど教会の女神像に似る。シンデレラの笑顔は天使だが、なぜか魔法使いの笑顔はさらに無駄にぺかーっと神々しい。
あるはずもない後光を背負って彼は言った。
「――あなたの魂ひとつです」
悪魔!? ベルタは叫んだ。というかその場合追加料金ってなんだろう。人間の魂っていくつあるの。そういえば、魔女が昔王家の子供を食べちゃったとかいう噂を聞いたが、魂も食用なのだろうか。
いくら義妹兼親友のシンデレラのためでも、自分の一部(魂)が食べられるのは嫌だ……というより。
「いやいやいや、そもそも魂あげたら死ぬじゃない」
「一概にそうとも限りませんが。ああ、でもお嫌なら、他に別料金込みで『何でもひとつ願いを聞く』という支払い方法もありますが」
「え」
こちらもひどく珍しいことに、ベルタがちょっぴりびくびくしながら、不安そうな上目遣いになった。
「それ死ぬ?」
「……大丈夫、死にませんよ」
「じゃ、じゃあそっちで。後払いね」
王太子妃の義姉になる予定だから、平気、たぶんわりと何でも叶えられるはず。そう考えて、ほっと息を吐くベルタに、魔法使いは、身だしなみを整えさえすれば意外と貴公子に見えるかもしれない。などと思わせる仕草で『契約書』と書かれた紙を差し出した。
――――何でもひとつ願いを聞きます。
差し出された鵞ペン握って少し考え込んだベルタは、その短い文に用心深く「シンデレラが無事王子様と結婚したら」と書き足してから、サインをした。
六杯目のぶどう酒入りのティーカップの向こうで、にぃと神々しくも悪魔的に笑みを深める魔法使い。
その表情にいささか嫌な予感を抱きはしたが、無料より高いものはないと言うから何も問題はないはずだ、と彼女はなんとか自分に頷いて、インクを乾かした紙を返した。
「契約成立ですね、ベルタ」
「ええ。だから魔法は頼んだわ」
頷きあって、シンデレラの義姉と老魔女役をする予定の魔法使いは、もう一度最初から計画を確認した。
そうして、試しに老女に変身してみたり、ベルタの足でガラスの上靴を作ってみたりしながら、いつものように二人は夜明け近くまで過ごしたのだった。
…………賑やかな準備の日々は、慌ただしく駆け足で過ぎ行き。あっという間にやってきた舞踏会当日。
鬼気迫る表情で鏡とにらめっこをしている母と姉を横目に、ほとんど用意のできたベルタは、シンデレラに髪を直してもらいながら、こっそりと聞いた。
「ネズミとりは仕掛けておいた?」
「いちおうはね」
シンデレラもこっそりと答える。
「たぶん入ってると思うけど、本当に魔法使いなんて来ると思う? 私顔も見たことないんだけど」
ついに来た運命の日に、弱気になっている様子の主人公に、義姉は自信を持って大丈夫だと受けあう。
「――ねえ、あんたも舞踏会に行きたいでしょうね」
やっと鏡から顔を離した上の義姉がシンデレラに声をかけ、真っ赤に塗ったくった唇でにたにた笑った。
純白のお城の中、舞踏会の会場である広間にたどり着いたベルタは、母や姉がさっさと中央へ向かったのとは反対に、壁際に向かった。
忙しそうに立ち回る召使いや調弦中の楽団のそばを通り過ぎ、談笑中の人々を避け、不審者のごとくかさこそと壁伝いに奥へ奥へと移動していく。
広間の最奥には、一段高くなった場所があった。そのさらに真ん中に置かれた立派な椅子たちに、最も高貴な三人が座っている。王と王妃と王子様。
「……おお」
ドレスごと隠してくれる太い柱の裏に隠れ、三人を覗き見ながら、ベルタは思わず感嘆の声をもらした。
国王もなかなかの美丈夫だったが、王妃と王子の美貌はそれを霞ませるほど凄まじかった。銀にも見える母子そろいの淡い金髪、雪でできた女神像そのもののような王妃と、冷たい氷で作られたかのような王子。
――まったく、白い翼が無いのが不思議なくらい。
しかし主役であるはずの王子は、心から退屈そうにあらぬ方向を眺めている。王妃のほうは女神の名にふさわしい微笑みを浮かべ、挨拶に来る人々に優しく声をかけているのだが。
音楽が始まり、人々が鏡のように磨かれた寄せ木の床の上で踊り出しても、王子の態度は何ひとつ変わらなかった。シルエットにしたいような横顔をさらして、無言無表情で座っている。
「……踊らないのかしら」
「あなたこそ」
ひとり言に応えがあって、ベルタは思わずぴゃっと飛び上がった。履いていたのがかかとの高くない上靴で幸いだ。そうでなかったらすっ転んでいただろう。
振り向けば、いつも通りの黒ローブの魔法使いがいた。大きな窓の横の壁に寄りかかり、泰然とベルタを見つめている。もの凄く場所に合わない上に、今日は顔がフードに隠されているので、怪しさが倍増だ。
「こんばんは、ベルタ。良い夜ですね」
「ええ、あんたがそんな格好で現れさえしなきゃね」
ベルタは慌てて魔法使いを金で装飾された壁から引っ剥がした。もっと人目に付かないであろう、自分のいる柱の陰に連れ込む。
どうやって入ってきたのか、幸いなことに、見るからに不審な彼だが未だに誰にも注目されていない。
「なにやってるのよ、あたしの義妹はどうしたの」
「ちゃんと計画通りやりましたよ、もうすぐ馬車が着くはずです。……私が来たのはもうひとつの用で」
「もうひとつ?」
「お忘れですか、王子に惚れ薬を飲ますのでしょう」
「あ、そうだった」
呆れたような息を吐く彼を間近で見上げれば、フードの下に髪に隠されぬ金緑の双瞳が見えた。
意外にも魔法使いは、ローブの下だけでも身だしなみを整えて来たらしい。結局上からローブを羽織っているので、意味があるのかは不明だが。
「作って来てくれたの?」
「当然でしょう」
魔法使いは、ポケットからいかにも惚れ薬らしい、桃色の液体の入った小瓶を取り出した。
「これは飲んで最初に見た生物に恋をする薬です。ネズミでも虫でも馬でも、当然人にでも」
普通人間相手限定に作るものはずなのに、余計な効能を付けた魔法使いは、なぜかちょっぴり得意げである。一瞬つねってやろうかと思ったベルタだが、まあ、王子がシンデレラが恋をすればいいのだから。と自分を納得させた。
「で、どうやって王子様に飲ませるの」
魔法使いは、そうですねと首をひねった。
「飲み物にでも混ぜましょうか」
確かに王子様の椅子のそばにあるサイドテーブルには、飲み物が置かれている。だが、どうやってそこまで行くつもりなのか。魔法でいれるのだろうか。
予想に反して魔法使いは一歩踏み出した。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
「ちょっと待ちなさい」
慌ててベルタは長い黒ローブの裾を踏みつける。
「ぐ……」
「その不審者丸出しの格好で出ていくつもり? 王子様のとこにたどり着く前に衛兵に叩き出されるわよ。何考えてんのよあんた」
いきなり突っ張った自分の服によろめき、なんとか踏みとどまった魔法使いは「せめて袖を引くとか、もう少し愛らしい手段があったでしょう」とぼやいた。
それでもいちおうベルタに向き直る。
「このローブを着ている限り、普通の人間の目に私の姿は映りませんよ。あなたはちょっとした例外です」
「そうなの」
その姿見慣れてるものね。といささか単純なベルタは簡単に納得した。裾から足をどける。
「いってらっしゃい。絶対成功させるのよ」
はいはい、とため息をつきそうな調子で返事をした魔法使いが、柱の陰から出て王子のもとへ向かった。本当に誰もその姿に気付かない。
三脚の椅子が置かれた場所への低い階段を上る前、魔法使いは一度椅子に座る三人を見上げ、生粋の貴族のように優雅に礼をした。
「……失礼、クライン嬢ではありませんかな」
声をかけられて、ヤモリのごとく柱に張り付いていたベルタは、魔法使いから視線を外して振り向いた。
「はい?」
そこにいたのは、ヤギみたいなひげを生やした上品なおじいさんだった。歳は七十か七十五か、そこらへん。銀糸で縫い取りのされた、趣味のいい紺色の上着を着ている。
確か以前、母親に連れて行かれたどこかの晩餐会で、少し話したことのある貴族だ。
ベルタは必死に名前を思い出す努力をした。
ええと、ほら、ほらっ、えーと……。
「あ、プラムベルガー男爵」
「覚えていていただけたとは、嬉しい限りです」
老男爵はにっこりと人好きのする笑みを浮かべた。
「相変わらずお美しい。クライン夫人やご令姉には何度か他所でお会いしたが、あなただけがどこの集まりにもいらっしゃらないのでな。もしやご病気ではと案じていたのだが……お元気そうで安堵しましたよ」
ご病気どころか、おそらくその時、ベルタは仮病で母と姉をだまくらかして追い出したあと、義妹と雑巾がけレースをしていた。健康そのものである。
返答に困ってへらっと笑顔でごまかしたベルタに、男爵が手を差し伸べながら聞いた。
「踊りを申し込ませていただいても?」
ベルタはためらった。若くないと嫌だとか、相手に問題があるわけではない。彼女の問題だ。踊れないことはないが、控えめに言って得意ではないのだ。
控えめに言わなければどへた。
母は娘達にダンス教師をつけたが、すぐに上達した姉と違い、ベルタは一向に上達しなかった。毎回「大丈夫、すぐにうまくなりますよ」と言ってくれた教師が、実はこっそり頭を抱えていたのも知っている。
使用人扱いされ教師の前に出ることもできずに、扉の影からこっそり覗き見て覚えた義妹のほうが、今やベルタよりも上手なくらいなのだ。
知らないこととはいえ、そんなベルタを誘ってくれた、この親切なお年寄りに迷惑をかけるわけにはいかない。
……それに、魔法使いと王子様も気になるし。
「せっかくですが――」
断ろうとしたベルタだったが、残念ながらそれ以上声を発することはできなかった。そしてそれは、老男爵も、会場の誰もが同様だった。
軽いざわめきの後、しいん、と静まり返った大広間。誰もがダンスをやめ、楽器の音、呼吸の音すら絶えたようだった。入口から最奥まで、道を開けるように人混みが左右に割れる。
召使いから国王まで、およそその場にいるすべての人間が広間の扉を凝視していた。扉は大きく開き、そこから入ってきたばかりの小柄な人影を、さらに小さく見せていた。だが、決して弱々しくではない。
シャンデリアの明かりに燦然と輝く金髪。ゆったりと人々を見回す大きな瞳は清々しいソーダの色。
天の川をすくい取って流し込み、春の空に織り込んだようなドレスの裾をつまみ、古典的な礼をする彼女の姿は、まさしく
――シンデレラだった。
「なんて綺麗なかたでしょう」
「まるで幸福の天使のようなひと」
「目が眩んでしまいそうじゃないこと」
さざ波のように広がる賛嘆の声。老男爵も「三十年も前の、まだ少女のころの王妃様を思い出しますな」と目を細め、驚嘆を込めてベルタにささやいた。
「……っ」
ガタンと大きな音を立てて、勢いよく王子が椅子から立ち上がった。拍子にグラスが床に落ちて砕け散る。しかし王子はいささかも関心を払わなかった。
先ほどまで何も見ていなかったような双眸は、今はただ、現れたばかりの美しい少女だけを映している。
氷の彫像のようだった王子は、春の太陽に溶かされたかのように微笑みを浮かべ、まっすぐにシンデレラのもとへと向かった。
「一曲お相手いただけますか?」
「はい、フェリクス殿下」
そして再び曲が始まったが、王子とシンデレラのダンスを視界に入れながら、誰が自分も踊ろうなどと思えるだろうか。いつも厚かましいまま母も、姉娘も見とれているしかできないのに。
「ふむ――まるで魔法のようですな」
老男爵がつぶやきに、他の人々と同じく、ぼんやりと青いドレスの裾がひるがえるさまを眺めていたベルタは、弾かれたかのように顔を上げた。
「魔法?」
「ああ、失礼。深い意味はないのですよ。ただ魔女の魅了の魔法のような姫君だと感じ入っていただけで」
「……男爵は魔女をご存知なのですか」
「言葉を交わしたことはありませんでしたが、多少は。あの罪深き魔女は、宮廷にいたころ、いつも王妃様のそばに控えておりましたからな」
罪深き魔女。動揺を隠すために、ベルタは踊り続けているシンデレラ達に視線を戻し、できるだけさりげない調子で「どういうことですの」と聞いた。
男爵の返答の声は苦い。
「昔、王妃になられたばかりの頃のあのかたは、魔女に頼り切っていたのですよ。しかし……あなたのようなお嬢さんに聞かせるようなことではないのですが、ある時魔女は事件を起こし、森へ追放されたのです」
誰も近寄らない孤独の森へと。
ふと、ベルタは看板と噂を思い出した。
「…………魔女は肉食……?」
「さよう。ある日あのかたは消えてしまわれた……」
ベルタの声もかすれていたが、老男爵の声はもっとかすれ、また低く、失望に満ちて暗かった。
「今日フェリクス王子は、運命を見出し、光の中で踊っていらっしゃる。…………しかし、あの寂しげな目をした幼い兄王子は、とうの昔に魔女たちに消され、どこにもいない。もはや、この世のどこにも……」
曲は変わったが、主役のふたりはまだ踊っていた。老男爵はそれをしばらく見つめたあと、目頭を押さえ、失礼、と早口で言って去っていった。
「――……こういう場所で相手を泣かせるのは、男のほうだとばかり思っていましたよ。しかもあんなお年寄りを……いったい何のいじわるをしたんですか」
「あたしは何もしてないわよ」
むっとして、ベルタは男爵と入れ替わるようにそばに戻ってきた、黒ローブの魔法使いを見上げた。
「あのかた、魔女を恨んでるみたい」
「それはそれは。子供でも食べられましたか」
「……魔女ってやっぱり肉食だったの?」
魔法使いは平然と彼女の目を見返す。
「人肉を食べるか、という質問なら、間違いなく食べていましたね。師はそうしないと生きられない種族でしたから。――だから魔女は忌まれるのですけど」
「あんたも食べるの」
「いいえ。私はもともと人間ですから」
ベルタは眉をひそめた。
「じゃあ……もしかして、森の入口の看板に『ま女は肉しょくです』って付け足ししたのって、あんた?」
「生きている人間が来ると、師がうっかり食べる可能性がありましたからね。幼少時の私の親切です」
親切のつもりだったと言うのなら、もう少し具体的に警告を書いくれても良かったのでは。
がっくりしたベルタが大広間に目を移せば、音楽に身を任せる天使のような男女が見える。
青いドレスの裾が翻り、ガラスの靴はきらめいて。
「…………亡くなった兄王子様を知ってる?」
「知っていましたよ。もうずいぶん昔のことですが」
「魔女が食べちゃったんですって。本当かしら」
「味見ぐらいしかしていませんでしたよ」
「ふぅん……」
踊らない? とベルタは誘った。
魔法使いは肩をすくめた。
「遠慮します、私はあの王子よりへたなんですよ」
――シンデレラと王子様の夢のような時間は、流水のごとく過ぎゆき、やがて無情に十二時の鐘が鳴る。
ベルタは、走り去った義妹と追った王子の背中を見送った。そして王子が、おもちゃのような大きさに変化したガラスの靴の片方を、大切そうに抱えて戻ってくるまで、扉から目を離さなかったのだった。
隣りにいた魔法使いは、その隙に消えていた。
運命の姫君に出逢ってしまった王子が、国中に『ガラスの上靴に足のあう女性と結婚する』というおふれを出したのは、舞踏会の数日後のこと。
その日から王国では、王子の家来たちがあちこちの家へガラスの靴を持って家庭訪問する、という奇妙な光景が見られるようになった。
「……家来たちは、身分の貴賤、未婚既婚に関わらず、 色々な女性が次々にためしましたが、誰一人として、ガラスの靴をはける女の人はいませんでした」
きれいに洗われ、なぜか厨房の食器棚にしまわれている、小さなガラスの靴の片割れを眺め、豆の皮剥き中のベルタはつぶやく。ベルタの倍速で皮を剥いていく義妹は、視線だけ義姉に向けた。
「何、いきなり」
「靴が来ないなあ、と思って」
「まだおふれが出て七日しかたってないよ?」
「それはそうなんだけど……」
無関心を装いながらも、かすかに義妹の手の動きが鈍ったのを、ベルタは見逃さなかった。やや慌てる。
「いや、ごめん。まあそのうち来るでしょうよ。――あの王子様、あんたにえらくご執心のようだったし。絶対草の根分けてでも探し出せ! とか言ってるよ」
「うん。……でも……すごく、不思議」
ひとり言みたいに言って、豆の皮を取り分けるシンデレラの手が、完全に止まった。ソーダ色の瞳が食器棚の靴を映す。ガラスみたいに透きとおった表情で。
「私、舞踏会で実際にフェリクス王子に会うまで、王子がどんな人間かも知らなかった。王子もそう、私のことなんて知らなかった。なのに出逢った瞬間に、お互いにこのひとだと思ったの。それが、不思議……」
ベルタはその大人びた横顔にふいに胸が痛み、まごついて、うつむいた。友が遠く思えた。――――フェリクス王子は、惚れ薬を飲んだのかしら。
『あなたは、本当にここが「シンデレラ」とかいう物語の中の世界だと信じているんですか』
黒ローブの魔法使いは何度もベルタにそう聞いた。ベルタは物語を生きていた。でも今、同じ立場だったはずの義妹は、物語を現実として生きはじめている。
何かを言おうとしたようにも思う。
しかし、ベルタが口を開くより先に、シンデレラが声を上げた。窓の向こうに、例のガラスの靴の乙女捜索隊らしき集団が、屋敷に近付いてくるのが見えたのだ。
食器棚から靴をとりだした二人が、玄関に向かってからのことは、まさしく『灰かぶり』のお話し通り。
……の、はずだった。
「――――あれ?」
ベルタは困惑して、なんの偶然か今日の靴係を任されて来たという、プラムベルガー男爵の顔を窺った。しかし老男爵も他のお城の家臣たちも、母も姉も、壁際に下がっているシンデレラも、皆一様に愕然と目を見開いているだけだ。
それもそのはず。母と姉がいくら足を押し込んでも、決して受け入れることのなかったガラスの上靴が、ベルタの足はするりと受け入れたのだから。
そんな馬鹿な。
「あなたが……」
老男爵のそばにいた、フードをかぶった聖職者風の男が声をもらす。どこかで聞いたような、異様に響きのいい声だ。ものすごく嫌な予感がする。
ベルタはそろそろと足を抜いた。同時にまたガラスの靴が縮んでいくが、今はそんなことを気を取られている場合ではない。
引っこ抜けそうな速度で首を横に振る。
「……いやいやいやいや、あたしじゃありませんよ。ね、男爵。舞踏会で王子様たちが踊っているとき、あたしたちお話してましたもの。ね、ね?」
「う、うむ、そうですな。だが、いや、しかし」
詰め寄られてたじろぎ、のけぞる老男爵。困惑しきった表情で、男爵が先ほど聖職者の男に視線を向けると、やめろと念じているベルタの心など無視して、男が自分のフードに手をかけた。
予想通りに現れるプラチナブロンド。女神に似ていながらも、絶対に女性には見えない硬質の美貌。じっと見つめられて初めて、ベルタはフェリクス王子の瞳が灰色混じりの緑だったことを知った。
母と姉の驚きの悲鳴を聞きながら、ちょっと違和感のある色だ、とベルタは現実逃避ぎみに、かなりどうでもいいことを考えた。
ややあって王子が口を開く。
「確かに、違うな。あの夜の姫はあなたではない」
「そうでしょうとも!」
ベルタはほっとしながら大きく頷いた。誰かに無礼だと咎められる前に、矢継ぎばやに言葉を続ける。
「じつは我が家にはもうひとり娘がおりますの。汚らしい娘ですが、器量はなかなかです。ついでに性格も良い。太鼓判押します。だから、その子にも靴を試させても構いませんよね」
驚いたように瞬いて、小首をかしげたフェリクス王子は、構わないとは言わなかったが、べつにいけないとも言わなかった。だからベルタは未だに目を見開いたまま固まっている義妹に歩み寄り、ガラスの靴をその前に置いた。
「ほら、履いてよ」
言えば、シンデレラはなんとか頷き、ガラスの靴にかすかに震えるつま先を差し入れた。けれど、そこで止まる。上げた顔は蒼白だった。ベルタは息を呑んだ。――まさか。
「どうしよう……入らない」
狼狽して、義妹のポケットからもう片方の靴を取り出し、履かせようとしてみても無駄だった。入らない。なのに試しにベルタが足を入れてみれば、左右の靴は、吸い付くようにぴったりと足を包んだ。
そろった靴と持ち主に感激したように、いく人かの家臣たちが早くも歓声を上げる。しかしシンデレラの義姉は、永遠に踊り続けなければならない赤い靴を、うっかり履いてしまったような顔をした。
「どういうことだ? 母はこの靴は魔法がかかっているから、持ち主ひとりにしか履けないものだろうと言っていたのだが…………やはりあなたなのか」
いつのまにか近くに来ていた王子が、当惑を乗せて靴を見、ベルタを見、シンデレラを見た。
途端見開かれる目。あなただ! という歓喜の声。
「皆、このひとこそが私のほんとうの花嫁だ」
シンデレラの手を取り、子供みたいに無邪気な満面の笑みを浮かべて宣言する王子につられ、人々も一瞬ガラスの靴を忘れ、喝采する。
ベルタも大喜びで拍手したが、彼女の足にぴったりと例の靴がはまっているのも、王子が『ガラスの上靴に足のあう女性と結婚する』と正式なおふれを出したのも事実なわけで。
「殿下、ベルタ・クライン嬢はどうなさるのですか」
探し求めていた花嫁を見つけ、城に連れ帰ろうと歩き出した王子に、老男爵が声をかける。おかげでガラスの靴をぬごうとしていたベルタまでもが、その歩くだけで精一杯なかかとの高い靴のまま、お城に行くことになってしまった。
母と姉に見送られ男爵に手を取られ屋敷を出ながら、ベルタは母と姉のあんなにポカンとした顔は初めて見たな、などと、やはり現実逃避ぎみに、つまらないことを考えていた。
「……それで、わたくしのところへ?」
いつでも微笑んでいるらしい女神は、困り顔までも微笑みだった。それでも周りにいた女官たちを下がらせて、息子とその恋人と、本人もそろそろ杖が必要そうな老男爵を、大胆にも杖代わりにしている少女を優しく自身の応接間に通す。
「母上ならば、原因と対処法がおわかりになるかと思いまして」
「無理よ。わたくしに分かったのは、靴に魔法がかかっている、ということだけ。それ以上はとても」
少々王家の人間に目通りするにはそぐわない、汚れた格好のままのシンデレラの腰に、馬車を降りてからずっと手を回しているフェリクス王子は言った。
王妃はガラスの靴を履いた少女に視線をやる。
「そうね……あなた、魔女に会ったことがあって?」
「いえ。ございません」
ベルタは室内に入ってから見とれっぱなしの、生ける女神像に話しかけられ、赤いのか青いのか判断に困る顔色で答えた。
どぎまぎするあまり思考力が現在ゼロの彼女は、魔女は亡くなっていますとも、弟子の魔法使いにはよく会いますとも、続けることができない。
王妃は今度はシンデレラにたずねた。
「あなたは? 魔女に会いましたか」
「はい。舞踏会の夜に現れて、私にそこに行けるようなドレスと馬車など、色々なものをくれました。十二時までの魔法だと」
「以前に会ったことはないのですね」
「ありません」
自分も天使みたいな外見のせいか、女神の美貌に圧倒されることなく、はきはきと答えるシンデレラ。王妃はひとつ頷くと、再びベルタに視線を戻した。
「でも、これには魔女の意思が関わっているはず。――フェリクス、舞踏会では本当にその娘がこの靴を履いていたのですね?」
「はい母上。間違いなく」
「そうですか……」
王妃は沈思黙考するように、しばらくガラスの靴を見つめていた。そして。
「仕方がありません。魔女を呼び出しましょう」
「王妃様!? なりませぬ!」
抗議の声を上げたのは、それまで黙ってベルタの杖代わりに徹していた老男爵だった。しわだらけの顔を赤くし、怒りのあまり唇を震わせている。
「なにをおっしゃるのです。魔女を追放したのはあなた様ではござりませぬか! よもやお忘れになったわけではありますまい。それともあなた様にとってはやはり大した事ではなかったのですか。魔女は、あの悪魔は、カジミル殿下を……」
お黙りなさい、と王妃は穏やかな微笑みを浮かべたまま言った。老体に障りますよ、と。
「それはそれ、これはこれです。次期国王フェリクスの妃が、魔女のせいではっきりしない、などということはあってはならなりません」
ベルタは男爵が「悪妃め」と、彼女以外に聞こえないほどかすかな声をもらしたのを聞いた。
王妃はさらさらと裾を引いて、応接間の奥にかけられた大きな鏡の前に行った。手招かれ、シンデレラの腰からようやく手を離した王子が母に歩み寄る。
「代々魔女の魂は、王家の血に縛られています。そして鏡は扉。少しだけこの鏡に血を付けて、呼んでご覧なさい」
素直な性質らしい王子は頷いて腰の剣を少し抜き、指先を傷つけた。凹凸のない滑らかな鏡に赤色が塗られる。
「森の魔女よ、聞きたいことがある。……疾く来よ」
簡素な命令に、最初、鏡はやや歪んだように見えた。眉を寄せたベルタが目をこすっている間に、今度はだんだん光を発しはじめる。光は帯となり、伸びて鏡を飛び出し、最後には人の形をとった。
「――なんの用だい」
それは、魔法使いの家の扉を叩くと聞こえる、しわがれ声といっしょだった。光がおさまり、現れた黒ローブを着た人物も、その声に合う老婆の姿。
ベルタが何度も見た、シンデレラに魔法をかける老魔女役に変身したときの、魔法使いの姿だった。
「お前が魔女か」
王子が問う。魔女は金緑の瞳で、馬鹿にしたようにその目を見返しただけだった。一瞬ひるんだ様子を見せたフェリクス王子だったが、すぐに気を取り直したようにベルタの足元を指差した。
「あのガラスの靴を作ったのはお前だろう。なぜ別の者の足に合うようにしたのだ」
無関心な様子で王子の指差す方に視線をやった魔法使いは、そこにベルタを見て眉を上げた。まじまじとガラスの靴を履いて立っている彼女を見つめる。
やがて魔法使いは目をそらした。
「ちょっと殿下をからかってやろうと思っただけさ。だが残念だ、無事に花嫁を見つけたようだね。直してやるから靴をおよこし」
「そうか」
フェリクス王子がベルタに頷いたので、ベルタは杖にしていた老男爵に礼を言い、ガラスの靴をぬいだ。裸足でぺたぺた靴を持っていけば、魔女姿の魔法使いが、もとの声で気まずげにささやく。
「すみません。予行演習であなたに使った靴と間違えました。あなたの義妹に一時的に履けるようにしただけで、もともとの持ち主の設定はそのままで」
そして、魔法使いは、疲労と緊張で睨みつけるの気力も失せたベルタに眉を下げてみせ、シンデレラに靴を履かせに行った。ガラスの靴を履いて王子に駆け寄るシンデレラと、抱きしめる王子。
「これで一件落着だね。私は帰らせてもらうよ」
若い恋人同士をつまらなそうに一瞥し、魔法使いは鏡に向かって踵を返した。鏡に手を触れようとした彼を止めたのは王妃だった。
「お待ちなさい。あなたはヘクセではありませんね。彼女の瞳は赤かったはず。――何者です」
魔法使いは迷惑そうに振り向いた。
「先代のヘクセは亡くなりましてね。代替わりしたんですよ、麗しの王妃様。彼女の記憶も能力もすべて私が受け継いだ。……当然あなたが昔先代と交わした契約も代償も知っています。それでも何か問題が?」
女神的な王妃の微笑みがかすかにひび割れる。
「今回の魔法の代償はなんです。契約者は」
「すべて王家にも王国にも関係のないこと。それから、もちろん、これから生まれてくる命にも」
「……っお黙りなさい」
白い顔に朱を差した王妃は王太子の名を呼んだ。恋人の金の髪に顔をうずめていた王子が視線だけを上げる。王子の母は、息子が見たことのないような表情をして、断罪するように魔法使いを指差していた。
「この者の姿は真の姿でありません。王の妃と太子に対して、あまりにも不敬です。本性を表すようにおっしゃい。王国魔女はあなたの命令には逆らえません」
慌てて身を翻す魔法使いに、王子は命じた。逃げそこなった魔法使いから風が起こる。老婆の皮が剥がれ落ち、色の抜けかけたような金髪――プラチナブロンドが、窓からの光に月のように輝いた。
プラチナブロンド? ベルタはきょとんと瞬いた。
呆然とした様子の王子と王妃の頭を見た。……同じ色だ。もう一度元の姿に戻った魔法使いを見る。
舞踏会の日から、真面目に髪に櫛を入れることを覚えたらしい魔法使いは、観念したように鏡を背にして立っていた。
――王妃によく似た、王太子にそっくりな顔で。
そんな馬鹿な。と本日何回目かわからないことを思いながらも、ベルタはフェリクス王子の灰緑の目に、違和感を感じた理由を納得した。
あの顔立ちには金緑の瞳ほうが似合う。
「あ、なた、まさか」
あ然と魔法使いを見つめる人々の中で、血の気も微笑の影も失せた王妃が淡色の唇を震わせる。そのまま、とっさにというように王子を隠すような位置に移動した彼女に、魔法使いは「何もしませんよ」と微苦笑した。
「あなたは変わらない。昔、私はよく、あなたが後悔してくれただろうかと、考えることがありました。フェリクスを恨んだことすらあったかもしれません」
魔法使いは長いまつ毛を伏せ、室内を向いたまま後ろ手で鏡に触れた。瞠目する王妃に、今ではどうでもいいことですけれど、とつぶやく。
今はもう、いいのですけれど――
そうして、再び発生した光の中にかき消える前、彼は舞踏会で姿を消していながらもそうしたように、優雅に一礼した。
「どうぞ王太子殿下とその妃となる女性のために、末永く幸福の薔薇が咲き続けますように」
応接間に静寂が訪れる。
当分の間、誰ひとりとして微動だにすることも、鏡から視線を逸らすこともできなかった。
「…………今のは」
最初に口を開いたのは王太子フェリクスだった。その声を合図としたように、室内の人々が動き始める。
シンデレラから身を離した王子は鏡に近付き、王妃は腰が抜けたように床に座り込み、ベルタは老男爵が涙を流しているのにぎょっとした。
「だ、男爵。どうなさったんです」
うろたえながら、とりあえず今度はベルタが杖代わりになって、部屋から連れ出そうとする。廊下に出て、扉を閉めようとしたとき、王子と王妃が何か喋りだしたようだったが、もう意味は届かなかった。
「生きておられた……ご無事で、生きて……」
回廊から中庭に出、見つけたベンチに並んで座り、嗚咽を漏らす老男爵の背をなでながら、ベルタは男爵の言葉の意味ではなく、魔法使いが見せた寂しげな眼差しの意味を考え続けていた。
そう日を置くことなく、王太子と『ガラスの靴の乙女』は結婚式を挙げることとなった。
心優しい姫君の取り計らいで、まま母や義姉たちは今までの意地悪を許された。そして、それだけでなく、お城で暮らせるようになり、立派な結婚相手まで紹介されたのだった。物語通り。
結婚式の前夜。翌日王太子妃となる姫君の部屋を訪れ、共にバルコニーに出た下の義姉が月を眺めながら聞いた。
「ねえ、もしあたしが王子様に惚れ薬を盛ったんだって言ったら、どうする?」
手すりに寄りかかっていた姫君は、あくびを噛み殺しながら、友人でもある義姉を見た。
「その薬、いつか切れる?」
「たぶん……切れない。一生」
「そう、ならいいや」
「怒らないの」
「怒らない」
「ふぅん……」
ごめんなさい、とベルタは俯いた。シンデレラはちょっと笑い、夜風が金と朽葉の髪を揺らしていく。
「おめでと、実愛」
顔を上げて、ようやくベルタは言った。昔の名前を呼ぶのは、これで最後にしようと思いながら。その気持ちを察したのか、ちょっと目を見張った友人は、彼女の顔を覗き込むように、首を傾げた。
「あの、さ……時乃はいいの? 上の義姉様は紹介した結婚相手を気に入ってるみたいだけど、時乃は、いいの?」
ベルタは先日王太子とシンデレラの紹介で、婚約者となった男性の顔を思い浮かべた。義妹の結婚式が終わったら、すぐに自分のばんだ。
手すりに肘をついて、月光に浮かび上がる王都を眺めた。ずっと向こう、闇に沈む場所に、きっと魔法使いの森はある。知らず、笑みを浮かべていた。
「ええ。だって『そうして皆幸せに暮らしました』ってお話は終わるものでしょ」
シンデレラは何かを言いたげな顔をしたが、ベルタは言わせなかった。おやすみ、と明日国中で一番幸せな花嫁になる義妹を抱きしめて、背を向けた。
ずるずるとドレスの裾を引きずって、ベルタは自分に与えられた寝室に向かって廊下を歩んでいく。
夜が明ければ結婚式。物語が最後のフレーズを歌うときは、確実に、一秒ごとに近付いて来ていた。『めでたしめでたし』で終わる最後のページ。
でも、ベルタはその先のことを想像できない。
――どうして。
シンデレラの物語通りを完遂すれば、達成感でいっぱいになると思っていたのに。実際に胸に来着したのは、言いようのない寂しさと虚しさだけだった。
――あたしはこれからどうすればいいのだろう。
悄然と廊下の最後の角を曲がったベルタはけれど、足下に転がってきた物に思わず口角を上げた。
空は晴朗。
祝福の鐘は王国中に響き渡るようだった。
魔法使いの家は森の中にあった。
大きな鏡に映された義妹の結婚式を見ながら、ベルタは魔法使いが剥いたウサギりんごをかじった。
「めでたしめでたしの結末はどこいったのよ」
「王子とシンデレラの結婚で『めでたしめでたし』ではなかったんですか」
ベルタは口ごもった。
「それは……そうだけど。だからって、あそこでひとりで立ち尽くしてるあたしの婚約者どうしてくれるのよ。思いっきり気の毒じゃないの」
「あなたがご年配好きだとは知りませんでしたよ」
鏡にはフェリクス王子とシンデレラ、国王夫妻、ベルタの母と姉とその婚約者、プラムベルガー男爵が映っている。彼女が紹介された男性貴族は、なんと老男爵だったのだ。
七十ウン年独身の男爵は「あなたほど楽しくて優しい、素晴らしい女性は他にいません」ともじもじしながら花束を持ってきた。すごい歳の差求婚である。
幼妻にもほどがあるかもしれない。と思いはしたが、まあこれも物語の結末なのだから、なんでもいいか、と彼女は花束を受け取ったのだった。
「だいたい、何の用なのよ。こんなの寄越して」
憤然として、ベルタは昨夜自分の足下に転がってきてから、ポケットに入れっぱなしだったガラスの靴の片方を取り出し、魔法使いに投げつけた。
靴の中には『招待状』と書いてある。謎の招待を受けてここに来たのはベルタ自身だが、来た途端疲労で眠りこけてしまって、起きたらもう結婚式が始まっていたとは誤算だった。
「遅刻だと走っていかずに、こんなところでりんごを食べているあなたもあなたでしょう」
二個目のりんごを剥いていた魔法使いは、首を傾けるだけで靴を避け、平然と言う。
「それに、まだ『お願い』を聞いて貰っていませんでしたからね。契約を忘れてはいけません」
「じゃあ早く言いなさいよ」
「結婚式が全部終わったら言いますよ。条件は『シンデレラが無事王子様と結婚したら』でしたから」
新しく誕生したウサギちゃんたちが、ぴょんぴょんと次々ベルタの前に置かれた皿にやってくる。そのうちの一匹をつかまえて、少女は顔をしかめた。
「いつも思うんだけど、なんであんたにりんごを剥かせると全部ウサギになるの」
「それはですね、昔々、私の母が唯一手ずから食べさせてくれたのが、ウサギりんごだったからなんです。……まあ魔女もびっくり毒りんごだったんですけど」
それは確かに、びっくりで済ますのはどうかと思うくらいにびっくりだ。だが気まずげな表情をするには、あまりにも魔法使いがあっけらかんとしている。
まさか今のは冗談かといぶかったベルタは、探るように聞いた。
「ねえ魔法使い、もしくは悲劇の王子様?」
「誰のことですか、ベルタもしくは時乃姫」
「………………ベルタよ。時乃はとっくの昔にマヌケな親友とお亡くなりしてお星様だから」
「ま、そういうことです」
なんで知ってるのよ、というため息は、かわいそうな一匹のウサギに吸い込まれて消えていった。
机に頬杖をついたベルタは、彼がりんごに集中しているのをいいことに、毒なしりんごを咀嚼しながら、机の向こうの女神像によく似た顔を観察する。
「あんたのお母さんってどんな人だったの?」
「先代シンデレラみたいな女性ですよ。ガラスの靴はありませんでしたが、彼女は自分で魔女と契約して、魔法のドレスで舞踏会に行ったんです」
「…………惚れ薬も使ったかな」
「彼女は使いましたが、今回は使っていませんよ」
魔法使いは軽い口調で答えた。
「王子が薬を飲む前にあなたの義妹は登場しましたからね。せっかく作ったというのに残念なことでした」
ベルタは十二匹目のウサギりんごを取り落した。
「あ、のね……そういうことは早く言ってよ。あたしとしたことが、うっかり謝っちゃったじゃない」
「それは良いことです」
さらりと言って、魔法使いは少女に睨まれた。
――――鏡の向こうでは楽団により明るく軽快な二拍子が奏でられ、立食パーティーのかたわら、人々がダンスを始めていた。
ウェディングドレスを着て、ガラスの靴を履いたシンデレラは、王子と楽しそうに踊り回っている。それをしばらく眺め、気を取り直したベルタは聞いた。
「踊らない? あんたがへたでも気にしないわよ」
「言っておきますが、あなたよりはうまいですよ」
今度は断らなかった魔法使いが立ち上がって、朽葉色の髪の娘に腕を差し出す。ベルタはりんごの果汁つきの手でそれを取り、椅子から立ち上がった。
「やっぱりガラスの靴は履きませんか」
速いテンポに合わせて、近づいたり離れたり一緒にまわったりしながら、相手の繻子の靴に気付いた魔法使いが苦笑する。言われた相手は鼻で笑って答えた。
「あたしあの靴の踵じゃ踊れないわよ。それに古今東西、王子様に選ばれるシンデレラ以外、ガラスの靴は足に合わないって決まってるの」
そうですね、と同意した金緑の瞳は明るく、朽葉の瞳もまた明るかった。そして、ふたりは曲に合わせて手を伸ばした――――
――――……手を合わせて仲良くへたくそなステップを踏みながら、ベルタがふいに口を開く。
「ねえカジミル」
「…………なんです」
「あたしここにいてもいい? ずっといてもいい?」
魔法使いは子供みたいにきょとんと瞬き、次いで踊りも忘れ、涙がでるほど本当に本気で笑い出した。
「ふ……くっ……ふ……は……ははは……っ!! まったく愚かなひとですね! 私の『お願い』を取ってしまうなんて!! ……くくっ……! 他に望むことなんてなかったのに、どうしてくれるんです。おかげで考え直さなきゃいけないじゃないですか!!」
身体を折り曲げて大笑いする、もはやぜんぜん女神に見えない表情の魔法使いを、真っ赤になったベルタが殴りつけた。
――――数ヶ月もしないうちに、王都では、王太子妃の義姉のひとりが、なんと森の魔女に食べられてしまったという噂が流れた。
しかし、人々がどんなに物騒な噂をしようと、今日も王国の森には、平和に魔法使いが住んでいる。
彼がベルタに何を願ったかは、また別のお話。