私は一時間後に死ぬらしい
高校からの帰り道のことだった。
今日は欲しい漫画の発売日であることを思い出し、麻衣はふと立ち止まった。本屋はすでに過ぎている。引き返さなければならない。そう思って、麻衣は来た道に足を進める。すると、誰かがこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「おーい、麻衣待ってくれ!」
声の主はすぐに分かった。聞き間違えるはずがない。そして見間違えることもありえない。高校指定の制服に身を包み、顔にはまだ少年特有の幼さを残している。彼の名前は米田健といった。
現在麻衣は健と付き合っている。つまりは恋人の関係である。一年ほど前に二人の関係は始まった。麻衣は健から校舎裏に呼び出され、そこで告白をされたのだ。
健は中肉中背で、顔は特別良いというわけではないが決して悪くはないといった感じの、一言で言ってしまえばごくごく平凡な少年だった。そんな彼のことを特別意識したことはない。男子としてではなく、ただのクラスメイトとしての認識だった。だが校舎裏に呼び出す、などという大胆な行動をされては、その認識はいとも容易く崩れ去ってしまう。
麻衣は当然のように期待した。頭の中で予行練習を行う。期待が裏切られることも想定済みだ。今の麻衣に死角はない。しかし、いざその時がやって来ると、心臓の鼓動が普段の五十倍は早く刻まれる。健が何かを言っていたが、よく分からない。麻衣は流されるままに、うなずいて告白を受け入れてしまった。
告白を受け入れたときには、これから特に好きでもない相手と上手くやっていけるのか、といった不安が込み上げてきたことを覚えている。軽率な自分の行動を後悔した。
しかし、その不安も後悔も彼と言葉を交わすたびに解消されていった。
麻衣は健とよく気が合い、普段の何気ないことを話すだけでも楽しいと思えた。何よりも彼の笑顔は魅力的だ。告白される前の印象は大きく変わり、彼のことが誰よりも格好よく見える。今では彼と会うことが楽しみでしょうがない。恋は盲目とは、シェイクスピアもよく言ったものだと思う。
彼とはいつも都合が合う限りは帰りが一緒だ。しかし、今日は委員会の会議があるから先に帰ってくれるかと言われ、麻衣は一人で帰っていた。そこに健がやってきた。一体どうしたのか。会議が中止にでもなったのだろうか。
とりあえず麻衣は、健の額に浮かんだ汗をハンカチで拭った。
「どうしたの、会議はどうしたの?」
「会議は抜け出してきた。でもそんなことはどうでもいいんだ。今から話すことをよく聞いてほしい」
「え、なに?」
健は息を切らせながら麻衣に言った。内容は、午後の五時に私が死ぬというものだった。
現在は午後四時十分。死ぬまでに残り五十分。
健は次々と信じられないような言葉を次々に話した。彼は自分が死ぬと、私が死ぬ一時間前に戻ることができ、私を救うために行動してきた。そんなことを言う。突拍子もない、とはこのことだ。話はまだ続いた。
健は死を繰り返すことが今回で四回目。
最初に麻衣が駅のホームで電車に轢かれて死んだ。その際に健は悲しみ、あまりの絶望の深さに自らの命を絶った。
その後、意識のよみがえった彼は、気づくと学校の会議室にいた。会議の内容は聞いたことのあるものだったので、もしかすると時間が遡っているのでは、彼はそう思ったらしい。健は麻衣を救うために会議を抜け出した。そして麻衣と行動を共にしたが、目を離した隙にまたも電車に轢かれ死んでいた。健はもう一度時間を遡るために、命を絶った。
そして、またも会議室に戻った健は、自分が死ねば麻衣が死ぬ前に戻ることができると確信した。
それから健は、麻衣に寄り道をしようと言い、駅とは真逆の方へ誘導した。だが、工事現場から鉄筋が落ちてきて麻衣は死に、彼はその後自殺。次に健は校舎へと麻衣を連れ込んだが、放火が起こって二人ともが死んだ。
そして今に至る。麻衣が死んだ時間はいずれも午後の五時だったという。
普通の人が聞けば「こいつ頭おかしいんじゃないか?」と言葉にするか、心の中で思うだろう。だが麻衣には、健が真剣に話している表情が、嘘を言っているようには思えない。彼が冗談をいう時には必ず癖が出る。唇をちょんっと僅かに突き出すのだ。その仕草が、今の健には見られない。だから、というわけでもないが、麻衣は健を信じてみようと思った。彼を信じることができるのは私しかいない、そう思ったからだ。
「正直信じられない話だけど、健が本当だっていうなら私はそれを信じるよ」
「ありがとう、やっぱり麻衣は信じてくれるんだね」
やっぱりということは、死んだ私も彼を信じたということだろうか。
「当然だよ、でもこれからどうしたらいいの?」
「麻衣の家に行こうかと思ってるんだ」
「え、私の家に?」
「うん、外にいると何が起こるか分からないし、麻衣の家なら安心かなって」
「でも私は電車に轢かれたんだよね? 家に行くまでに死んじゃうんじゃないの?」
「電車に轢かれた麻衣は駅に行く前に本屋に寄っているんだ。だから本屋に寄らなければ普通に電車に乗れると思う」
たしかに私は、健に話しかけられるまで本屋に寄ろうかと考えていた。
「それに、毎回死ぬのは五時。これって逆に言えば五時までは死なないってことだから麻衣の家に行くまでは大丈夫だよ」
「……分かった、健がそう言うなら」
「じゃあ急ごう、あまり時間はないから」
こうして麻衣と健は駅へと向かった。
◇◇◇
麻衣と健は特にアクシデントもなく、家にたどり着いた。
時刻は四時四十分。
玄関を開けると母が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。あら、お友達? どうぞゆっくりしていってね」
「はい、おじゃまします」
「部屋に行ってるから、お母さん火とか気をつけてね」
「……なんで火なの?」
「なんでも」
二階に上がり、健を部屋にあげる。
「ちょっと散らかってるけど……」
「いや、そんなことないよ。それよりも五時まで何もなければいいんだけど」
一応ドアと窓が開くのを確認したりして、時計とにらめっこしたまま五時が過ぎるのを待ってい
た。
現在の時刻は四時五十五分。健が言っていた死のタイムリミットが迫ってきている。なにか死につながるような事態が起こっているのかを把握するため、耳を澄まし、物音ひとつたてずに静かに待っていた。
そして事は起こった。
「きゃああああああ!」
下の階から悲鳴が聞こえる。母の声だ。
「……下の階で何かあったんだ。様子を見てくるから、麻衣はここで待ってて」
「わ、わかった。無茶はしないでね」
「うん」
いったい何が起こったのだろうか。母は無事なのだろうか。健の言う死が身近に迫ってきていることを感じて、麻衣の背筋に悪寒が走る。
その時下が騒がしくなる。何かが物にぶつかるような音、男の声が……二人。
「ひっ」
家には麻衣と母と健しかいない。男は健一人だ。声が明らかに一つ多い。父はまだ働いている時間なので、父の可能性はほとんどない。
今この家には私の知らない誰かがいるのだ。
物音がなくなり、家の中は一瞬静まり返る。
階段を上がってくる足音が聞こえる。その足音が部屋の前で止まる。
麻衣の体は震え、身動き一つとれなかった。
開かないでという願いは届かずに、ドアがゆっくりと開かれる。
見えたのは、黒いパーカーを着てフードを被っている知らない男の姿。手には赤い液体が付着した刃物。
声が出ない。もう私は死ぬしかないのだろうか。その刃物で母と健は殺されてしまったのだろうか。
そう思った瞬間に男の体が横に吹っ飛ぶ。
「麻衣逃げろ、速く外に出るんだ!」
―—健……生きていた。
震えている足をどうにかして立たせ、部屋を出る。
廊下では健がパーカーの男の体を押さえつけている。健の腕は切り裂かれ、血が滴っている。かなりの深手だろう。傷の手当をしてあげたいが、状況が状況だ。それに健の行動を無駄にするわけにもいかない。
階段を下り、玄関から出ようとした。その時に少し振り返ると、血だまりの中に手が見えた。体は部屋の中にあるので見えないが、あの手は恐らく……。
涙が溢れ出して止まらない。止めようと思っても次々と出てくる。
玄関を出て、隣の家に向かって歩き出す。助けを呼ばなければならない。
壁を支えにして何とか歩く。
なぜこんなことになったのか。私がいったい何をしたというのだろうか、歩きながらそんなことばかりを考える。すぐそこのはずの隣の家がやけに遠く感じる。
「麻衣! 避けろ!」
健の声が聞こえ、後ろを振り返る。
パーカーの男が目の前にいた。
今までに経験したことのない熱を持った痛みが脳に伝わってくる。
刃物が麻衣の胸に突き刺さっている。
体の力が抜けその場に倒れこむ。
男がどこかへ走り去っていく姿と健がこちらへゆっくりと歩み寄ってくる姿が見える。
「ごめんな、また救えなかった……。でも今度は救ってみせるから」
かすれた視界の中で見えたのは、彼が取り出した瓶。その中身を飲み干した後に健は倒れこみ、ぴくぴくと痙攣していた。
自決用になにかしらの薬品を学校から持ち出していたのだろうか。
なら彼は失敗をした時の保険を用意していたことになる。
それは今の麻衣を救えなくても、過去に戻って過去の麻衣を救えば良いという考えを持っていたということではないのか。
麻衣は今を生きることしかできない。それなのに健は今の麻衣を置いて別の麻衣を助けに行くのだ。見捨てられるも同然だ。どうして自分自身に嫉妬の感情を抱かなければならないのか。麻衣の胸中は様々な感情で渦巻く。
薄れゆく意識の中、麻衣が最後に思ったことは「一緒にちゃんと死んでくれればよかったのに」だった。
終