裏野ハイツ5・あとを尾ければ
自称、売れない芸人の横田は、パートナーを探していた。
人生の伴侶となるべきパートナーを。それは、芸人の相方でもあるし、結婚相手でもいい。そうではなくて、師でも友人でも親でもカエルでもいいのである。自分の一生で、重要となる相手が欲しい。
「ちわーす」
「お、横ちゃん。今日は機嫌がいいね」
「そう? 普段と変わりないけど」
店の暖簾をくぐって入り、カウンター席の隅に座って親しく話しかけられているのは、常時、である。数回しか来てはいないのだが、ここの大将が客に関係無しに絡んでくるのであった。居酒屋ではなく寿司屋である。
「勝ったから来たんだろ? ここに来るのは金のある時だろ、おまいさん」
「まあそういう事で。大将、いつものやつ」
「あいよ。鯖がいいよ今日は」
まるで幼馴染の2人の様だが違う。今の住居に引っ越してきて、初めて贅沢しようと入った店がここであった。ポケットの中には儲けた額の金があり、ATMから下ろして腹が減った為に立ち寄った。大将が気さくに話しかけてくれるので、まだ情報の少ない新参者にとっては非常にありがたい存在となった。それから数年、大将も状況も特に変化はない。
「あれ、あの子は?」
カウンター席を外れてテーブル席にオデバナ(お茶)を運んでいったのは、見た事のない女性の店員であった。年は30代といった所であろうか、ややふっくらとした体型で、美人すぎではないが、かといってブスかと聞かれても、答えられない部類の顔である。
「ああ、マツコな。いや、本名は聖羅っていうんだが、デラックスなマツコさんの方が合ってんじゃない、ってぇ、勝手に呼んだ」
「勝手に、って大将」
思わず笑いそうになった。
「でも本人は気にしてなさそうだぜ、旦那、あんたもそう呼んでやってくれ」
「えー、そりゃどうだかなぁ」
わき見で彼女を観察していると、ふと目が合ってしまった。瞬間、横田の心臓が高鳴り、緊張が増す。
「おーい、サトコ。オデバナこっち」
「あれ、サトコって?」
「おっと間違えた。マツコー」
大将のボケはツッコミたくて横田は仕方がなかった。昔からあった「薬のサトちゃん」が目に浮かんだ。そうそう、その様な、象の感じである。
「はぁい、なー」
高質の元気なソプラノ声が響く。返事をして間もなく湯のみが運ばれてきた。「すみません」
「ごゆっくり、ね」
朗らかな、春のうららの隅田川と歌い出したくなる様な、気持ちのよい声であった。
横田は、大将が握ってくれた寿司を食べながら引き続き世間話をして、パートに来てくれている彼女の事を知っていった。まさかこれが恋であるとは思わずに、横田は彼女に対して好感度を上げていった。
私、本当は女優になりたいんです。
モンローやヘプバーンみたいに魅力的で素敵な女性には到底無理かもしれないけど。
打ち解けて次第に気軽く喋っていると、彼女の素性も明らかになっていった。地方から出てきて、近くに住んでいるらしい。いずれは田舎に帰って年ゆく両親の老後の面倒をみたいとも言っていた。
随分と差をつけられた様に感じて参ったな、と横田は自分の身が恥ずかしくなってはいったが、真面目に働こうと前向きに考える事が多くなった、彼女や大将のおかげである。
さてそれで。
横田は、ある日、彼女の退勤時間と重なり、何処に住んでいるのかと興味があった。なので、彼女のあとを尾行してみたのであった。
するとどうであろう、見慣れた建物に入っていくではないか。「嘘だろ」信じられない、何かの間違いではないかと思った。
『裏野ハイツ』、【202】号室――。
彼女は、そこに鍵を開けて入って行ったのであった。鍵を持って入れるという事は、そこに住んでいるのか? はたまた関係者か? 謎がさらに深まっていく。「どういう事なんだ……」部屋の手前で立ち尽くす横田に、背後から影が近づいている。
そしてボカッ、と、堅い音がして、横田は倒れた。誰かが横田を殴って気絶させたのである。
横田は気がつくと、天井があった。
それと同時に、知っている顔も。「大丈夫ですか……?」マツコこと聖羅である彼女の、心配そうな顔である。だが彼女はひとりではなく、もうひとり傍らに居た。
「起きましたか……」
横田は即座に声を上げてしまった。
「北野大路、匡世!」
なんと、その場にいたのは今が旬の若手女優、テレビなどのメディアで活躍中の、北野大路匡世である。
「何でこんな所に!?」
素っ頓狂な声をあげて、無理もない、芸能人がこんなに近くにいたなんてと、横田は始め信じられなかった。
「ごめんなさいね、ウチのマネージャーが焦っちゃってて。頭、無事ですか」
頭?
そういえば、ズキズキと後頭部が痛い。たんこぶができていた。
マネージャー?
ゆっくりと落ち着いてみれば、もうひとり。横田が寝ていた布団の周りには、女性が3名居たのであった。聖羅、匡世、マネージャー。どの顔ぶれも、横田を気遣っていて優しい。
「ごめんなさいね、襲っちゃって」
マネージャーと言われた女性にも、覚えがあった。
「あ、あれ? アンタ、管理人の?」
「はあ。お久しぶりです。でも私、実は管理人の妹です」
ハイツの管理人は心臓発作で亡くなってしまったが……。
「こうなったら、全部事情をお伝えしましょう」
匡世は、ここに居る理由を話し始めた――。
匡世の話。
匡世は、ストーカー被害に遭っていた。ツイッターでは「会いたい」と頻繁に書かれ、ブログで近況を書けばコメントで必ず「いつかお会いします、でないと」と、恐ろしくなる様な脅し文句を書かれていたそうである。
マネージャーと共に警察などに相談もしに赴いてみたが、聞き入れてくれたものの進展はせず、やはり事件にならないと行動は難しいのだと痛感した。
それが、引っ越してくる前の話である。匡世は怖くて怖くて夜も寝られなくなって、親やマネージャー、事務所などと相談し、環境を変えようと引っ越しを決意したのである。
名乗りをあげて協力してくれたのが、『裏野ハイツ』の管理人の妹であり、匡世のマネージャーでもある女性であった。それならハイツの空き室をお貸ししますよ、【202】号室が空いてます、両脇の部屋は空き室と、年金でほっそりと暮らしているお婆ちゃんだけですから。隠れて住むにはいいと思うのですが、ね。
残念ながら女優には駆け出しでお金も無かった匡世と事務所には、いい話であった。マネージャーも親切で、自分が絶対に守るからと背中を押してくれていた。それは相談していた親友の聖羅とて、同じ事を考えてくれたのであった。匡世にとっては、非常に心強い。
「だからアナタも、この事は、秘密にしていて欲しいの」
最後に、頭を下げられてしまった。「分かりました……」匡世には興味が無いが、親友、であるという聖羅の頼みならとむしろ逆に妙な正義感が沸いてしまっている。
「管理人のお兄さんは、心臓発作で亡くなってしまったけど、あれは私が原因なの」
悲しそうに、匡世が呟いた。
「どういう事?」
横田は首を傾げていた。
「あの日、鍵を持ってたお兄さんは、いきなり部屋を開けたのよ」
あまり思い出したくはなかっただろうが、匡世は記憶を遡って、真実を伝えた。
「お兄さんは、私が……女優の北野大路匡世が、こんな所に住んでたなんて知らなかったの。私が引っ越しでここに住んでいる事を知っていたのは、このメンバーだけ。親も事務所も引っ越したのは知ってても場所までは知らないし、限られた人にだけしか教えない事に徹底したの。全ては……」
唇を噛みしめて言った。
「怖かったから……」
横田は、可哀想に、と思って俯く匡世を眺め、気の利いた言葉が思いつかずに、ただ見守っていた。
想像を、働かせる。
亡くなったその日は、管理人と会話をした人物が居たのである。
猫の鳴き声がするんですけど。
きっと別れた後で、管理人であるお兄さんは、【202】号室に確認しに行ったに違いない。
そこで、女優で今が駆け出しのアイドル的な存在、いやひょっとしたらお兄さんもファンだったのかもしれない北野大路匡世が居たものだから、さぞや夢かと驚いた事であろう。心臓が止まるほど、びっくりして帰らぬ人となってしまったのである。
何とお笑い草であろうか。
「じゃあ、読経は?」「読経?」
横田は思い出して、もしやと思った。
「お経の声だよ。お経を読む声がしょっちゅう聞こえたものだから、あれも匡世さん絡み?」
しかし匡世は何の事と白い返事であった。「ああ、あれは私と……」と、別の所から返答が来ている。言い出したのはマネージャーである。
「居るでしょ、【201】号室に住んでるお婆ちゃん。あの人にも、いつも協力をしてもらっていたりするの。今回はお経を読んでもらって、それを録音したテープで、ハイツの住人を部屋から追い出そうとしていたわけ」
「何だとおー!?」
怒りを露わに声をあげていた。
「だってバレたら困りますもん。早く皆、出て行ってくれないかなー、ってね」
身勝手な答えであった。さっきまでの同情を返せと横田は言いたくなった。
「まあいい。管理人が亡くなった時、契約はまだまだ更新は先だなと思ったが、どっちみち、部屋を出て行こうとはほぼ決めていた事なんで。ああとにかくこれでスッキリしたよ、ありがとう」
深く息をした。「ん?」横田は、匡世の傍に置いてある冊子に気がつく。
どうやら創作物の様で、『ハイツ男』とタイトルに書かれていた。「ああそれは、舞台の台本です」
横田の視線の先を追って説明してくれた。ハイツ男が人間を自分の体内に取り込んで、完全体になる話であった。
「ドラマの練習をしていたりするので、声が漏れていたのかもしれなかったですね、ごめんなさい」
では猫の声も。
こうやって紐解いてみれば、何でもない事であったりするのだ……。
合掌。
さわさわさわ……。
ぬるめの風が、そよぐ。
気温が上がってきた様である。今夜は、蒸し暑くなりそうである。
『裏野ハイツ』も、大詰めである。
「ふわぁ~」
大欠伸をしながら、横田は自分の部屋である【102】号室に戻ろうとした。階段を下りると、賑やかな声が聞こえてきた。
「さー、行きましょうね~。海老と蟹のフルコース。焼き肉の食べ放題。デザートは何にしようかしらららん♪」
「和牛の食べ放題だったらいいな」
夫婦の声であった。横田は直ぐに気がついた、【103】号室の家族である。
「そんな高い物なんてないわよ。海老でいいわ、海老」
横田が階を下り切ると、丁度、家族とはすれ違いになった。どうも、とお互いに挨拶をする。
(あれ……?)
夫婦とすれ違いになった時に、目線を下げて混乱した。夫婦の間に子どもがひとり居たのだが、見た事がない子どもであったのだ。青いパーカーでグレーのズボン。顔を見たが、猿ではない、大人しそうな子どもであった。
(あれが、あの夫婦の子ども?)
もう外食にでも行ってしまったが、あれは確かに「あの子」ではない。あの子――いつも階段で見かける、猿に似た子。
では、ハイツの人間ではないのであろうか、という事になる。
(うーん……)
考えても埒があかないので、無視する事にしようか考えていた、その時であった。
スッと、影と足音がしたと思ったら、今しがた出かけて行ったはずの【103】号室の前に、子どもが現れたのであった。
そして、微笑んで、白く霧にでもなった様に、消えてしまった。
何も痕跡が無く。
まだ謎は、残っている。




