裏野ハイツ3・お引越し
いきなり、であった。
K戸芸術工科大学造形表現学科に所属し通っている学生、水涼が公園でスケッチをしていると、男が近づき話しかけている。「やあ」
男は水涼よりも頭ひとつほど高くTシャツにスウェットパンツ、少しだけ焼けた肌、黒のキャップを被り、学生にも見えるが大人びていた。「昨日も見かけた」相手を真っ直ぐに見ている。相手とは水涼だが、突然に話しかけられ身構えた。「どうも……」持っていた4Bの鉛筆にも緊張が伝わって小刻みに震えていた。
「ここは気持ちがいい場所だね。広いし、キレイだし、木陰が多くて涼しいのが最高だね」
好きな様に公園を賛美する。差し障りのない話が暫く続くのであろうか。「あの……」水涼の言葉は尻切れてしまい間ができてしまった。
「悪い。驚かせてしまったかな、っと」
頭を掻きながら、照れ笑いをした。「あ、いえ……」スケッチブックで顔を隠してしまいたかった。
「頼みがあるんだけどさ」
「え?」
「凄く不躾なお願いみたいだけど、強制ではないんだ。賃貸で、住んで欲しいとこがあるんだ。住んでくれないかな」
男が飄々と、理解不能な事を言い出した。「はあ?」水涼の顔が曇る。
「『裏野ハイツ』っていいます。家賃は4万9千円で、敷金は要りません」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「他の住人達も物静かで穏やかな人ばかりだよ。住むには悪くないと思うんだ。どうかな?」
「あの。いきなりそんな事言われても困ります」
当然と言えば当然と、水涼は嫌そうな表情をして、男から数歩退き、断った。
「そう。残念」
男の方も困った顔で、肩を竦めている。
(そんな顔されても……)
水涼は呆れて溜息をついた。「じゃ、またね」幸いな事に男の方から立ち去った。姿が見えなくなると、残された水涼はやっと安堵する。
「何だったのかしら今の」
鉛筆を握りしめ、頭の中を整理しようとしたが、すぐに慌てた。「いけない!」
人と待ち合わせていた事を思い出した。さっきLINEで時間を決めたばかりである。スマホで時間を見てから大慌てで片づけて去って行く。
彼氏から「大事な話があるんだけど」と呼び出されていた。
3年間。長いようで短い期間である、と水涼は思った。
夏至が近づく頃であった、彼氏である正岡と出会ったのは――初めての飲食店でのアルバイトで、まだ社会常識なども身に着いていない水涼に、バイトリーダーとしていつも横についてくれていたのが正岡であった。
「よろしくね。水涼さん」
「あ、はい。よろしくお願いします」
初々しい水涼に、正岡も好感を持っていた様で、2人はすぐ交際を始めた。初めてのデートは、学生の水涼に合わせて美術館と映画であった。正岡は優しくて、水涼にとてもよく理解を示してくれて、自分もクリエイティブな世界で活躍する様な職につきたいと夢を語っていた。水涼は、お互い頑張ろうねと励ましあい、辛い時でも支え合い、順調に恋人でのステップは踏んでいき、不安に思う事など思いつきもしなかった。
3年――3年が経つ。夏至が近づく頃であった。改まって話って何だろうと思いながら、水涼は待ち合わせに来たカフェで紅茶を注文した。「さっきさ、そこの公園で変な人に話しかけられちゃってて。それで遅れた」言い訳をすると、無表情であった正岡の眉がピクリと反応する。
「変な人って?」
「それがね……」
ありのままを話す。危ない感じがした、と付け加えた。
「ふうん……『裏野ハイツ』さんね」
「知ってるの?」
「まあね。割と有名」
「え、そうなの?」
「うん。この前バイトで入った子も、友達が遭遇したって聞いた」
「じゃあ本当に危ない奴なのかな。お巡りさんに言った方がいいのかしら」
「言ったってどうせ何も動いてくれないよ。事件じゃないし。何か起こってからじゃない」
「いきなり理由も話さずに住め、だなんて。信じられない。何処にあるのか知らないけどさ。怪しすぎて考えなくても却下よ。ありえないありえない!」
正岡の前では緊張感もなく、大げさに首を振っていた。すると注文していた紅茶が運ばれて、備え付けのミルクとシロップを全部入れる。「で、話って何?」と、スプーンでかき混ぜながら水涼が思い出した様に正岡に尋ねた時である。
正岡の様子が、いつもと違う気がして心配になってきたのである。「どうしたの……?」それまでは傾聴に聞いてはいなかったが、不安になって窺った。
「別れてほしいんだ」
真剣な顔で水涼を見つめ、目を逸らさずに、言葉を伝えていた。
その帰り道。
送っていくからと言われても「いい」とキッパリ断って、ひとり公園前まで歩いて来た。
別れ話だった……現実が、水涼をがんじがらめにする。実感がじわじわと、水涼を苦しめていくのであろう。公園には夕方に、若いカップルなどが多い、来た事を後悔していた。
(ひどい……)
涙があふれる。
(そんなのって、ないよ……)
見かけたベンチに座り、手で覆われた顔……指の隙間からは、粒になった涙が流れていた。
正岡の言い分はこうである。
バイトを、やめる事にした。それは、海外留学のために。
大学で知り合った友達に誘われて盛り上がってその気になったらしい、夢を叶えたいんだ、と水涼に言った。目を輝かせ、意向を曲げる気など全然なさそうに、それから、「別れよう」と言い放つ。「何で?」と水涼は思った。「何で、ついて来いとか、待っててとか言ってくれないの?」と、悔しさが水涼を取り巻く。
引っかかる事があった。同じバイト先の女の子である。
最近になって入ってきた新人で、可愛いし、バイトリーダーである正岡とも仲良くやっていた。慣れない新人について回っている事が多く、水涼の知らない所で何か間違いがあっても不思議ではない気がする。「まさか……」思い当たる節もある。水涼を置いて、2人で帰って行った事もある。「そんな」可能性を突き出すとキリがない事が今の水涼には分からないのであろう。「ばか……」誰に対しての「ばか」なのか。
「ありえない……」
涙が、止まらなかった。
すると、水涼の前に、誰かが近づいて来る。
足が止まった……水涼の前に、立ち止まる。
「どうもこんばんは」
知ってて近づいてきた男に、顔を上げた水涼は声をあげた。「あな、たは」声が掠れる。
覚えていたままの姿であった、Tシャツにスウェット、スニーカーを履いている。帽子は被っていなかったが、スウェットのポケットに仕舞われていた様である。
「仲介屋……さん」
苦しかった胸を押さえながら、声を絞り出していた。
「仲介? 違うけど。まあいいや。何で泣いてるの? 彼氏にでも振られたりして」
さらに水涼の内中をえぐっていた。一度は抑えたはずの感情が、再びに浮上する。「うっく……」涙が堪えきれずにまた流れて出る。「ひっく……」嗚咽が止まらない。
「あ、ごめん!」
男が汗をかきながらアタフタし始めた。図星であったのを悟ったのか、これはマズイと、今度はいきなり両手を握りしめたのである。「ごめんな! ほんっと、ごめん!」何度も謝った。
手が熱かったが、水涼は気にしなかった。それより、段々と落ち着いていくにつれて、ひたすら謝ってくれている男に申し訳ないなとさえ思う様になってくる。「もういい」水涼は難しい顔のまま、ベンチから立った。
「帰ります……ありがとう」
赤い顔をして俯いたまま、お礼を言った。そして去ろうと、男の横を通り過ぎようとした時である。「待って」と、水涼の肩をとった。「一緒に住まない?」驚いて男を見る。
(住む……?)
過去を即座に思い返す。男が、していた話を。『裏野ハイツ』――誰がつけたであろう、その名前。鈴木さんは『ウッドベル』などとつける事があるのだが。これが田中だと『ライスフィールドセンター』になるとか、ややこしい。
(ありえないけど)
冷静になってきて、考える。
(とても、ありえないんだけど)
否定をするが、理屈では納得がいかない様である。
(何処か遠くへ行きたい……)
家に帰っても、彼氏との事を思い出してしまう。2人で撮った写真は飾ってある、デートで買ってきたポストカードが壁に貼ってある、誕生日にもらったカバンが置いてある、クローゼットには服が、思い出の品が、好きな色が、言葉が、時間が……今すぐ帰りたくはない。
「連れてってくれますか……?」
頼りない落ち込んだ声は、消えそうなほど小さかった。
すんなりと承諾した事が虚をついたのか、一瞬だが変な間が空いた。やがて男は、ふ、と笑って頷いて言った。
「もちろん。助かるよ」
理由もなく住めと言う。家賃は4万9千円で、敷金は要りません、と男は言っていた。男にとっては感謝すべき話なのであろうか、水涼は男に身を任せた……。
「あ」
しゅるしゅる。
男の両手が水涼を掴むと、水涼の身体が消えて無くなった。しゅるしゅると。
「取り込み、完了」
上手くいった様であった。「これで、埋まったな」部屋の空きが無くなったらしい。
彼は、『裏野ハイツ』――築30歳、木造らしいので、火気は厳禁である。
穏やかに、お過ごし願う。