裏野ハイツ2・さ迷う人
管理人が亡くなった事で、裏野ハイツの住人に衝撃が走る。
諭のもとに管理人の身内らしき女性が訪ねて来てこのまま住み続けるかどうかを聞かれたのだが、急な話であったので頭の中で整理がつかず「ちょっと待って下さい」と頼んだ。そうですか、ではまた、と女性は速やかに去って行った。細身の若い、諭とはそう年も離れてはいなさそうではあったが、微かに笑んだ顔に好印象は持っていた。何処かの会社で事務とかやってんのかな、と去りゆく後ろ姿を見つめている。
諭は一晩、住み続けるのかどうかを考えて、じゃあ……契約の期間が切れるまでは、という事で、返事をした。
同じ考えを、ハイツの住人達は持った様である。誰一人、出て行った者は居なかった。
気になる管理人の亡くなった詳細だが、心臓発作を起こして倒れて、気づかれずに、そのまま――とだけしか伝えられず、もっと知りたい欲求は未消化に終わった。
地方紙で、小さく報道もされていた。『お悔やみ申し上げます』のコーナーである。
さわさわさわ……
風がそよぐ。
天気予報では東から東北にかけて、高気温と雨風の熱波が襲う、と発表されている。
南では、夕立などの注意を呼びかけられている。熱中症の用心もひっきりなし、と言っていいほど繰り返し伝えられていた。季節は夏――残暑になる頃、ハイツの上空から、一枚の紙が飛んで来た。
だいぶ傷んだ紙である。老朽化した紙には、地図が印刷されていた。
『表野ハイツ』
……は? 何それ。
【102】号室に入ろうとした男は、うっかり転びそうになった。40代の半ば、売れない芸人の男は今日も部屋に引きこもっているらしい。コンビニで唐揚げ弁当を買ってきて今からお昼に食べようと楽しみにしていたのだが。
「裏、だから表か。安易だな」
ネタとしては30点だな、と自己評価をして地図を捨て部屋に入る。油の匂いは弁当であると信じている。
やれ、今日も暑いぜ畜生……。
男のぼやきを聞く者は、残念ながら場には居なかった。作者と読者だけは聞いている。
夕立が毎日の様に訪れてくると、【203】号室に住む諭に、困る悩みの種が増えた。
いつ頃からかははっきりしなかったが、赤ん坊、または猫の鳴き声がする、と言い出してからそう間もなく、今度は寝ていると読経が聞こえてくる様になった。「経!」出所が不明である。
「おきょー! きょきょー! きょきょきょー!」
エアコンの無い部屋で、諭は吠えていた。夏だから仕方ないのか。誰かがスイカでも送ってくれないかと妄想が切迫していく。「かき氷に一票」
テレビでは知事選の報道しかしていなかった。
読経を気にしない様に悪戦苦闘する諭であったが、やがて眠りに落ちる。その頃には違う番組が始まり、新人女優が海外産の動物と戯れていた。
次ぐ『読経問題』に、諭は我ながら根性ねえな、と思いながら、契約を無視してハイツを出て行く事に最終的には決めたのであった。半年も持たずに仕事がクビになり、新たな仕事に就くためにと心一新、頭を丸坊主にして、逃げる様にハイツを去って行ったのである。
再びに空き室となった【203】号室に、柑橘系のニオイは――。
「ご苦労様でした」
「なあに、いつもの事……」
【203】号室を訪れた女性が、帰ろうと階段に差しかかった所で、通り過ぎた【201】号室からお婆さんがひょっこり顔を出したのである。妙な挨拶になった。
裏野ハイツには、時々だが、間違えて人がやって来る。
あなたの住まいは、ここじゃありませんよ、『表』の方ですよ……。
お婆さんはお経を読みながら、自分の部屋へと戻っていく。
真実は闇、謎は享楽。空き室は薔薇ではなくレモンの香り。