その四、マメ神様の言葉
「ハル! ハルーッ!」
もへ次は文字通り転げながら手ぬぐいの傍まで駆け寄った。川を見下ろすと、急斜面から転げ落ちたのだろう、川の中にハルの体が半分沈み、周りをざあざあと水が流れていた。
「ハル!」
もへ次は姿を見せてはならぬことも忘れ、大声で名を呼びながら川まで滑り下りていった。
ハルの顔は蝋のように白くなっていた。冷たい川の水が身体を打ちつけ体力を奪っていく。打ち身や骨折でもしているのだろうか、どうやら身動きが取れないらしい。
皺だらけの唇から、「たすけ……くんさい……」と弱弱しい声が聞こえた。
もへ次は必死になって「ハル! ハル!」と呼びかけた。だが、小人の叫び声など川音に紛れてしまえば聞こえないうえ、ハルはすでに意識が朦朧としているようだ。
「くそうっ!」
助けたくとも近寄れない。抱き上げたくとも丈も目方もまるで足りない。
もへ次はダンッ! と足を踏み鳴らした後、覚悟した。
「ハル、もう少しの辛抱じゃ! すぐに助けに来るからの!」
大声でそう叫ぶと、もへ次は崖を駆け登って手ぬぐいに潜り込み、そのまま木の幹によじ登った。万が一通りかかった人がいたら目に付くよう、広げるようにして手ぬぐいの端を小刀で留めて目印にする。
「待っとれ!」
もへ次は弾丸のように駆け出した。力いっぱい踏み締めて走っても、自分がカメにでもなったかのようにのろまに感じる。
(ハル! ハル! ハル!)
もへ次は心でハルの名を何度も何度も呼びかけながら、死にもの狂いで駆け続けた。
* * * * *
ハルがマメ神様を見たのは、子供の頃の一度きりだ。
年頃になり見合いをし、子を三人産み育て、それぞれ皆独立して出て行った頃、夫に先立たれて一人になった。
「母さん、ここの暮らしは不便で寂しいだろう?
あっちで一緒に暮らさないか」
都会暮らしの長男夫婦にそう言われ、ハルはゆっくりと首を横に振った。
「いんや。おらはここで死ぬ。家にはマメ神様もいらっしゃるけえ、ちいとも寂しかない」
「またそんな事を言って……。
マメ神様が母さんの話相手にでもなってくれるっていうのか? 仕事を手伝ったり、いざという時に助けてくれでもするのかい?」
呆れたような言葉にもハルはにこにこと茶をすすっているだけだった。
子供達も交えた話し合いの末、結局、時折誰かが様子を見に来るという事で話はついた。もともとハルはよく動き身体も丈夫だったため、今すぐ同居をしなくても大丈夫だろう、とそれぞれ納得したのだった。
ハルは毎朝欠かさずマメ神様にお供えをした。いつの間にか、それは朝だけではなく夕方にも追加されるようになっていた。
ハルはマメ神様を信じていた。出した料理が毎回消え、納戸の白木の重箱が怪しくとも、決して姿を見てしまわないようにと気を付けて過ごしていた。
なんとなく、姿を見てしまうと神様達が出て行ってしまう気がしていたのだ。
(今もお二人で暮らしてあるんかねえ……)
幼い頃に見た夫婦のような中年男女のマメ神様は、今でもハルの心の支えだ。辛い時、寂しい時はいつもその姿を思い出し、見守ってくださっているのだと言い聞かせる。そうするうちに、マメ神様に恥ずかしくないよう生きねばと、元気とやる気がわいてくるのだ。
(マメ神様が家にいてくださるおかげだねえ……)
コトコトとねずみにも似た小走りを感じるたび、ハルはほのぼのとした楽しい気持ちになるのだった。
山菜を取る前に川で水をくもうとして、ハルは高台から転げ落ちた。
幸い骨は折れていないようだが、すっぽりと足首が川底の岩の隙間に挟まっている。
「たすけてえ、たすけてえ」
声をあげてみたものの、元より人の少ないこの村に人通りなど滅多に無い。足を抜こうとしてみても、びくともしない。悪戦苦闘するうちに、ハルの身体が冷えてきた。春の川の水はまだまだとても冷たいのだ。
誰もやってこないまま、ハルの身体は少しずつ弱っていった。
(……おら、このまま死ぬんかなあ……)
それはそれで仕方無いと思った。自分の不注意でこうなった。一人残ってくらしたいと願った結果だ。
だが、ここで死んでしまっては、マメ神様はどうなるのだろう。今日の夕飯も、明日からもお供えも無くなってしまう。
マメ神様は神様だが、しっかり食べて動き回る生き神様だ。
神様の腹をすかせてはだめだ。
死にたくねえ、とハルは願った。
「たすけて……くんさい……」
神様……ああ、マメ神様はちっこいから無理だなあ。
どうか大きな神様、おらを助けてくんさい。
ちっこい神様が、腹をすかせちゃあ、なんねえんです。おらの家をしっかりと守ってくれているいい神様なんです。
お願いします、どうか、どうか……。
「ハル」
呼びかけられた気がして、ハルはそちらに目をむけた。
「もう少しの辛抱じゃ! すぐに助けに来るからの!」
声の主は、ハルが踏み外した斜面を駆け上がると、振り返って叫んだ。
「――待っとれ!」
それはとても小さな声だったにも関わらず、しっかりとハルの耳に届いたのだ。
声の主が姿を消すと、全てが夢だったのではないかと思った。
だが夢ではない証拠に、声の主は自分の手ぬぐいを木に留めているではないか。
ハルの目からじんわりと涙があふれだす。
(マメ神様が……姿を見せてくださった……)
それだけでない。
助けてくれると、待っていろと、そう叫ばれたのだ。
(……おらは……助かる)
薄れそうになる意識を保とうと、ハルは先程目にしたマメ神様の姿を思い出し、助けてくれるその時をじっと待ち続けたのだった。




