第9話
その日から、真っ白だった俺のスケジュールに、桃子との約束が書き込まれることになった。
毎週金曜日の夜。
仕事が終わってから俺は桃子の待つ学生寮に向う。
俺の覚悟に応えるように、彼女も俺に対する態度を改めたようだった。
まず、足の踏み場もなかった部屋がきれいに掃除されている。
あれだけ散乱していた雑誌や、洗濯物はどこかに片付けられ、小さな部屋がガランとして広く感じる。
その部屋の中央には彼女が座る折りたたみ椅子に、キャンバスが載ったイーゼル。
ヌードモデルの俺が横たわるベッドには真っ白なシーツが掛けられている。
彼女のモデルと芸術に対するリスペクトの表れだと、俺は受け取った。
何度かやっているうちに俺も恥ずかしさを感じなくなってきた。
元から兄妹だし、幼い頃は風呂にも一緒に入ってたんだから当然の成り行きだったのかもしれないけど。
俺が服を脱いでいる間、桃子は既に自分の世界に入っている。
脱いでいる俺の姿まで、スケッチに収めようとエンピツが動き出す。
全裸になって、真っ白なシーツの上に横たわると、彼女は患者を前にした医者さながらに俺の体を観察し始める。
そこに恥じらいとか、卑猥な感情は全くない。
彼女にとってこの裸体は、被写体に過ぎないのだから。
それが分かってから、俺も照れてる場合ではなくなった。
彼女が俺をモデルとしてリスペクトしてくれるなら、俺もそれに応えなければならない。
最初はさすがに抵抗があった下半身も、彼女の指示通り開示するようになった。
傍から見たら異様な光景、異常な兄妹だったに違いない。
だけど、俺たちはお互いに真剣だった。
そしてそれは、俺にとっても楽しい時間になっていった。
認めたくないけど、俺は彼女に見つめられた時のあの緊張感に快感を覚え始めていた。
赤いフレームの眼鏡の奥から睨みつける桃子の鋭い目。
蛇に睨まれた蛙ってこんな気持ちなんだろう。
俺は桃子の視線だけで、体の自由を奪われてしまう。
見られている恐怖と、緊張、そして変な優越感と興奮。
俺の体を桃子は貪欲に手に入れようとしている。
大事なものを逃さないように、必死で描きとめる。
その視線を感じていると、自分が価値のある男であるような錯覚さえ覚えてしまうのだ。
古今東西、裸婦を描いた名作は沢山あるけど、モデルの彼女達が裸のまま照れもせず、どうして堂々としているのかが分かった。
モデルの価値は画家の視線によって与えられるんだ。
日頃はつまんねえ機械工の俺にも、見てもらえるものがあったのかな。
綾香には評価低かったけど。
ベッドに腕枕で横になったまま、俺はスケッチブックと睨めっこしている桃子を微笑ましく見つめるのだ。
事件は、そんなある日に起こった。
「あー!今日はもうダメ!集中力ギレ!」
半分、眠りに入っていた俺は、桃子の声にビクっとして起き上がった。
桃子は勢いよく折りたたみ椅子の背もたれに体を仰け反らすと、そのまま体の重みで椅子ごと後ろに倒れた。
ドー・・ンと、地響きがして小さな部屋の天井からホコリがパラパラ落ちてくる。
「・・・お前、何やってんの?」
呆気に取られて、俺はひっくり返ってる桃子を見つめた。
ゴロンと丸い体をひねって、桃子はムクっと起き上がった。
その姿はダルマさんのようだ。
テヘヘと照れ笑いしながら頭を掻いている桃子は、俺と目が合った途端にアっと息を呑み、赤面して顔を伏せる。
その視線の先には何も纏っていない俺の下半身があった。
既にいつもの桃子に戻っているようだ。
その見事なまでのスイッチぶりに、彼女のプロ意識を感じる。
だけど。
今まで見といて、そりゃねえだろ?
俺は照れまくっている桃子をからかってやるつもりで、彼女の腕を掴んだ。
そのままその丸っこい体を抱きしめてベッドに引き釣り込む。
「え、ちょ、ちょっと、リュウ兄?」
されていることが把握できてない桃子は、バタバタしながら甲高いアニメ声を出す。
太っているとはいえ小柄な桃子の体は、俺の腕の中にスッポリ納まってしまう。
抵抗してくる彼女の両腕を押さえつけて俺は笑った。
「おまえさ、俺がソノ気になったらどうすんの?」
もー、バカじゃないの?リュウ兄なんかゴメンですう・・・
俺は、そんな軽い返事を期待してた。
そのつもりの軽い冗談だったのに。
桃子は、俺の腕の中で目を見開いて硬直していた。
厳密には硬直ではない。
体中が極寒にいるかのように、ガタガタ震えている。
完全に血の気が引いた丸い顔に、涙がボロボロこぼれ出した。
俺は、慌てて手を離して彼女を解放した。
ヤバイ・・・!
泣かせてしまった。
「お、おい。桃子?冗談だって。そんな気ないって。ごめん!謝る。泣くなよ!」
テンパって、俺は思いついた言葉を何でも言ってみる。
彼女はベッドで硬直したまま、宙を見つめている。
尋常でないその姿に俺は動揺した。
ど、どうしよう。
てか、大した事じゃねえだろ。
でも、相手が女の子だったことは忘れてたかもしれない。
俺は軽はずみな行動を後悔した。
やがて、のそりと桃子は起き上がった。
ベッドの上に座り込んで、俺を恨めしそうに睨んでいる。
その目からは涙がポロポロ流れ落ちていた。
「リュウ兄・・・。言っとくね」
言いかけて、彼女は唇を噛み締めた。
言おうか言うまいか迷っているみたいだ。
しばしの沈黙の後、顔を上げた彼女は言った。
「あたしね、男の人が怖いの。男の人とこういう事、できなくなっちゃったの・・・」