第8話
火の気のない部屋に、桃子は電気ストーブをつけた。
さっき動画を撮ってたお陰で、部屋の中は少しは片付いてる。
俺は変な緊張感を感じて部屋の中をウロウロしていた。
何だろう、この感じ・・・。
そうだ、思い出した。
初めてラブホに入った時の気まずい雰囲気だ・・・。
今夜の相手は巨大ハムスターだけど。
桃子はもう仕事モードに入っている。
落ち着きなく動物園の熊みたいにウロウロしている俺をよそに、イーゼルを組み立てスケッチブックを用意する。
そして壁に掛かっていた折りたたみ椅子を広げて座ると、彼女は鉛筆を片手に俺を観察し始めた。
ちょっと、待て。
まだ、心の準備ができてない・・・。
俺はうろたえる。
「ちょ、ちょっと待てよ。もう始めるのか?」
「だって早くしないとリュウ兄の気が変っちゃうかもしれないじゃん。それにもう夜も遅いし」
「こ、こんなところじゃ、嫌だ」
「えー!じゃ、どこ行くの?」
「どっか、もっときれいなとこ・・・」
俺は初めて体験する女の子みたいにダダをこねた。
その途端、桃子はスケッチブックをバン!と床に叩きつけた。
音にビックリして俺は思わず首を竦める。
ヤバイ。
もう既に目がギラギラしている。
「リュウ兄!往生際が悪いよ!男でしょ?」
彼女に怒鳴られ、俺は仕方なく作業着のファスナーに手をかけた。
変な緊張感だ。
桃子はギラギラした目で俺を観察している。
俺はその視線を感じながら、オイルで汚れた作業着を脱ぎ、中に着ていたTシャツを脱ぐ。
素肌にまだ冷たい部屋の空気が触れた。
「待って、そのまま!」
上半身が完全に顕わになったところで、桃子が制した。
叱られた子供のように、俺はそのまま硬直する。
桃子はすごいスピードでスケッチブックに鉛筆を走らせた。
彼女の目は異様な光を放ち、顔は真剣そのものだ。
俺は勘違いしてた。
あのハムスター顔で、エロおやじが覗き見するように見られるんだと思ってた。
今の彼女にそういった俗っぽい思考は完全にシャットアウトされている。
品定めをする商人のような冷たい視線。
あるいは、科学者が実験動物を観察する目だ。
正面から描き終えると、今度は俺の背後に回って描き続ける。
目だけ動かして、俺はスケッチブックをチラ見した。
それを見て、思わず息を呑む。
すげえ・・。
半端なく上手い。
俺の肋骨とか、筋肉の動きまで鉛筆で描いた陰影だけで表現されてる。
ドラえもんの絵描き歌さえまともに描けない俺みたいな人種もいるのに。
これが才能ってヤツかな。
たった一本の鉛筆でこんな絵が描けるなんて、俺は感動すら覚えた。
桃子は真剣だ。
この一本の鉛筆で、夢を叶えるために立ち向かってる。
俺は覚悟を決めた。
「ありがとう。リュウ兄ちゃん。あの・・・」
一通りのポジションから描き終えた後、桃子は口篭る。
セカンドステージに行きたいらしい。
俺は黙って腰のベルトを外した。
彼女は満足そうに、再び折りたたみ椅子に腰掛けると、鉛筆を顔の前で振りながら観察を再開した。
ベルトを外し、作業ズボンを脱ぐ。
そして最後の砦であるトランクスに手をかけた時、俺の脳裏にあのダビデ像が浮かんだ。
ダビデもこんな気持ちだったんだろうか・・・。
部屋の空気は素肌に冷たかった。
が、不思議と寒さを感じない。
一糸纏わぬ状態になった俺に向かい合って、桃子は顔色も変えなかった。
ギラギラした視線で俺を観察している。
全裸で突っ立っている兄と、それをスケッチする妹。
今の俺たちはかなり異常に見えるに違いない。
綾香の前だってこんなことしたことなかった。
でも、今となっては綾香が俺の裸に興味があったかも疑問だ。
彼女が最後に俺に求めてたもの。
それは多分、職業とか、学歴とか、収入とか、人気者であるとか、抽象的で掴めないもの、そして俺にはどうしようもないことだった。
対照的に今の桃子は、俺のこの体しか目に入っていない。
全身全霊で、俺の裸体のみと向き合っている。
高卒の低所得機械工というレッテルは、彼女から見た俺の体には張られていないんだ。
自分の価値が認められたような・・・。
彼女の真剣な視線を感じる度、つまんない俺の人生さえも報われていく気がした。
1時間も経っただろうか。
もっと短い時間だったかもしれないけど、直立不動だった俺には長く感じられた。
桃子はスケッチブックを床に置いて、椅子にもたれて伸びをした。
集中力も限界らしい。
「リュウ兄、ありがとう。今日はここまでにしよ」
「あ、ああ。分かった」
俺も我に返って、床に放置していたトランクスを拾い上げた。
「・・・!」
その途端、桃子は声にならない声を上げた。
俺を見ないように慌てて、スケッチブックで顔を隠す。
何を今更照れてるんだ?
今まで散々見てたくせに。
彼女の豹変ぶりに俺は苦笑しながら、作業ズボンに足を通した。
「何だよ?今更。満足したか?」
「うん、ありがとう。今日はここまでだけど、次もお願いしていいの・・・かな?」
顔を赤らめながら、桃子は恥ずかしそうに言った。