カッコウの森
森にはカッコウが鳴いていた。
春の終わりであった。雪解け水が黒い土を濡らし、針葉樹の間を冷たい風が通り抜けていく。湖からは魚油と湿った木の匂いが漂ってきた。
セルゲイ・アレクセイヴィチ中佐は、その森道をゆっくり歩いていた。
彼は戦争の英雄であった。
南方のルイド王国が国境を越え、スパーシア王国が危機に陥ったとき、戦局を変えたのは彼だった。難攻不落と言われたバンス砦を落とした戦術は、今も軍学校で語られている。
セルゲイは砦を包囲しながら、敵援軍の接近を察知した。そして夜のうちに伏兵を置き、援軍を襲撃したのである。しかし彼は敵を全滅させなかった。わざと砦へ逃げ込ませた。
援軍は食料を失ったまま砦へ入った。
やがて砦内部では飢えが始まり、兵士同士が争い、最後には裏切りが起きた。門が開かれ、砦は陥落した。
人々はそれを天才の戦術だと讃えた。
だがセルゲイ自身は、その勝利を一度も誇らしく思ったことがなかった。
森の奥でカッコウが鳴いた。その声を聞くと、彼は子供時代を思い出した。
セルゲイには本当の親がいなかった。赤子のころ森で拾われ、漁師イワンとその妻マリアに育てられたのである。
二人は貧しかったが善良であった。
イワンは冬になると湖の氷に穴を開け、魚を獲った。マリアは夜になるとランプのそばで古い歌を歌った。
セルゲイは、その小さな家で愛されて育った。
だが、その家にはもう一人子供がいた。
イワン夫妻の実の息子である。
明るい少年だった。セルゲイを弟のように可愛がり、いつも森で遊んでくれた。
ある日、二人は崖の近くへ行った。
少年が崖下を覗き込みながら笑っていたとき、セルゲイはその背を押した。
ほんの軽く。それだけだった。少年は落ち、死んだ。事故だった。誰もセルゲイを疑わなかった。
その夜、マリアは泣き続けた。イワンは黙って酒を飲んでいた。
セルゲイは布団の中で目を閉じていた。
そして、自分でも恐ろしいことに、心の奥で安堵していた。
これで愛は自分だけのものになる。
数年後、夫妻に女の子が生まれた。
可憐な娘だった。
マリアはその子を抱いて微笑み、イワンは不器用に玩具を作った。
セルゲイは再び孤独を感じた。
ある秋の日、彼は森で毒キノコを見つけた。
そして少女の夕食のスープへ混ぜた。
少女は苦しみながら死んだ。
村医者は食中毒だと言った。
誰も疑わなかった。
それから夫妻は、残されたセルゲイだけを愛した。
彼は勉強ができた。地方学校から王都の大学へ進み、軍へ入った。人々は彼を天才と呼んだ。
彼は知っていた。
自分の本質は英雄ではない。
愛を独占するために子供を殺した、暗い獣なのだと。
夕暮れ頃、セルゲイは故郷の家へ着いた。
イワンはすっかり老いていた。背は曲がり、白髭は胸まで垂れていた。
マリアはセルゲイを見るなり泣き出した。
「セルゲイ……お前が帰ってきた」
彼女は何度もそう言いながら、その肩を撫でた。
セルゲイは胸が締めつけられる思いだった。
彼は内ポケットに触れた。
そこには手紙が入っていた。
もう一方には拳銃があった。
彼は今日、すべてを告白するつもりだったのである。
兄を殺したこと。
妹を毒殺したこと。
そして、自分を撃ってほしいという願い。
夜、食卓には魚の煮込みと黒パンが並んだ。
イワンは酒を飲みながら笑った。
「お前はわしらの誇りだ」
マリアは祈るように言った。
「神様がこの子を守ってくださった」
セルゲイは何も言えなかった。
食後、彼は一人で外へ出た。
月光が森を白く照らしていた。
カッコウが鳴いていた。
セルゲイは手紙を取り出した。
震える手で封を開こうとした。
そのとき家の窓から老夫婦の笑い声が聞こえた。
「本当に立派になった」
「優しい子だよ、あの子は」
セルゲイは立ち尽くした。
そして長い時間、森を見つめていた。
やがて彼は静かに手紙を破った。それから拳銃を湖へ投げ捨てた。
翌年、セルゲイは軍を辞めた。
そしてカッコウの森のはずれに、小さな木造教会を建てた。彼はそこで牧師になった。
毎朝鐘を鳴らし、貧しい者へパンを配り、戦争孤児を世話した。
人々は英雄がなぜこんな辺境で暮らすのか理解できなかった。
だがセルゲイは何も語らなかった。
イワンとマリアは、数年のうちに老衰でこの世を去った。セルゲイは自ら墓を掘った。
時折セルゲイは、墓の前で長く泣いた。彼は最後まで真実を告白しなかった。
それが臆病だったのか、愛だったのか、彼自身にもわからなかった。
晩年、セルゲイは孤児たちによく言った。
「人は罪から逃げることはできない。だが、それでも誰かのために生きることはできるのです」
春になると、森にはまたカッコウが鳴いた。
老人となったセルゲイは、小さな教会の窓辺でその声を聞いていた。
彼はもう、自分が赦されたかどうかを考えなかった。ただ静かに十字を切り、雪解けの森を見つめていたのである。




