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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

カッコウの森

作者: 座山食空
掲載日:2026/05/28

  森にはカッコウが鳴いていた。


春の終わりであった。雪解け水が黒い土を濡らし、針葉樹の間を冷たい風が通り抜けていく。湖からは魚油と湿った木の匂いが漂ってきた。


 セルゲイ・アレクセイヴィチ中佐は、その森道をゆっくり歩いていた。


 彼は戦争の英雄であった。


 南方のルイド王国が国境を越え、スパーシア王国が危機に陥ったとき、戦局を変えたのは彼だった。難攻不落と言われたバンス砦を落とした戦術は、今も軍学校で語られている。


 セルゲイは砦を包囲しながら、敵援軍の接近を察知した。そして夜のうちに伏兵を置き、援軍を襲撃したのである。しかし彼は敵を全滅させなかった。わざと砦へ逃げ込ませた。


 援軍は食料を失ったまま砦へ入った。


 やがて砦内部では飢えが始まり、兵士同士が争い、最後には裏切りが起きた。門が開かれ、砦は陥落した。


 人々はそれを天才の戦術だと讃えた。


 だがセルゲイ自身は、その勝利を一度も誇らしく思ったことがなかった。


 森の奥でカッコウが鳴いた。その声を聞くと、彼は子供時代を思い出した。


 セルゲイには本当の親がいなかった。赤子のころ森で拾われ、漁師イワンとその妻マリアに育てられたのである。


 二人は貧しかったが善良であった。


 イワンは冬になると湖の氷に穴を開け、魚を獲った。マリアは夜になるとランプのそばで古い歌を歌った。


 セルゲイは、その小さな家で愛されて育った。


 だが、その家にはもう一人子供がいた。


 イワン夫妻の実の息子である。


 明るい少年だった。セルゲイを弟のように可愛がり、いつも森で遊んでくれた。


 ある日、二人は崖の近くへ行った。


 少年が崖下を覗き込みながら笑っていたとき、セルゲイはその背を押した。


 ほんの軽く。それだけだった。少年は落ち、死んだ。事故だった。誰もセルゲイを疑わなかった。


その夜、マリアは泣き続けた。イワンは黙って酒を飲んでいた。


セルゲイは布団の中で目を閉じていた。


 そして、自分でも恐ろしいことに、心の奥で安堵していた。


 これで愛は自分だけのものになる。




 数年後、夫妻に女の子が生まれた。


 可憐な娘だった。


 マリアはその子を抱いて微笑み、イワンは不器用に玩具を作った。


 セルゲイは再び孤独を感じた。


 ある秋の日、彼は森で毒キノコを見つけた。


 そして少女の夕食のスープへ混ぜた。


少女は苦しみながら死んだ。


 村医者は食中毒だと言った。


 誰も疑わなかった。


 それから夫妻は、残されたセルゲイだけを愛した。




 彼は勉強ができた。地方学校から王都の大学へ進み、軍へ入った。人々は彼を天才と呼んだ。


 彼は知っていた。


 自分の本質は英雄ではない。


 愛を独占するために子供を殺した、暗い獣なのだと。


 夕暮れ頃、セルゲイは故郷の家へ着いた。


 イワンはすっかり老いていた。背は曲がり、白髭は胸まで垂れていた。


 マリアはセルゲイを見るなり泣き出した。


「セルゲイ……お前が帰ってきた」


 彼女は何度もそう言いながら、その肩を撫でた。


 セルゲイは胸が締めつけられる思いだった。


 彼は内ポケットに触れた。


 そこには手紙が入っていた。


 もう一方には拳銃があった。


 彼は今日、すべてを告白するつもりだったのである。


 兄を殺したこと。


 妹を毒殺したこと。


 そして、自分を撃ってほしいという願い。


 夜、食卓には魚の煮込みと黒パンが並んだ。


 イワンは酒を飲みながら笑った。


「お前はわしらの誇りだ」


 マリアは祈るように言った。


「神様がこの子を守ってくださった」


 セルゲイは何も言えなかった。




 食後、彼は一人で外へ出た。


 月光が森を白く照らしていた。


 カッコウが鳴いていた。


 セルゲイは手紙を取り出した。


 震える手で封を開こうとした。


 そのとき家の窓から老夫婦の笑い声が聞こえた。


「本当に立派になった」


「優しい子だよ、あの子は」


 セルゲイは立ち尽くした。


 そして長い時間、森を見つめていた。


 やがて彼は静かに手紙を破った。それから拳銃を湖へ投げ捨てた。




 翌年、セルゲイは軍を辞めた。


 そしてカッコウの森のはずれに、小さな木造教会を建てた。彼はそこで牧師になった。


 毎朝鐘を鳴らし、貧しい者へパンを配り、戦争孤児を世話した。


 人々は英雄がなぜこんな辺境で暮らすのか理解できなかった。


 だがセルゲイは何も語らなかった。




 イワンとマリアは、数年のうちに老衰でこの世を去った。セルゲイは自ら墓を掘った。


 時折セルゲイは、墓の前で長く泣いた。彼は最後まで真実を告白しなかった。


 それが臆病だったのか、愛だったのか、彼自身にもわからなかった。


 晩年、セルゲイは孤児たちによく言った。


「人は罪から逃げることはできない。だが、それでも誰かのために生きることはできるのです」




 春になると、森にはまたカッコウが鳴いた。




 老人となったセルゲイは、小さな教会の窓辺でその声を聞いていた。


 彼はもう、自分が赦されたかどうかを考えなかった。ただ静かに十字を切り、雪解けの森を見つめていたのである。

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