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窓の外の世界 恋する勇気のない私たち  作者: chippirock
pool

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33/33

33 Helios

門の横に取り付けられたインターホンの前で、エミリーは一度、指を止めた。


来ると決めたはずだった。

あの車の中での出来事を、ちゃんと終わらせるために。

パーカーを返して、全部なかったことにするために。


——それなのに。


指先が、ほんの少し震えている。


「……っ」


小さく息を吸って、押す。

乾いた電子音が、やけに大きく響いた気がした。


返事を待つ数秒が、長い。


やっぱり帰ろう。

そう思って、踵を引こうとした、その瞬間。


カチ、と軽い音がして、門が静かに開いた。


「あなたがエミリーね」


柔らかな声だった。


顔を上げると、そこにいたのは、落ち着いた佇まいの女性だった。

年齢は五十代後半ほどだろうか。背筋がすっと伸びていて、品のある所作が印象的で。静かな自信のようなものが、その人にはあった。


「はじめまして。ソフィアよ。この家で長く家政婦をしているの」


穏やかな微笑みとともにそう言われ、エミリーは一瞬だけ言葉を失う。


「あ……は、はじめまして。あの……向かいの家の、エミリーです。今日は、その……ノアに……」


言葉がうまくまとまらない。

自分でも情けなくなるくらい、声が頼りない。


「ええ、聞いているわ」


ソフィアは軽く頷いた。


「さあ、こちらへ」


門の内側へと、自然に手を添えられる。

拒む理由もなく、エミリーは小さく会釈をして、その中へ足を踏み入れた。


一歩入っただけで、空気が違う気がした。


手入れの行き届いた庭。整えられた芝生。遠くから微かに聞こえてくる音楽と笑い声。


ここは、あの窓の向こう側だ。


ソフィアはエミリーの少し前を歩きながら、ゆっくりと話し始めた。


「最近のノアさん、とても楽しそうなの」


砂利を踏む足音に混ざって、穏やかな声が続く。


「よくあなたの話をしてくれるわ。昔からよく笑ってくれる子だったけど……どこか、寂しそうでね」


エミリーはその背中を見つめながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


「でも」


ソフィアが、ほんの少しだけ振り返る。


「あなたと仲良くなるのは、ルーカスさんの方だと思っていたのよ」


その言葉に、足が止まった。


「え……?」


思わず声が漏れる。


ソフィアは、少しだけ目を細めて笑った。


「ほら、小さい頃。窓越しに遊んでいたでしょう?」


心臓が、どくん、と強く鳴る。


「……知って、いたんですか?」


自分でも驚くくらい小さな声だった。


「ええ」


ソフィアは何でもないことのように答える。


「夜遅く、あの部屋だけ光が動いていればね。警備の者が確認するわ。でも——」


ほんの一拍、言葉を置く。


「とても微笑ましかったから。報告はしなかったの」


エミリーの顔が、じわりと熱くなる。


知られていた。

あの時間も、あの気持ちも。

恥ずかしさと、少しの後ろめたさで、視線を落とす。


気がつけば、紙袋を胸の前で強く抱きしめていた。中に入っているパーカーの重みを、やけに意識してしまう。


ソフィアはそれを一瞥しただけで、何も言わず、また前を向いて歩き出した。


二人の間に、短い沈黙が落ちる。


その間にも、音はどんどん大きくなっていく。

笑い声。水音。グラスのぶつかる音。


やがて、視界が開けた。


青い水面が陽を反射して揺れている。

プールサイドには人が集まり、色とりどりの飲み物と、軽やかな笑い声が飛び交っていた。


一瞬で、場違いだとわかる。


息が浅くなる。


そのとき、ソフィアがそっとエミリーの肩に手を置いた。


「ノアさんは、あそこ」


指さした先。

少しだけ離れた場所で、騒ぎの輪に入らずに立っている少年。


「いつもああしているの。お酒も飲まず、無理に騒がずに」


エミリーの視線が、自然とそこへ吸い寄せられる。


ノアだ。


そして、ソフィアの手が、軽く背中を撫でる。


「この空気に、飲まれないで」


その一言は、思っていたよりずっと優しかった。

次の瞬間、そっと背中を押される。


「……っ」


少しだけつんのめるように、一歩前に出る。


もう戻れない。


エミリーは周りを見ないようにして、ただ一点——ノアだけを見て歩いた。


雑音はすべて遠ざける。

視線も、笑い声も、きらびやかな光も。


ノアが、こちらに気づく。

そして、いつものように、柔らかく笑った。

その瞬間、肩に入っていた力が、少しだけ抜けた。


「来てくれてありがとう」


そう言って、ノアは自然に腕を広げる。

エミリーは一瞬迷ってから、そのままその中に入った。


軽いハグ。

温度がある。現実だと、やっと思える。


「……うん」


小さく答える。

そして、胸の奥で静かに思う。


——私は、来てしまった。


近くて、遠かった窓の向こう側へ。

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