29 iris
車は住宅街の細い通りをゆっくり進んでいた。
雨のせいで道が混んでいる。
いつもなら、こんな近所の道で車が詰まることなんてないのに。
ワイパーが規則正しく動く。しゃっ、しゃっ。
フロントガラスに叩きつける雨を、一瞬だけ払いのける。だがすぐにまた、水の膜が広がる。
信号で少し止まり、また進む。
普段なら二分もかからない道。なのに今日は、妙に長い。ふと気づく。
……長いほうがいい。
そう思っている自分に。
俺は小さく舌打ちした。
何だよ、それ。
さっきから自分でも理解できない感情ばかりだ。
パーティーでも、クラブでも、何も変わらないはずだったのに。
ここ最近、全部がおかしい。
ハンドルを握る手に少し力が入る。
普段なら、もっと普通に話せる。女と二人きりの車なんて、何度もある。沈黙なんて気にもしない。軽く何か言えばいい。
冗談でも。からかいでも。それで終わる。
なのに——今日は、何も言えない。
隣にいるのがエミリーだからか。
いや、違う。そんな理由、意味が分からない。
俺は横目で一瞬だけ見る。エミリーは窓の外を見ていた。俺のパーカーを着て。
その姿を見るたび、胸の奥が変な感じになる。
落ち着かない。イラつく。なのに目が行く。
自分が何を考えているのか、分からない。
車が角を曲がる。見慣れた街灯。塀。
そして——向かいの家。エミリーの家が見えた。
その瞬間。胸の奥に、ざらりとした感覚が広がる。……もう着く。
それだけなのに、苛立ちが込み上げる。
結局、何も言っていない。何も出来ていない。
ただ乗せて、送っただけ。それで終わりか。
なんでそんなことに、こんなに引っかかる。
俺はブレーキを踏む。車がゆっくり止まった。
エンジンの振動だけが残る。雨音。ワイパー。
その静かな空間の中で、エミリーが小さく動いた。
「あの……」
俺は視線を向ける。
「本当に、ありがとう」
エミリーの声は小さい。
パーカーの袖をつまむ。
「これと、タオル……洗って返すわね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し軽くなる。
……返す。つまり、また会う。
そんな小さなことに、妙に安心している自分がいる。
馬鹿みたいだ。だが次の瞬間。エミリーが言う。
「あ、えっと……」
少し考えて。
「ノアに渡すわ」
その言葉が落ちた瞬間。
頭の中が、一気に暗くなる。
さっきまでの感覚が、全部塗りつぶされる。
——ノア。また、ノアだ。
胸の奥で何かが強く軋む。
エミリーがドアに手をかけた。
その動きを見た瞬間、体が勝手に動いていた。
腕を掴む。ぐっと。エミリーが驚いて振り向く。
「……っ」
その顔を見て俺は言った。
「最近」
声が低くなる。
「ノアと仲いいな」
言った瞬間、自分でも分かる。
——やめろ。
頭のどこかがそう言っている。でも口は止まらない。喉の奥が少し乾く。それでも続ける。
「この前」
言葉がこぼれる。
「俺の試合、見に来てただろ」
エミリーの目が揺れる。俺はそれを見てしまう。止めればいいのに。止められない。
「俺を見てたのに」
言ってしまう。もう引き返せない。
「ノアに手を出すとはな」
最低だ。
そんな言い方。分かっている。分かっているのに、止められない。
胸の奥の暗い感情が、全部を押し出してくる。
嫉妬なのか。苛立ちなのか。悔しさなのか。
自分でも名前がつけられない。
エミリーが何か言おうとする。
「ち、違——」
その言葉を聞く前に。俺は腕を押した。
エミリーの体が後ろへ倒れ、背中がシートに触れる。
その瞬間。顔が近い。近すぎる。濡れた髪。息。唇。
気づいたときには——キスしていた。
頭が一瞬、真っ白になる。
……何やってんだ。
本当に。でも。離せない。腕が動かない。
エミリーの顔が目の前にある。
驚いた目。息を呑んでいる。
可愛い。もっとぐちゃぐちゃにしたい。
その顔を見ても、まだ離せない。
数秒。短いのに、妙に長い時間。
ようやく少しだけ離れる。でも距離はまだ近い。逃がさないみたいに。
自分でも意味が分からない。胸の奥で、暗い感情がまだ暴れている。
やってしまった。完全に。もう戻れない。
なのに——どこかで。
やってやった、と思っている自分がいる。
その感情が、まだ俺を支配していた。
俺はエミリーを見た。まっすぐ。低い声で。
「……どうだ」
息を吐くように。
「見てた俺にキスされた感想は?」




