26 helios rain
玄関のドアを閉めたあとも、私はしばらくその場に立ったままだった。
背中をドアに預けて、息を整える。
雨音は外に置いてきたはずなのに、耳の奥でまだざあざあ鳴っている気がする。
胸が落ち着かない。心臓が、まだ速い。
唇に残る感触を思い出しそうになって、私は強く目を閉じた。
——だめ。
思い出したくない。考えたくない。
なのに頭の奥で、さっきの光景が何度も浮かぶ。
車の中。近すぎる距離。ルーカスの顔。
「見てた俺にキスされた感想は?」
胸の奥が、またざわっと揺れる。
そのときだった。
「エミリー?」
母の声。
リビングの方から聞こえる。
「いつまでドアの前にいるの?」
私はびくっと肩を震わせた。
「寒いでしょ。早く着替えなさい」
その声で、やっと現実に戻る。
「あ……うん」
私は慌てて答えた。
「びしょ濡れだから、シャワー浴びるね」
声が少しだけ上ずる。
母は気づかなかったのか、ただ「そうしなさい」とだけ言った。
私は急いで階段を上がる。
一段ずつ足音が響く。
胸の奥のざわめきから逃げるみたいに。
部屋に入って、ドアを閉める。
そこでやっと、大きく息を吐いた。ふう、と。
肺の奥に溜まっていた空気が抜ける。
濡れた髪が頬に張りつく。
私はパーカーの袖を見た。
黒い布。
ルーカスのパーカー。
その瞬間、顔が熱くなる。
胸がどくんと鳴る。
「……っ」
私は慌てて目を逸らした。
なんで。
なんで赤くなるの。
さっきあんなことされたのに。
最悪だって言ったのに。
頬が熱い。
それに気づいた瞬間、胸の奥に苛立ちが湧く。
「……何よ」
小さく呟く。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
私は乱暴にパーカーを脱いだ。
濡れたパーカーと一緒に、ルーカスのパーカーもまとめて床に落とす。
ばさっと音がする。
それを見ないようにして、バスルームへ向かった。
シャワーの蛇口をひねると勢いよく水が出る。
湯気がゆっくり広がった。
服を脱いで、シャワーの下に立つ。
お湯が肩に落ちた瞬間、思わず息を吸った。
「……あつ」
思ったより熱い。
それだけ体が冷えていたんだと、その時になって気づく。
雨の中を歩いて。車の中で緊張して。息を詰めて。
体はずっと固まっていたみたいだった。
お湯が背中を流れる。
肩。腕。髪。
私は目を閉じた。
——思い出さない。絶対に。
今日のことは。車のことも。キスのことも。
全部。忘れる。忘れなきゃ。
頭の中から追い出そうとする。
でも、どうしても浮かんでくる。
あの目。あの声。あの距離。
私は首を強く振った。
濡れた髪から水が飛ぶ。
「……やめて」
自分に言う。
シャワーの音の中で、小さく。
こんなの。考える必要ない。
あんな人。あんなキス。全部どうでもいい。
そう思い込もうとする。
私は蛇口を少し強くひねった。
お湯の勢いが増える。
水の音が強くなる。
その音で、考えを全部流してしまいたかった。
しばらくしてシャワーを止める。
タオルで髪を拭きながら、床を見る。
捨て置かれた黒いパーカー。
ルーカスの。
私はそれを見て、すぐ視線を逸らした。
「……早く返さなきゃ」
小さく呟く。
そう。早くノアに渡さないと。
そうすれば終わる。全部。
この変な気持ちも。
この胸のざわめきも。
私はタオルを握りしめたまま、もう一度深く息を吐いた。
でも胸の奥は、まだ少しだけ騒がしいままだった。




