25 helios rain
唇が触れた瞬間、世界が止まった。
ほんの数秒のはずなのに、時間が妙に長く感じる。
ルーカスの顔がすぐ近くにある。
息が触れる距離。
私は目を見開いたまま、動けなかった。
キスをされた。
その事実だけが、頭の中でゆっくり形になる。
キス。
ルーカスに。
ずっと遠くから見ていた人に。
胸の奥で、何かが強く跳ねた。
でも、それは——
甘い感情じゃない。
違う。 違う。
これは、望んだものじゃない。
ルーカスの声が近くで落ちる。
「……どうだ」
低い声。
「見てた俺にキスされた感想は?」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で、何かがひっくり返った。
今まで胸の中でぐちゃぐちゃになっていた感情が、一瞬で形を変える。
恥ずかしさ。戸惑い。緊張。全部が。
怒りに変わる。
私はルーカスを見た。まっすぐ。そして言った。
「……最悪」
次の瞬間。
ぱん、と乾いた音が車の中に響いた。
自分でも驚くくらい強く、手が動いていた。
ルーカスの頬が横に少し揺れる。
手のひらがじん、と痛む。
車の中の空気が、一瞬で変わる。
私は荒くなった呼吸を整えながら、ルーカスを睨んだ。
胸の奥では、まだ心臓が暴れている。
でも、それを見せたくなかった。
見せたら負けだと思った。
こんなふうにキスされて、混乱して、ドキドキしているなんて。
絶対に知られたくない。
私は腕を振りほどいた。
ルーカスの手が離れる。
そのまま勢いよくドアノブを掴む。
がちゃ、とドアが開く。
外の雨音が一気に流れ込む。ざああ、と。私は車から降りた。
冷たい雨がすぐに肩に落ちる。でも気にしない。
ドアの外に立って、振り返る。
ルーカスはまだ運転席にいる。
頬に手を当てるわけでもなく、ただこちらを見ていた。
その目を、私はしっかり見る。
逃げない。逃げたら、弱くなる。
だから、私は指を立てた。
中指。
自分でも、こんなことする人間だと思っていなかった。
でも、今はこれしか思いつかなかった。
胸の中のぐちゃぐちゃを、全部隠すために。
私はルーカスを見たまま言う。
「送ってくれてありがとう」
声は思ったより落ち着いていた。
それだけ言って。
私はドアを閉めた。
ばたん、と重い音がする。
車の中のルーカスの顔はもう見えない。
私は家の玄関へ歩いた。
雨がどんどん強くなる。
パーカーが濡れていく。
ドアを開けて、中に入る。
閉めた瞬間、静けさが戻る。
その場で、私は立ち止まった。
呼吸がうまくできない。
胸が苦しい。
背中をドアに預けて、ゆっくり息を吐く。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
キスされた。
ルーカスに。
ずっと見ていた人に。
でも。
あれは。
あんなのは。
違う。
違う。
私はぎゅっと目を閉じた。
唇に、まだ感触が残っている気がする。
それを消したくて、手の甲で強くこする。
胸の奥が、まだうるさい。
でも。私は自分に言い聞かせる。
あんなの、最悪だった。
そう思わないと。
自分が、どうしていいかわからなくなるから。




