23 helios rain
私はすぐに返事ができなかった。
ルーカスの声が、まだ耳の奥に残っている。
「乗れよ」
その一言が、あまりにも自然で、あまりにも突然で。
頭の中の言葉が全部どこかへ逃げてしまった。
雨は相変わらず激しい。
フードの先から水がぽたぽた落ちて、頬を伝う。
私は車を見て、それからルーカスを見る。
何か言わなきゃいけないのに、口を開けても声が出ない。
その間にも、雨はどんどん強くなる。
ルーカスは小さく息をつくと、シートベルトを外した。
体を少し乗り出して、助手席のドアを内側から押す。
がちゃ、と音がしてドアが開いた。
「…早くしろよ」
その瞬間、私はやっと声を出した。
「……あ、ありがとう」
自分でもびっくりするくらい小さい声だった。
ルーカスは何も言わない。
ただ、顎で助手席を示す。
私は少しだけ躊躇ってから、車に近づいた。
中は暖かい。
外の雨音が、ドアを閉めた瞬間に遠くなる。
それだけで、ほっとした。
座ろうとして、私は一瞬止まる。
助手席の座面に、タオルが敷かれていた。
白いタオル。きれいに折ってある。
私は少しだけ戸惑った。
……私のため?
そんな考えが頭をよぎる。
でも、確かめる勇気はない。
私はそっと座った。
濡れた服が背もたれに触れるのが申し訳なくて、寄りかからないよう背筋を伸ばしたまま座る。
ルーカスがシートベルトをして車が走り出す。
車は静かだった。
エンジンの低い振動と、ワイパーの音だけ。
しゃっ、しゃっ。
フロントガラスを雨が流れていく。
私は膝の上で手をぎゅっと握った。
何か言わなきゃ。
沈黙が長すぎる。
「……あの」
声を出す。でも、続きが出てこない。
私は視線を膝に落としたまま言った。
「乗せてくれて……ありがとう」
さっき言ったばかりなのに、また言ってしまった。
それでも、他に言葉が見つからない。
ルーカスの方を見ることができない。
見ると、何かが壊れそうな気がする。
胸の奥で、心臓がやけに早く鳴っている。
どうしよう。
どうしよう。
何か話さなきゃ。
でも、何を?
頭の中で言葉を探す。
天気?雨?学校?
全部変だ。
沈黙が痛い。
車の中の空気が、少しずつ重くなる。
その時だった。
赤信号でルーカスが、ふっと体を動かした。
右手がハンドルから離れて、後ろへ伸びる。
後部座席へ。
私は反射的に肩を震わせた。
びくっと。
自分でもはっきりわかるくらい。
その瞬間、ルーカスがこちらを見た。
1秒。
2秒。
それから、ふっと笑う。
ほんの少しだけ。
「……何びびってんの」
声は低いけれど、からかうような響きだった。
私は慌てて首を振る。
「ち、違っ……」
でも言葉が続かない。
ルーカスは後部座席から何かを掴んで引き寄せる。
黒いパーカーだった。
それを無造作に私に差し出す。
「ほら」
私は思わず顔を上げる。
ルーカスの目と、一瞬ぶつかる。
「これ着とけ」
少しだけ間を置いて、彼は言った。
「震えてる」
私は自分の手を見る。
確かに、少し震えていた。
寒いのか、緊張しているのか、自分でもよくわからない。
私はおずおずと手を伸ばす。
「……ありがとう」
パーカーを受け取る。
柔らかい布の感触。少し重い。
私はそっと袖を通す。
濡れたパーカーの上から羽織る形になる。
肩に乗せた瞬間、ふわりと匂いがした。
ルーカスの匂い。
香水じゃない。
もっと静かな匂い。
石鹸みたいな、少しだけ木の香りがするような。
その匂いが、ふっと近づく。
胸の奥が、どくん、と鳴った。
私は慌ててパーカーの前を合わせる。
手が少しぎこちない。
心臓がうるさい。
ルーカスのパーカーを着ている。
そんなことを意識した瞬間、顔が少し熱くなる。
私は窓の外を見る。
雨はまだ激しく降っている。
ワイパーが動くたび、街灯の光が揺れる。
車の中は暖かい。静かで。近くて。
沈黙はまだ続いているのに、
さっきとは少し違う重さだった。
私は膝の上で手を握ったまま、思う。
どうしよう。
こんなに近くで、ルーカスと二人きりなんて。
何を話せばいいのか、本当にわからなかった。




