21 Iris prologue
最初に気づいたのは、コンッとした音だった。
窓ガラスを、何かで軽く叩く音。
俺は反射的にカーテンの隙間を見る。
向かいの家の二階。
あの窓、エミリーの部屋。
カーテンが少し開き彼女の顔が覗く。
そして——下を見る。エミリーの視線の先にいるのは庭に立ち手を振るノア。
エミリーが笑い、窓を開ける。
ノアがフェンスを飛び越える。
軽い。迷いがない。
壁を蹴りバルコニーにてを掛け、体を持ち上げる。
あっという間だった。
ノアが部屋に入る。
そして窓が閉まる。
それだけだった。
たったそれだけ。
なのに。
胸の奥で、何かが嫌な音を立てる。
——アイリスの部屋。エミリーの部屋。
そこはっ。
俺が勝手に、触れてはいけない場所だと思っていた。
なのに。
ノアは入った。
俺は窓の前で立ったまま動けない。
カーテンの影の中。
暗い部屋。散らかった床。酒の匂い。
外の窓には柔らかい光。
その光の中にノアとエミリーがいる。
俺は。ここにいる。
それから。
俺はまたクラブに行くようになった。
音楽。光。酒。
体を寄せてくる女。
いつも通り。いつもと同じ。これが俺の世界。
なのに。
頭のどこかで別の光景が離れない。
フェンス。芝生。窓。エミリーの部屋。ノア。
「ねえ」
隣の女が耳元で言う。
「聞いてる?」
俺は適当に頷く。
グラスを空け、また酒を飲む。
でも何も変わらない。あの窓が頭から消えない。
結局、俺は女を連れて帰った。
部屋。ベッド。服。床。
笑い声。女の香水。全部。いつも通り。
女がシャワーを浴びに行く。
水の音。俺はベッドに座る。
無意識に窓を見た。
カーテンはいつも閉まっている。
なのに、——今日は。
少しだけ開いている。
俺は立ち上がり、カーテンを閉めようとした。
そこから見える。部屋の光。
そして。二人。
ノア。エミリー。
距離が近い。
近すぎる。
二人は笑っている。
何か話している。
聞こえない。
でも。
エミリーが笑う。
ノアも笑う。
そして。
エミリーが、少し身を乗り出す。
ノアも近づく。
そして——
額が触れる。
ぴたりと。
額と額。
その瞬間
俺の視界は
真っ暗になった。
キス。
そう見えた。
完全に、そう見えた。
胸の奥で何かが切れる。
静かに。
でも確実に。
その時。
バスルームのドアが開く。
「ねえ」
女が笑う。
タオルで髪を拭きながら。
「まだ起きてる?」
俺は振り向く。
顔を見た瞬間。
どうでもよくなる。
全部。どうでもいい。
「帰れ」
女は笑う。
「え?」
「帰れ!」
俺の声は低かった。
女の顔が変わる。
「ちょっと、何それ」
「帰れって言ってるだろ!」
空気が冷える。
女は怒る。
文句を言う。
でも。
俺は聞かない。
ドアを開ける。
「帰れ」
女は舌打ちして出ていく。
ドアが閉まる。
静寂。
俺は窓を見る。
向こうの部屋。
二人はまだ笑っている。
まるで世界がそこだけ柔らかいみたいに。
胸の奥が焼ける。
苛立ち。
理解できない感情。
そもそも。ノアは俺がエミリーを気にしているから声をかけたはずだ。
なのに。
なんで。
あんな顔をして笑う。
なんで。
あの部屋にいる。
なんで。
額を合わせる。
エミリーは光だ。
あの子は。汚れていない。
だから。
触れてはいけないと思っていた。
なのに。
胸の奥で別の声がする。
——汚せばいい。
そうすれば、この苛立ちは消える。
俺の世界に引きずり込めばいい。
あの光を汚せばいい。
その瞬間。
自分の思考に自分で嫌悪する。
俺は窓の前で立ったまま。
動けなかった。
夜中玄関の音。
ノアが帰ってくるのを俺はリビングで待っていた。
電気もつけずソファに座って待っていた。
ノアが入ってくる。
「あれ?」
無邪気に笑う。
「一人?今日女の人連れ込んでたじゃん」
俺は言う。
「どこ行ってた」
「散歩」
嘘だ。
俺は立ち上がる。
「エミリーのとこだろ」
ノアは少し驚き、それから笑う。
「見てたの?」
その一言で。
胸の奥が爆発した。
「お前さ」
声が荒くなる。
「何してんの?」
ノアは静かに俺を見る。
怒らない。
焦らない。
怯えない。
ただ。
少しだけ首を傾げる。
「話してただけ」
「部屋入ってただろ」
「うん」
平然と言う。
それが余計に腹立つ。
「額合わせてた。キスしてた。」
ノアが一瞬だけ黙る。
それから、ノアが小さく笑う。
「見えたんだ」
俺は拳を握る。
「お前さ」
声が低くなる。
「分かってんのか」
ノアは言う。
「何を」
「……」
言葉が出ない。
俺は。
何を怒っている。説明できない。
「ルーク」
ノアが静かに言った。
「なんだよ」
「見てるだけでいいの?」
その言葉で呼吸が止まる。
ノアは続ける。
「最初に言ったのルークだよ」
俺は何も言えない。
「勝手にしろって」
沈黙。
ノアが言う。
「だから行った」
「……」
「でもさ」
ノアは少し笑う。
優しい顔で。
でも、逃さないぞと強い目で。
「ルーク」
「……」
胸の奥が強く鳴る。
言葉が出ない。
ノアは肩をすくめる。
「いつでもどうぞ。エミリーの隣。」
静かな声。
「ルークが欲しいなら」
その言葉で。
頭の奥で。
父の声が響く。
——一人に心を寄せるな。
——恋とか、愛とか。
——人を愚かにする。
——弱くもする。
胸の奥で 何かが暴れる。
でも。
その正体を俺はまだ知らない。
これでHelios,Ilisprologueが終わりです。今度からは週末ちょこちょこ投稿できたらな。
パソコンで読んでくださっている方が多くて。
スマホだと読みにくいですか?




