2 helios prologue
彼のテニスの試合があると知れば、足が向く。
SNSで彼を見る。
私はただのファンだ。
彼は私の憧れだ。
ヘリオスを、遠くから見ているだけの。
彼が女と歩いている。
彼が女と写真を撮っている。
胸が、ざわついた。
ある夜。彼の部屋。カーテンの隙間。
女とキスをしている。
胸が、痛い。
——ああ。
私は、彼に恋していたんだ。
直ぐそこにある彼の世界。
見ているだけしか出来ない。
見ているだけで十分だ。
彼と私の世界は交わることは無い。
いつかきっとこの芽吹かせることのできない恋は消え去り、記憶の片隅にあの窓の光と共に置いていかれるのだろう。
放課後。
最後の高校生活、母子家庭の私は書店でのアルバイトが忙しい。貧しくはないけど、大学資金や日常の物はなるべく自分で賄わないと。だから何も予定の無い日はゆっくりしたい。
庭の芝生はまだ昼の熱を残していて、座るとじんわりあたたかかった。
私はブランケットを敷いて、その上に寝転び、本を読んでいた。
向かいの家の二階は、昼間はただの窓だ。
カーテンは閉まっている。
見ないようにしているのに、目は勝手にそっちへ行く。
ぱしん、と乾いた音がした。
次の瞬間、ころころと丸いものが芝生を転がってくる。
白いテニスボール。
私は起き上がった。
フェンスの向こうから、少年が顔を出す。
陽に焼けた肌。少し癖のある髪。
制服のシャツの袖をまくっている。
「ごめん、それ俺の。」
息を弾ませながら言う。
私はボールを拾い上げた。
少しだけ迷ってから、フェンス越しに投げる。
彼は片手で受け取った。
「サンキュ。」
それで終わるはずだった。
私はまた本を開く。
でも、文字がうまく頭に入ってこない。
フェンスの向こうで、ラケットの音が続いている。
規則正しく、まっすぐな音。
翌日、アルバイトから帰ると また、ころころと転がってきた。
私は顔を上げる。
彼は昨日より少し笑っている。
「また?」
「風が強くてさ。」
今日は無風だ。
私は何も言わず、ボールを投げ返す。
三日目。
また転がる。
ボールを拾い私は立ち上がらず、芝生に座り言った。
「わざとでしょ?」
一瞬の沈黙。
それから、フェンス越しに笑い声。
「バレた?」
彼は可愛らしい無邪気な笑顔だ。私は呆れたふりをする。
「下手。」
「練習中なんだよ。」
「テニス?」
「うん。」
彼はラケットを軽く振って見せる。
「ノア。」
突然、名乗られて私は息を飲んだ。
私は少し遅れて言う。
「エミリー。」
「知ってる。」
「え?」
「お隣さんだろ。」
その言い方は自然で、いやらしくない。
ただの事実みたいに。
私も彼のことは名前は知らなかったが知っていた。あの男の子の、ルーカスの弟だ。
それから、ボールは毎日は来なくなった。
代わりに、声が来る。
「今日、バイト無かったんだ?何読んでるの?」
「難しいやつ。」
「眠くなるやつ?」
「失礼。寝ないし。」
フェンス越しに話す。
顔は半分しか見えない。
でも不思議と落ち着いた。
ノアは、私が向かいの窓を見ることに気づいていたと思う。
話している最中でも、私の視線が一瞬そっちへ流れることを。
でも何も聞かなかった。
代わりに、どうでもいい話をする。
クラスの先生の口癖とか、
購買のパンがすぐ売り切れるとか、
テストが最悪だったとか。
くだらない話
。
でも、そのくだらなさが、ちょうどよかった。
ある日、向かいの家から大きな笑い声が聞こえた。
音楽も。
車も何台も停まっている。
私は無意識に窓を見ていた。
ノアが、静かに言う。
「眩しいよな。」
私は何も答えない。
「太陽みたいだ。」
その言葉に、胸が小さく跳ねる。
「……そうだね。」
ノアはそれ以上何も言わない。
フェンスの上に肘を置いて、夕暮れを見ている。
その横顔は、光に向かっていない。
沈んでいくほうを見ている。
私はその隣に座る。
少しだけ近づく。
「パーティー、行かなくていいの?」
「行かない」
「あなたの家でやってるのに。」
私は小さく笑った。ノアがこちらの世界にいたいなんて。
フェンス越しの距離は変わらない。
でも、不思議と孤独じゃなかった。
この時、私はまだ知らなかった。
太陽ばかり見ていると、目が焼けること。
月の光は、自分では輝いていないこと。
でも、夜を歩くには、十分だということ。
ノアと私はただそこにいた。
ただ、そこにいた。
そして私は、少しずつ——
フェンス越しの時間を待つようになった。
向かいの窓ではなく。
隣の声を。




