18 Iris prologue
カーテンの隙間から漏れた光に目をさされ俺は目を覚ました。
頭が重い。喉が乾いている。
天井を見上げたまま、数秒動かない。
昨夜の記憶は断片的だった。
音楽。笑い声。酒。誰かの香水。
隣で布がわずかに動いた。
横を見ると知らない女が寝ていた。
長い髪が枕に散らばり、化粧は少し崩れている。名前は知らない。
たぶん昨夜、誰かが連れてきた。
こういうことは珍しくなかった。
こんなことにも慣れてしまっていた。
俺ははゆっくり起き上がり、床に散らばったシャツを探す。
その時、窓の外から声が聞こえた。
かすかに。とても小さく。
でも、確かに聞こえる。
女の子の声だった。
俺は手が止め窓の方を見る。
声は続いている。距離があるので何を話しているのかはわからない。
でも、その声の調子だけでわかる。
元気そうだ。自分の口角が少し上がったが分かる。
ルーカスはゆっくり窓に近づき、少しだけカーテンを上げ隙間を作る。
向かいの家。小さな庭。朝の光。
そして、彼女がいた。
髪を後ろでまとめて、シャツを着て立っている。
誰かと話している。きっと家族だ。
笑っている。
その笑い方を、俺は知っていた。
彼女の名前は知らない。
一度も話したことがない。近づいたこともない。
それでも、彼女のことをよく知っていた。
街の小さな書店。
放課後、彼女はそこで働いている。
ルーカスはよく向かいのカフェに座り、コーヒーを飲む。
窓際の席。そこから、彼女が見える。
本棚の間を歩く姿。レジに立つ姿。紙袋を渡す姿。本を並べる姿。
どれも静かで、どれも真面目だった。
この街で、あんな風に立っている人間は珍しい。
初めて見たとき、不思議に思った。
何度も見て、理由がわかった。
あの子は、この世界に染まっていない。
この街の金持ちの子供たちとも違う。
クラブの女とも違う。
パーティーの品のない笑顔とも違う。
あまりにも、まっすぐだった。
俺は彼女を心の中で呼んでいたアイリスと。
最初はただ、庭の花を見たからだった。
彼女の家の前に咲いている。
薄い青色の花。
アイリス。
花言葉は、希望。よい便り。信じる心。知恵。
ギリシャ神話の虹の女神、イリス。
希望を運ぶ存在。
そのページを見て、少し笑った。
自分には不似合いな言葉だった。
あまりにも。
でも、彼女には合うのかもしれないと思った。
向かいの庭で、アイリスはまだ笑っている。
朝の光の中で。声は小さく、ここまでは届かない。
でも、それで十分だった。元気だ。
それだけで、胸の奥が少し静かになる。
ベッドの女が寝返りを打ちシーツが擦れる。
振り返ると散らかった部屋。空のグラス。服。香水。昨夜の残骸。
その匂いの中で、窓の外を見る。
あの子の世界は、こんな匂いがしない。酒もない。ネオンもない。嘘の笑顔もない。
アイリスの名前は何ていうのだろう。
声を。
何を読んでいるのか。
何を笑っているのか。知りたい。
でも、同時に思う。
知られたくない。
こんな自分を。
酒に溺れて、女に囲まれて、何も大事にしていない男を。
あの子の目に、映りたくない。
自分が触れたら彼女が、汚れる。
この世界は、触れたものを濁らせる。
俺はそれを知っている。
だから、距離を置く。
カフェの窓から見る。
それだけ。それ以上はしない。それが、たぶん正しい。
向かいの庭で、アイリスは最後にもう一度笑ってそれから家の中に入った。姿が見えなくなる。しばらく窓を見ていた。
空っぽの庭。
朝の光。
静かな空気。
ゆっくりカーテンを戻す。
部屋は少し暗くなる。背後で女が目を覚ます。
「…ルーク?」
名前を呼ばれた。
振り返らずにただ短く答える。
「帰れよ。」
出てきた声は冷たい。
それでよかった。
窓の向こうの世界には、その声が届かないから。




