14 Iris prologue
その週の終わりに、俺とノアは祖父の家へ送られた。
父が車を運転しいた。黒いセダン。いつもと同じ車。父はほとんど喋らない。ハンドルを握る手に、いつもより力が入っている。車内は祖父の家で何をしたいか興奮気味に話すノアの声がやけに響いていた。
ノアは後部座席で俺の隣に座っていた。
なぜ急に祖父の家に泊まりに行くことになったのか理解していない顔だった。
小さなリュックを抱えている。
「いつお家に帰るの?」
ノアが聞く。
ルーカスは答えない。 父も答えない。
「ねえ、ルーク。」
ノアがまた言う。
「パパとママ、ケンカした?」
ルーカスの胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「……ちょっとだけ。」
それだけ言った。
ノアは納得したように頷く。
「すぐ仲直りするよね。」
その言葉に、ルーカスは何も言えなかった。
窓の外を見る。街が流れていく。
冬の空。灰色の雲。
その先に、向かいの家の窓を思い出していた。
エミリーの窓。あの光。
祖父は引退してから街から少し離れた静かな丘の上に住み始めた。
古い家だった。石造りで、庭には大きな木がある。
父が車を停める。
玄関のドアが開き祖父が出てくる。
背は高くないが、姿勢のいい人だった。
白い髪。厚いセーター。
俺を見ると、穏やかに笑った。
「よく来たな。」
ノアがすぐに走る。
「じいじ!」
祖父はしゃがみ、ノアを抱き上げた。
「重くなったな。」
「ぼく八歳だから!」
「そうか、それはすごい。」
祖父は笑う。 その笑い方は、父に少し似ていた。
でも、ずっと柔らかかった。
父は短く言った。
「しばらく頼む。」
祖父は頷く。それ以上は聞かない。祖父はそっと父を抱きしめた。
父と祖父の間には短い沈黙があった。
父は俺を見る。何か言いたそうだった。
でも結局、何も言わなかった。
「ルーク。」
それだけ言った。
俺は頷いた。ノアを頼むだったのか、良い子にしてろだったのか、ケリをつけるだったのか。とにかく俺は頷いた。
父は車に戻りエンジンをかける。
父は一度も俺とノアに笑いかけることなく去っていった。
ノアが小さく手を振っている。
「パパまたね!」
車は振り返らない。
祖父の家での生活は、静かだった。朝は早い。
祖父は六時に起きる。家政婦は週に一度来るだけだったが、俺たちを預かるにあたって週に二度にし食事も作り置きしてもらっているようだ。
コーヒーを淹れ、パンを焼く。家ではやったことがない。
ノアはすぐ懐いた。朝から祖父の後ろをついて歩く。
「じいじ、これは?」
「それはコーヒーミルだ。」
「ぼくもやる!」
祖父はノアにやらせる。ゆっくり回す。コリ、コリ、と音がする。ノアは笑う。
俺はその様子を少し離れて見ていた。
祖父は俺にも声をかける。
「ルーカス。」
「なに。」
「パン、焼けたぞ。」
「ありがとう。」
俺は座る。
食卓には温かいパンと、卵と、スープ。簡単な食事だった。
でも、どこか安心する匂いがした。
ノアが言う。
「ねえルーク。」
「ん。」
「ママに電話していい?」
その瞬間、俺の手が止まった。
胸の奥に重い石が落ちる。
「……今はやめとけ。」
ノアが首を傾げる。
「どうして?」
答えられない。本当のことは言えない。
俺はフォークを握ったまま言う。
「忙しいんだよ。」
ノアは少し考えてから頷く。
「そっか。」
そしてまた笑う。
祖父に話しかける。
「じいじ、このジャムおいしい!」
その笑顔を見て、俺は思った。
何も知らないくせに。
胸の奥で、小さな苛立ちが生まれる。
でも、すぐに罪悪感が押し寄せる。
ノアは何も悪くない。何も知らない。だから笑える。
それだけだ。
夜になると、祖父は暖炉をつける。薪がぱちぱち音を立てる。ノアはソファで丸くなって眠っている。
祖父はノアに毛布をかける。
その仕草が、とても自然だった。
俺はそれをただ見ていた。
祖父が俺に声を掛けた。
「ルーカス。」
「うん。」
「お前も休め。」
「大丈夫。」
祖父は何も言わない。そうかとただ頷く。
それが逆につらかった。
祖父は優しかった。とても優しかった。何も聞かない。責めない。
ただ、俺たち受け入れてくれる。
それが、俺には苦しかった。
こんなふうに優しくされる資格があるのか。
俺は思っていた。自分が壊した。あの家を。父と母を。ノアの家を。全部。
祖父の家の窓からは、街の灯りが遠くに見えた。
夜になると、俺は無意識に窓を見る。
そして思い出す。向かいの家。小さな窓。エミリーの光。
きっと今も、ベッドの上でライトを持っている。俺が応えるのを待っている。
変な顔をしている。笑っている。
俺は目を閉じた。
その光を思い出すと、胸が温かくなる。
でも同時に、痛くなる。
その光は、自分がいる世界とは違うものだと思った。
暖かい家。笑い声。壊れていない家族。
俺は暖炉の火を見つめた。火が揺れる。
祖父の家は暖かい。でも、自分はその暖かさの外側にいる気がした。
祖父が言う。
「ルーカス。」
ルーカスは顔を上げる。
「うん。」
祖父はゆっくり言った。
「ここでは、遠慮するな。」
「……うん。」
「お前は家族だ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸が詰まり涙が出るのを拳を握って必死に耐えた。
俺は頷くだけだった。
その言葉を、受け取ってはいけない気がした。
自分には、その資格がないと思っていた。
俺は少しずつ、静かに、孤独の方へ自分を追いやった。




