13 Iris prologue
眠れなかった。ベッドに入ったはずなのに、気づいたら朝になっていた。
目を閉じるたび、書斎の光景が浮かぶ。
母の笑顔。知らない男。長いキス。
色々なものが混ざり合って胸が重い。
窓の外は薄く明るくなっていた。
向かいの家。エミリーの窓。カーテンはまだ閉じている。きっとまだ寝ているのだろう。
その窓を見ていると、少しだけ呼吸ができた。
俺は学校の制服を着た。体が重い。ネクタイを締める手が少し震えていた。
階下へ降りる。
食堂には父がいた。新聞を読んでいる。いつも通りの朝。トーストの匂い。コーヒーの香り。
それが余計に苦しかった。
父は顔を上げた。
「おはよう、ルーク。」
いつもの声だった。低くて、落ち着いている。
「おはよう。」
俺は椅子に座った。喉が乾いていた。コップの水を飲む。
父が新聞をめくる音。時計の秒針。それだけが聞こえる。ああ…苦しい。
言わなきゃいけない。そう思っていた。昨日からずっと。
言わなければならない。
父は知らない。父は母を信じている。このまま黙っていたら、何も変わらず平和に過ごせるのだろうか。この気持ち悪さを抱え過ごすのだろうか。
ルーカスはフォークを握った。でも食べられない。口が開かない。
父が新聞を畳んだ。
「学校はどうだ。」
「普通。」
「テニスは。」
「…普通。」
短い会話。
それだけで終わるはずだった。
でも、ルーカスは言った。
気づいたら言っていた。
「昨日。」
父が顔を上げる。
「母さんが。」
声が震えた。
「知らない男とキスしてた。」
沈黙が落ちた。重い沈黙だった。父は動かなかった。表情も変わらない。
ルーカスは声が小さくて聞こえていないのかと思った。
でも、父は静かに言った。
「どこで。」
「クローゼット。」
また沈黙。
父は立ち上がった。ゆっくりだった。椅子が床を擦る音がやけに大きい。
父は何も言わずクローゼットの方へ歩いた。
その背中を見て、俺は初めて怖くなった。言わなければよかった。
階段の上から声がした。
「どうしたの?」
母だった。まだ寝間着のまま。髪も整えていない。
父は止まらない。クローゼットの前で立ち止まる。
父がふり返って母を見た。
「昨日、誰がここに来ていた。」
落ち着いた声だった。
母が固まった。ほんの一瞬だった。
でも、俺は見逃さなかった。
母はすぐ笑った。
「誰も来てないわ。」
父は何も言わない。
ただ、俺を見た。
母が父の視線ゆっくりたどった。
そして、俺に止まった。
その目を、俺は一生忘れない。
鋭い目だった。ナイフみたいに冷たい。
母をまともに見たのはこれが最後だった。あれ以来母の目をまともに見れない。
母の声が変わる。
「ルーカス。」
低い声。怒っている声。
「あなた、何を言ったの?」
父が静かに言う。
「ルーカスはこんな嘘をつかない。」
その一言で、空気が壊れた。
母の顔が歪んだ。
「信じるの?」
声が上がる。
「この子の言うことを?」
父は答えない。沈黙。それが母を怒らせた。
「あなた、本当に最低ね。」
父の目が冷たくなる。
「説明してくれ。」
母が笑った。壊れた笑いだった。
「説明?子供の戯言を?」
母はルーカスを見た。
「この子が言ったの?」
俺は動けなかった。
母は階段を降りてきた。
ゆっくり。一歩ずつ。
そして、俺の前で止まった。
顔を覗き込まれ思わずうつむいてしまった。
「あなたなの?」
声が鋭くなる。
「あなたが言ったの?」
俺は何も言えない。
母の目が怖かった。母は声を荒げた。
「どうしてそんなことするの?!」
父が低く言う。
「やめろ。」
母は振り返る。
「あなたのせいよ!」
怒鳴った。
「この子が言ったから!」
父の声も上がる。
「問題はそこじゃない!」
母は笑った。泣きながら笑った。
「あなたは昔からそうよ!」
怒鳴り声が響く。皿が割れる音。グラスが倒れる音。怒鳴り声。泣き声。
俺は動けなかった。ただ立っていた。
そのとき、小さな足音がした。
ノアだった。階段の途中で立っている。まだ8歳。状況を理解していないまだ眠たそうな顔。
「ママ?」
母の泣き声が止まった。父も止まった。
でも、もう遅かった。
家の空気は壊れていた。
元には戻らない。
俺は窓を見上げた。
向かいの家。朝の光。エミリーのカーテンが開いていた。
彼女がいた。窓辺に。いつものように。光の中で。気持ちよさそうに伸びをしている。
その光が、胸に刺さった。眩しかった。
俺は思った。
俺が壊した。
この家を。
全部俺が。




