12 Iris prologue
その夜のことを、俺は今でもはっきり覚えている。思い出そうとしなくても、勝手に思い出してしまう。
まるで、映画のワンシーンみたいに。細部まで。匂いも、音も、空気の温度まで。
あの日、家には客が来ていた。父の仕事関係の人だった。
ダイニングには大人が並び、グラスが鳴り、笑い声が響いていた。豪華な食事。高そうなワイン。大人たちはみんな笑っていた。
母も笑っていた。白いドレスを着て、父の隣に座って、完璧な笑顔で。
俺はそれを少し離れたところから見ていた。まだ12歳だった。
弟のノアは早くに寝かされている。
俺は子供用のテーブルで食事を終え、二階の自分の部屋へ上がった。
窓の外を見る。向かいの家。二階の窓。そこには灯りがあった。小さな光。
エミリーの部屋だ。
彼女はまだ起きている。
ルーカスは少しだけ安心した。今日も、いる。
それだけで、胸のどこかが軽くなる。
ライトを取ろうとした。
でもそのとき、階下から声がした。母の声だった。
小さく、抑えた声。
ルーカスは階段の上で足を止めた。
こんな声を、今まで聞いたことがなかった。
笑い声じゃない。怒りでもない。もっと低い。
秘密の声だった。
階段を一段だけ降りる。リビングの灯りは落ちていた。ダイニングの客はもう帰ったらしい。
父の姿もない。また仕事をするため書斎にいたのだろう。
廊下の奥、両親のクローゼットが少しだけ開いていた。
そこから声が漏れている。母の声。
それから、男の声。知らない声だった。
俺は動けなくなった。理由は分からない。
でも、近づいてはいけない気がした。
それでも、体は動いた。
一歩。また一歩。
クローゼットの前まで来る。
ドアの隙間から、中が見えた。
母がいた。壁にもたれている。
その前に、男が立っている。
父じゃない。
俺の知らない男だった。スーツ姿。
母の頬に手を当てている。母が、笑った。昼間の笑顔とは違う笑顔だった。
柔らかくて、甘い笑顔。
その笑顔を、父に向けているのを俺は見たことがなかった。
次の瞬間、男が母にキスをした。長いキスだった。母は、拒まなかった。
その瞬間、世界が止まった。音が消えた。時計の針も、空気の流れも、すべてが止まったみたいだった。
俺は呼吸を忘れていた。
何を見ているのか、理解するまで少し時間がかかった。
でも、理解した瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
ガラスみたいに。音もなく、粉々に。
母が言った。
「家でなんてダメよ。主人に気づかれちゃう。」
男が笑った。
「大丈夫だよ。」
母がまた笑う。
「あなた、悪い人ね。」
その言葉を聞いた瞬間、俺は後ろへ下がった。
廊下の暗闇に戻る。息ができない。胸が痛い頭が真っ白だった。
嘘だ。
そう思った。
これは何かの間違いだ。母はそんなことをしない。父を愛している。
この家は、幸せな家族だ。
ずっと、そうだった。そう思っていた。
でも、ドアの隙間から見えた光景はそれを全部、簡単に壊した。
俺は階段を必死に上がった。壊れそうなほど脈打つ心臓を抱えながら。
足が震えていた。部屋に戻る。ドアを閉める。ドアに背を預け崩れ落ちながらもなんとか鍵をかけた。
窓の外を見る。向かいの家。エミリーの窓。小さな光。彼女がいる。
きっと今も、変な顔をしている。笑っている。
いつもの夜。
その光が、まぶしかった。胸が苦しくなる。
俺は窓から離れた。見てはいけない。そう思った。
あの光を、今の自分が見てはいけない。
机の前に座る。手が震えている。どうすればいいのか、分からなかった。
父に言うべきなのか。言わないべきなのか。
でも、もし父が知らなかったら?
もし父が、母を信じていたら?
俺は目を閉じた。
そして、次の日の朝、父に言った。
その一言で、すべてが終わった。
その日から、この家は、家じゃなくなった。




