10 helios prologue
放課後、私は書店でバイトをしている。小さな個人書店。駅から少し離れた通りにある、古い店だ。
棚は木製で、ところどころ色が剥げている。
ページをめくる音と、紙の匂い。
その静けさが、私は好きだった。
レジに立ちながら、窓の外を見る。向かいには、小さなカフェがある。テラス席があって、午後になると人が増える。
黒い車が停まった。
胸が、少しだけ強く鳴る。
見慣れた車だった。
後部座席のドアが開く。降りてきた横顔を見て、私は目を逸らす。それでも、視界の端で分かってしまう。
ルーカス。
長い脚で、何でもない顔をして歩く。人の視線なんて、最初から存在しないみたいに。
彼の隣には、女性がいた。
長い髪。笑い方が派手で、腕を絡める距離が近い。今日も違う人だ。
二人はカフェの前で立ち止まる。何か言葉を交わして、笑う。そして、あまりにも自然に。
ルーカスは彼女の肩に手を回した。そのまま、顔を近づける。
キス。
ほんの短いもの。でも、それだけで十分だった。
ああ。
私は視線を落とす。
バーコードをスキャンする音が、やけに大きい。
ピッ。
ピッ。
まるで誰かが、私の心を指で弾いているみたいだった。
「大丈夫?」
店長の声。私は顔を上げる。
「はい。」
自分でも驚くほど、普通の声だった。嘘は慣れている。
私は彼を見るけど、彼は私を見ない。
それはずっと前から分かっていることだ。
彼の世界に、私はいない。
ただ、それだけ。
バイトが終わる頃には、空は少しだけ暗くなっていた。
店を出ると、夕方の風が頬に当たる。私はカフェの方を見ないように歩いた。見なくても、分かるから。
あの人はきっと、まだ笑っている。
家に帰ると、窓の外はオレンジ色に染まっていた。夕暮れ。
向かいの家の窓は、まだ暗い。
私はバッグを床に置いて、ベッドに座る。少しして、窓が軽く鳴った。コン、と小さな音。振り向く。窓枠に、見慣れた影がいた。
「……ノア。」
窓を開けると、彼は器用に部屋に入り込んでくる。
私より二歳年下。ルーカスの弟。そして、いつの間にか私の友達になった少年。
ノアは何も言わず、床に座った。ベッドに背中を預ける。少しだけ、疲れた顔。私は毛布を引き寄せて、彼の肩にもかける。
「ありがとう。」
小さな声だった。私たちはしばらく、黙って夕焼けを見ていた。お互いの肩にもたれて。体温を分け合いながら。
向かいの家。
あの窓。
いつも私が見ている場所。
「どうしたの?」
しばらくしてそう聞くと、彼はしばらく黙っていた。
「……さっきさ。」
ぽつりと、言う。
「父さんにさ、言われたんだよ。」
「“お前ももう少し頼りになるようになれ”って。」
「頼りになるってなにさ。頭も良くて、スポーツも出来て。女遊びが激しくて。父さんにとっても、兄貴にとってもオレはずっと子どものまま。」
「…兄貴の部屋、見えた。」
私は何も言わない。
ノアは笑った。でも、笑い方が少しだけ固い床に落ちている光を見ながら言う。
「また違う人だった。」
夕暮れの光が、彼の横顔を赤く染めていた。
「そっか。」
「ねえ、頼りになる……それ、難しい?」
「うん。」
即答だった。ノアは肩をすくめる。
「俺、兄貴みたいになれないし。努力しているよ。成績だって悪くない。でも、兄貴みたいに振る舞えない。金持ちの社交?」
「私は頼りにしてる」
ノアの頭を引き寄せキスをする。
「……ありがとう。」
小さな声。私たちは、そのまま並んで夕焼けを見る。
向かいの家。
あの窓。
いつも私が見ている場所。
雰囲気を変えようとしたのだろう。
「この間さ。」
ノアが明るく言った。
「うん?」
「レイラいたじゃん。」
私は少し笑う。
「いたね。」
酔っぱらって、私に抱きついて、笑って。強くて、自由で、きれいで。
ノアは床を見ながら言う。
「……やばいかも。」
「なにが?」
「好きになった。」
私は一瞬、目を見開いた。そして、心の中で叫ぶ。
(キャー!!認めちゃった!教えてくれた!)
声には出さない。絶対に出さない。顔はできるだけ平静を保つ。でも、口元がどうしても緩む。
「……うん。」
「なにその顔。」
「してない。」
「してる。」
ノアはため息をつく。
「笑うなよ。」
「笑ってない。」
私は毛布に顔を埋める。肩が震えないようにするのが大変だった。少しして、ノアが言う。
「でもさ。」
「うん?」
「たぶん無理。」
即答だった。
「なんで?」
「俺、子ども扱いされてるし。」
それは、まあ、うん。
翌日のレイラの態度を思い出す。
「ノアってさ、ほんと可愛いよね。無垢ぽさが」
あれは完全に弟枠だった。というか、弟と呼ばれてたし。
ノアは苦笑する。
「あと、ああいうタイプ、俺みたいなの好きにならない。」
私は少し考える。意外とイケる気もするが。
それから言った。
「……私も。」
ノアが顔を上げる。
「なにが?」
私は窓の外を見る。向かいの家。あの窓。
「無理な人、好きになってる。」
ノアはすぐ理解した。
「兄貴?」
私は笑う。
「うん。分かっちゃった?」
「そりゃね。よくあの窓見てるし。ヘリオスなんて呼んでるみたいだし。」
少しだけ肩をすくめる。
「とんでもない人、好きになったね。」
ノアが言う。
「あなたもね。」
少しだけ沈黙が落ちる。
夕焼けが、部屋をオレンジ色に染めていた。
ノアがぽつりと言う。
「つらいね。」
私はうなずく。
「うん。」
でも、不思議だった。一人で感じていた痛みが、半分くらいになった気がした。
少しして、ノアが言った。
「ねえ。」
「うん?」
「どうしてルーカスのこと、ヘリオスって呼ぶの?」
私は少しだけ迷う。それから、笑った。
「小さな頃ね。」
窓の外を見る。夕焼けの向こう。向かいの窓。
「夜、窓越しにライトで遊んでたの。」
ノアは黙って聞いている。
「嫌なことがあっても、今日会えるかなって思えたし。」
指先で毛布をつまむ。
「会えたら、その日が最後に明るくなった。」
少しだけ肩をすくめる。
「だからかな。」
ノアはしばらく何も言わなかった。
私は、ふっと息を吐く。
「そういえば、レイラがさ。」
「うん?」
「誘蛾灯だって言うの。」
私は笑う。
「わぁ、言うね。」
「ひどいでしょ?」
ノアは少し考えてから言う。
「でも誘蛾灯に一票。」
私は目を見開く。
「もう、自分のお兄さんでしょっ。」
ノアは肩をすくめた。
「自分の兄だからこそ。」
軽い口調だった。でも、目は笑っていない。私は少しだけ視線を落とす。ノアはそれ以上何も言わない。
代わりに、窓の外を見る。夕陽がゆっくり沈んでいく。
少しして。どちらからともなく、笑った。
理由は分からない。ただ、少しだけ気持ちが軽くなっていた。
ノアが言う。
「エム。」
「……え?」
「エム。いつも話聞いてくれてありがとう。」
私は首を傾げる。
「エム?」
「そう。」
ノアは笑う。
「エミリーだから。」
私は少し考えてから言う。
「じゃあ、あなたは……」
彼を見る。
「ノエル。」
ノアが瞬きをする。
「ノエル?」
「うん。」
私は笑う。
「ノエルだ。」
ノアも笑った。
そのまま、少しだけ身を乗り出す。
私たちは、ふざけるみたいに額を軽く合わせた。くすっと笑う。
そのときだった。
窓の外。
向かいの家。
暗かったはずの部屋に、灯りがつく。カーテンが動いた気がしたが気のせいだろう。
私は気づかない。 ノエルも気づかない。
向かいの窓の向こう。
そこに、ルーカスが立っていたことを。
ヘリオスが、静かにこちらを見ていたことを。




