天文19年7月15日、今日、滅亡しました。
「ハア、ハア、ハア……」
きつい。つらい。暗い。こわい。息切れする。汗が目に入る。疲れた。足が痛い。足元もろくに見えない。だからグズった。
齢、数え年で5歳の小笠原小僧丸は、夜明け前からずっと足場の悪い山道を登らされている。だから何度もつまづき、3回も転んだ。泣いても相手にされないどころか、何処かから「うるさい」と怒鳴られた。小僧丸は実母、二木藤菜に手首を強く握られ、引っ張られている。
「は、母うえ、いたい。疲れました……」
これも2度は訴えた。しかし、藤菜の回答は変わらない。
「我慢しましょう。はあ……、はあ……」
藤菜もひどく疲れている。健康体とはいえ運動は苦手のようだ。小僧丸は目が回りそうでも、倒れまいと踏ん張っている。しかしなぜ、こんなに急いで山を登るのか? その理由が分からなかった。小僧丸の前後にも人はいる。老若男女どれだけいるのだろう? ともかくたくさんいる。みんな同じように付き合わされていた。
「二木の方様っ」
小僧丸の後ろから男の声が聞こえる。聞き覚えのある声だからすぐ分かった。親戚の若武者、小笠原頼貞である。たしか、何ヶ月か前までは幼名だった。
藤菜は振り返った。
「頼貞殿か?」
「はい、姫様。ああ、立ち止まらずそのまま」
「そ、そうね……」
「それより、若様がひどくお疲れのご様子。某がなんとかましょう」
「左様か。すまない」
小僧丸は頼貞から軽々と持ち上げられ、おぶるどころか、肩車をしてくれた。小僧丸は驚いたが、楽になれて嬉しくなったら、足の痛みがまた現れる。
「いたぁぁい……」
頼貞は心配の声をかけようとしてら、小僧丸の両方の膝が擦りむいていた。
「若様、申し訳ございませんが、頂上に着くまで堪えてください。着いたら血と汚れを拭きましょう」
「う、うん……」
小僧丸は、肩車されて視界が一気に開けたので、気を紛らわせることができた。周囲は薄暗いものの、木漏れ日が所々に差すからよく見える。この一行は、まるで大蛇のように長い。
小僧丸は頼貞に質問した。
「ち、父うえは?」
頼貞は答えた。
「御館様なら、もう少し前におられるはずです」
「あ、兄うえは? 叔父うえは?」
「長隆様(長男)なら御館様とご一緒でしょう。曽寿丸様(次男)は一昨日、ひと足先に大方様(祖母)とともに会田のご実家、浦野館へ避難しています。貞種(叔父)様は、譜代の尾藤親子と共に一番後ろにおられます」
ここで小僧丸のお腹が鳴った。
「おなかすいた。お屋敷に帰ろうよ……」
「もう、信府(信濃府中)の守護館には戻れません。メシならおそらく、山の頂に着いた時にいただけましょう」
「な、なんで……?」
頼貞は一瞬、躊躇した。藤菜は小僧丸に事情を教えたつもりだが、この状況だ。5歳児には耐えがたいほどの激しいストレスで忘れたのだろう。頼貞は小僧丸の様子を悟り、解説は後にしようと決めた。
後ろ側の、男たちの混乱と不安にあふれた声が漏れ聞こえる。
「早く登れ」「敵がいつ来るか分からんぞ!」「見つかったら終わりだ!」
等々。小僧丸は落ち着いたと思ったのに、これも怖くなり、震えた。
今日、天文19 (1550)年7月15日、小笠原家が滅亡した。一角の大名だった。滅ぼした仇敵の名は、武田晴信という。東の隣国、甲斐国の守護大名である。武田晴信は2万ともいわれる大軍勢を率いて、数日前に塩尻峠を越え、小笠原の本領筑摩郡を侵略してきた。このせいで多くの譜代家臣や国衆が敵に寝返り、飛び交う情報もあることないことが乱れ飛んだ。そのため小笠原家中は誰もが疑心暗鬼になった。これでは応戦どころではなく、全てを捨てて逃げるしか手がなくなったのである。
小僧丸と藤菜、頼貞が山道の森を抜け、山頂の高原に着いた。
まぶしい。小僧丸は降ろされると、そのまま寝転がった。全身に日の光と草原の香りを浴びる。日光自体は暑いが、風がとても涼しく爽やかだった。目が慣れると、ちぎれ雲が目線の近くを横切っていた。小僧丸はこの新鮮な光景に思わず上半身を起こす。辺りを見渡せば、気高き山々がその雄姿を見せた。東は浅間山から八ヶ岳まで。西は穂高連峰。南は木曽と甲斐の両駒ヶ岳、北は槍ヶ岳や戸隠の黒姫山や槍ヶ岳。信濃中の名峰が全て確かめられる。湿度でぼやけるが、越後国の妙高山と甲斐国の霊峰富士も視認できた。
小僧丸は感動するほどに心地よかった。
「綺麗……」
思わずつぶやいた。ため息さえ漏れた。ここで藤菜が小僧丸の横に現れ、3つある竹筒のひとつを渡してくれた。
「ありがとうございます。母上」
竹筒を手渡されると、小僧丸は一気に飲んだ。もっと飲みたいと思うと、藤菜に叱られた。
「小僧丸や。これから先も歩くのですよ。ここで飲み干してどうするの?」
「ご、ごめんなさい……」小僧丸は謝った。
「私のを半分、飲みなさい」
藤菜は自分の竹筒を小僧丸に渡し、小僧丸は申し訳なさそうに受け取った。藤菜はもう1つの竹筒の水を使って、小僧丸の膝を洗って治療した。最後に小僧丸の汗も拭いた。
その間、森から人がどんどん現れ、倒れるように休む。先行して休息する老若男女も含め。ざっと見ても100名は超えていた。小僧丸のような子供も男女10何名ほどだろうか、確認できた。そして一行の最後尾、小笠原貞種、老臣尾藤重忠とその長男主膳、次男重吉が水桶を背負って現れた。貞種が声を上げ、小休止する者たちに言った。
「敵の来る気配は、もうない。だから気を緩めていいぞ。少し下の水源から湧き水を組んできた。皆の者、今のうちに竹筒に入れてくれ!」
小僧丸は喜んで貰いに行こうと立ち上がったら、後ろから父、小笠原長時が現れた。譜代の征矢野宗澄と宗定の若い兄弟を護衛としていた。
「小僧丸、ケガはどうだ?」
小僧丸はやっと父に会えて、嬉しかった。
「はい。母うえに治してもらいました」
「そうか、苦労をかけたな」
長時は小僧丸を心配し、頭を撫でた。小僧丸は長時に言った。
「父うえ、お水、貰ってきてもいいですか?」
長時は苦笑いして答えた。
「行かなくてよい。貞種が既に確保してるはずだ。いつでも貰えるから待ってなさい」
「は、はい」
征矢野兄弟が長時の家族を集めてくれた。実弟貞種と、嫡男長隆と、長隆の新妻林夫人と、長時の正室仁科夫人。藤菜は側室である。しかし、人数があわない。藤菜は心配になった。
「あの、御館様。もう一人の側室は?」
長時は苦渋の表情で答えた。
「未だ身ごもっているからな。中山の保福寺に預けた」
「そ、それでは……」
「ああ、敵に襲われたらひとたまりもないだろう。その時は特別に許すから、降伏しろと伝えた。襲われないよう祈るのみだ。兎に角、命大事。ワシが武田晴信を追い払うまでの辛抱じゃ」
「は。はい……」
ここで小僧丸が、自信なさげに質問した。
「ち、父うえ、これから何処へ行くのですか?」
長隆は一息ついてから、教えた。
「会田だ。もし再起を図ることがあればと考え、母上と曽寿を先行させておいたのだ」
その〝もし〟が現実となってしまった。征矢野兄弟は休息する全員に行先を伝えるため、その場を離れた。
長時家族の後ろから、一部家臣のざわつきが起こり、次第に大きくなり、悲鳴すら聞こえた。小僧丸は〝なんだろう?〟と思って声の聞こえる西側を見る。小僧丸は驚いた。
「え……!?」
麓から、いくつもの大きな白煙と黒煙が上がっていたのだ。長時の守護館や信濃府中の町が、敵のせいで放火されている。
男たちは怒り、女子供たちは泣く。
「ああ……、ワシらの町が!」「畜生、武田め!」「いやだあぁぁぁ!」
小僧丸は再度、恐怖を感じた。恐る恐る長時の下に行く。小僧丸が見上げると、長時の、激しく震える拳と厳しいまなざしが印象深かった。小僧丸は下をむき、長時の袖をそっと掴む。長時は気づいて下を向き、拳の震えを止め、小僧丸をなでて言った。
「小僧丸よ、目をそらすな。辛くても我らの生まれ故郷だぞ。よく見て頭に焼き付けろ」
小僧丸は息を呑んでから頷き、黒煙白煙と炎に消される故郷を眺めた。昨日まで暮らした思い出の全部が否定される。悲しい。怖い。涙が止められない。それが次第に悔しくなって歯を食いしばり、全身を震わせる。
小僧丸は長時を見た。すぐに伝わった。一番辛いのは長時だと。鎌倉時代から信濃の守護を務める小笠原家を潰した張本人だからだ。長時はこれからは死ぬまで、いや、死んでからもずっと無能のレッテルを張られる。その汚名は返上できないだろう。長時は涙は流したいが、それでも堪えなければならない。一国を司る守護の誇りとして。だから決意した。
「ふざけるな武田晴信。本当の戦いはこれからぞ。この屈辱は必ずや返す!」
無能の汚名は晴らせなくとも御家再興なら出来る。長時の息づかいが荒くなり、拳がまた震えた。小僧丸はそんな長時に気づく。いつも見慣れた大きな背中が初めて小さく見えてしまい、空しくなった。そう思ったら、お腹がグーグー鳴った。食事がまだだった。小僧丸は長時に聞いた。
「父うえ、ごはんは?」
「なしじゃ」と長時は即答し「会田に着くまで我慢なさい」と強く言い聞かせた。
「うう…………」
小僧丸はそれでも父を信じ、我慢するしかなかった。
穂高連峰が雷雲を作り始めた。会田まで距離は遠いが、急げば夕刻に着けるはずだ。長時一行の夕立遭遇と会田到着、どちらが早いか、今が瀬戸際と感じた。
「さあみんな、行くぞ」
長時は歩き出す。休息は終わりだ。小僧丸も一行の全員も、立ち上がって長時に従う。
小笠原長時。官位は従五位上。役職は大膳大夫兼信濃守。更には室町幕府から信濃守護職も任されている。そしてなにより、武家礼法と弓馬術で最も有名な小笠原流を作り上げた甲斐源氏の名門である。これが人生のどん底に叩き落とされた。遠戚の甲斐源氏、武田家によって。しかし、それでも長時に従う家来とその家族が、百何十名もいる。
長時は、この忠義深い哀れな者たちの人生を立て直すためにも、御家再興は宿命となった。




