第57話 究極の安眠妨害
「さあ、始めようか、イザベラ。最後にして最高の絶望のフルコースを」
玉座の王――美しい皮を被った千年の狂気が両手を広げた。
これから始まる破滅のオペラの指揮者のように。
宣言と同時に、玉座の背後からどろりと黒い影が溢れ出す。意思を持つ生き物のように最上階を埋め尽くしていく。
千年のあいだ王が喰らってきた魂の残滓。贄となった乙女の嘆き、王位継承の贄となった若者の無念。永遠の命のため踏みにじられたすべての命の絶望と憎悪の集合体。
ひやり。空気が変わった。
物理の温度ではない。魂が直接凍りつく絶対零度の悪意。
天井の偽りの星々が禍々しい気に当てられ、震えるように輝きを弱める。
「……やれやれ。少し想定外の面倒さですな」
隣のノアが銀の瞳をわずかに細める。いつも余裕綽々の声に初めて警戒の色。
「お姫様。こいつら、ただの亡霊じゃない。一つひとつが強力な呪いの塊。まともに相手すれば、こちらの精神が先に削られますぜ」
「ええ、本当に」
うごめく絶望の群れを見据え、心底うんざりと溜息。
「お掃除は嫌いではございませんけれど。一度にこれほどの害虫を駆除するのは、さすがに骨が折れそうですわね」
あまりにマイペースな返答に、王は心底楽しそうに笑った。
「くくく……ははは! まだそんな口が利けるか、イザベ――ラ! いいだろう。その氷の仮面、わたくしが一枚一枚、丁寧に剥がしてやる!」
指がぱちんと鳴る。
合図とともに、影の一つが粘土のように形を変えた。二人の見慣れた人影に。
威厳ある壮年の男。優雅な貴婦人。
父アルブレヒトと母レオノーラの幻影。
「……ほう。まずは家族の情。ベタな演出。脚本家の才能が知れますわね」
冷ややかに評する。
だが、その瞳には愛情も期待もない。氷の侮蔑と失望だけ。
「――イザベラ」
父の幻影が口を開く。聞き慣れた力強さはなく、他人行儀で冷え切った声。
「お前はヴァレンシュタイン家の最大の恥だ。家の権威を高める道具にもならぬばかりか、王家に牙を剥き一族を破滅へ導く疫病神。産まなければよかった」
九十九回、心のどこかで恐れていた言葉。
胸の奥がちくりと刺さる。
続いて母の幻影が美貌を悲しげに歪めた。
「リリィ……なぜ? あなたはお母様の言うことを聞いて、完璧で可愛いお人形でいてくれればよかったのに。どうして、こんな恐ろしい化け物に……。あなたはもう、わたくしの愛しいリリィではありませんわ」
拒絶の宣告。
過保護で面倒でも、誰より愛してくれていたはずの母からの最後の通達。
痛みが少し大きくなる。
「……まあ、いつものことですわね」
不快なさざ波を完璧なポーカーフェイスの下に隠し、呟く。
「お父様もお母様も、結局、わたくし自身をご覧になってはいなかった。ただ理想の娘という偶像を押し付けていただけ。九十九回、聞き飽きた台詞ですわ」
冷静な反応に、王がわずかに眉をひそめる。
「ふん。九十九回の絶望を生きた女か。今の揺さぶりでは仮面は剥がれんか。――では、これはどうだ?」
再び指が鳴る。
父母の幻影が霧のように消え、代わりに一人の少女。
栗色の髪。大きなヘーゼルナッツ色の瞳は涙でぐしゃぐしゃ。小さな体は絶望に震える。
エミリア・ブラウン。
「イザベラ様なんて大嫌いッ!!」
金切り声。
「あなたは人の心をもてあそぶ冷たい魔女! わたくし、あなたを信じていたのに! 力になりたいと思っていたのに! あなたはわたくしの気持ちを踏みにじった! あなたのせいで、心はめちゃくちゃよ! 二度と顔なんて見たくない! 消えてしまえばいい!」
剥き出しの憎悪。
善意が裏返ったときに生まれる、最も鋭く痛い刃。
――何も言えない。
彼女の言葉は真実だから。
わたくしの沈黙が彼女を傷つけ、身勝手な期待が心を裂いた。百回目の人生で初めて犯した取り返しのつかない過ち。
後悔と罪悪感が鉛のようにのしかかる。痛みは鈍く、深く。
「ほうら、見ろ。効いてきた」
王が楽しげに囁く。
「お前が初めて手を差し伸べた小鳥が、今、お前の偽善を呪っている。心地よい気分ではあるまい?」
唇を噛む。
次の影が形をとる。燃える赤髪の騎士――カイン・アシュフィールド。
翠の瞳に憧憬はない。底なしの軽蔑と失望だけ。
「……あんたに捧げた俺の忠誠は間違いだった」
吐き捨てるように。
「あんたは聖女なんかじゃない。自分のことしか考えない、独りよがりで傲慢な女だ! 見せかけの優しさに騙されて、命まで懸けた俺が馬鹿だった。あんたのために騎士の誇りを汚すわけにはいかない。もうあんたは俺の主君じゃない」
胸の内で、何かがぎしりと軋む。
暑苦しいほど真っ直ぐな忠誠。面倒だと思いながら、その温かさに救われていた自分がいなかったと言い切れる?
彼の純粋を、わたくしは計画のために利用した――紛れもない事実。
刃となって心を抉る。奇妙な「微熱」が不快な灼熱へ変わっていく。
「……くくく。どうした、イザベラ。顔色が悪いぞ。手懐けたつもりの忠犬に噛まれる気分は?」
嘲笑が響く。
言い返せない。
呼吸が浅くなる。世界から色が抜ける。
九十九回味わった孤独の気配が背後から忍び寄る。
そして最後の影が姿を結ぶ。
夜色の髪、銀の瞳――ノア。
いつもどおり飄々と立ち、口元に三日月の笑み。だが瞳は氷のように冷たい。
「いやはや、お姫様」
芝居がかった肩すくめ。
「あんた、本当に最高の玩具でしたぜ。滑稽な『安眠計画』のおかげで、俺は最高の退屈しのぎができた。千年の退屈な世界で、あんたほど面白く扱いやすい人形はいなかった」
心臓がどくんと不快に脈打つ。
――違う。
この男だけは違うはず。
胡散臭い共犯者にして、わたくしの本質を理解した上で隣にいたのではなかったのか。
あの知的な遊戯、脳髄が痺れる時間――すべて嘘?
「だが、それも終わりだ」
冷徹な声。
「結局、あんたは俺の手のひらで踊っていただけの哀れなお姫様。さようなら、イザベラ。お遊戯はなかなか楽しかったぜ」
最後の一言が、心の最後の支えを粉々に砕く。
「――ほら見ろ、イザベラ」
王の声が勝利の確信を帯びてこだまする。
「お前は結局、一人だ。誰もお前を本当の意味で理解しない。どれほど足掻こうとも、お前の居場所は世界のどこにもない!」
「お前はただ一人、絶望の中で死ぬ。九十九回、繰り返してきたようにな!」
呪いのような言葉が魂に絡みつく。
九十九回分の絶望がフラッシュバックする。
断頭台の冷たさ、火刑台の熱さ、裏切りの痛み、孤独の寒さ。
世界が完全に色を失い、モノクロームの悪夢へ。
安眠どころではない。究極の安眠妨害。
心の平穏を根こそぎ奪う最悪の拷問。
「……あ……」
膝から力が抜けた。立っていられない。
がくりと膝をつく。
うなだれた視線の先に広がるのは冷たい大理石の床だけ。
わたくしの心の風景のように、どこまでも冷たく空虚。
「はははははは! そうだ、それでいい! それがお前の本来の姿だ、イザベラ! 絶望にひざまずく、哀れな贄の乙女だ!」
狂喜の高笑いが最上階に響き渡る。
「イザベラ様ッ!」
「お姫様ッ!」
本物のカイン様とノアの悲痛な叫びが、遠くで聞こえた気がした。
けれど、もう耳に届かない。
心は再び、九十九回の孤独な闇へ沈もうとしていた。
(……ああ、そう。やはり、わたくしは、一人)
冷たい諦観がすべてを支配しようとした、その瞬間――




