第56話 最後の害虫、その名は
星の塔の螺旋階段は、天へ続く巨獣の背骨のようだった。
ひんやりした石。一步ごとに、下界の喧噪――父の怒号も、カイン様の剣戟も、エミリアさんの聖なる歌声も――が遠のいていく。
こつ、こつ。永遠に続くかのような静寂に、わたくしたちの足音だけが単調な拍を刻む。
「……はぁ」
本日何度目か分からない、心底うんざりした溜息。
「わたくし、階段を上るのは好きではございませんの。特に終わりの見えない螺旋は。目が回りますわ」
あまりに緊張感のない文句に、数歩後ろを影のようについてくるノアが、喉の奥でくすりと笑う。
「いやはや、さすが我が女王陛下。これからこの国の千年の歴史に喧嘩を売りに行くというのに、最大の懸念が階段とは。揺るぎなきマイペース、感服いたしますぜ」
「当たり前ですわ」
振り返らずに答える。
「この無駄な上下運動で消費される、わたくしの貴重なカロリー。本来、極上の安眠のために蓄えるべき大切なエネルギーですのに。建築家の悪趣味な自己満足に浪費させられるなど、断じて許されませんわ」
「では、俺がお姫様抱っこでお連れいたしましょうか?」
人を食った提案。
「結構ですわ。あなたの胡散臭い腕の中より、自分の足でこの面倒な階段を一段一段上る方が、精神衛生上まだましですから」
不毛な軽口を交わしているうちに、踊り場が現れた。
わたくしは足を止める。壁に一枚の肖像画――黒髪の美しい少女。アーモンド形の瞳は憂いを含み、遠いどこかを見つめている。
見覚えのある顔。ヴァレンシュタイン家初代当主の奥方。最初の「聖女」にして最初の「贄」。
「……ほう。これは悪趣味な内装だ」
ノアが並び立つ。「まるで生贄のギャラリー」
彼の言う通り、上るたび次の肖像が現れる。
二番目の贄。十番目の贄。五十番目の贄――。
誰もが若く美しく、その瞳の奥には同じ諦観と深い悲しみ。
皆、わたくしの遠い血の姉妹。九十九回、わたくしが辿ってきた運命の先輩たち。
わたくしはどの絵とも視線を合わせない。
同情しない。憐れまない。
(感傷は安眠を妨げるノイズですもの)
ただ無感動に、美しい牢獄の壁を通り過ぎた。
やがて螺旋は尽き、巨大な扉が現れる。
黒曜石の重い扉。表面に星々を模した複雑な紋様。
「星の塔」の最上階――すべての因縁が渦巻く最後の舞台。
ノアが取手に手をかける。
だが、わたくしは制した。
「……待ちなさいな」
ドレスの裾を指先で整え、乱れた髪をひと筋、耳へ。
深呼吸をひとつ。
(これから始まるのは、この百回目で最も面倒で骨の折れる“お仕事”。せめて身だしなみは完璧に)
「……よろしいですわ」
合図に、ノアは優雅に一礼し、重い扉をゆっくり押し開く。
ギィィィィ――。
錆びた蝶番が千年を嘆くように悲鳴を上げた。
あふれ出したのは光ではない。濃く冷たい狂気の匂い。
そこはかつて足を踏み入れた「星見の間」を模していた。
天井に偽りの星、壁一面に古代文字。
だが雰囲気はまるで異なる。神聖な静寂は消え、支配しているのは一人の人間の歪んだ欲望と独善的な美意識。
高価だが下品な調度が無造作に置かれ、床には最高級のペルシャ絨毯が何枚も重なっている。
部屋の中心――かつて黒曜石の祭壇があった場所には、いま黄金の巨大な玉座。あまりの悪趣味に思わず眉が寄る。
玉座に座すはユリウス・テオ・ド・ラ・ファイエット。
若き王子の美しい肉体。だが空色の瞳の奥にあるのは、愚かで哀れな少年ではない。千年を生き狂気に蝕まれた初代王アレクシオス一世の昏く冷たい光。
完璧な唇に三日月の歪んだ笑み。
「――来たか、イザベラ」
若く力強い声に、古い魂の重みが宿る。
「我が最高の贄よ。そして、最後の玩具よ」
人間として見ていない言葉。
わたくしは何も感じない。
ただひとつだけ思う。(ああ、お話が長そう。安眠に致命的)
ふぁあと、大きな欠伸を隠しもせずしてみせ、千年もの歴史を引きずる最後の害虫へ言い放つ。
「あなたこそ、わたくしの『安眠妨害リスト』の最後に残った、最も駆除しがいのある害虫ですわね」
不遜な返答に、完璧な笑みの仮面へ初めて亀裂が走ったのが分かった。
「……ほう。九十九回の死を経ても、まだその生意気な口は健在か。だが今日までだ。お前はここで再び我が礎となる。お前の美しい魂は、我が新たなる千年の糧となる」
王はゆっくりと立つ。若い王子ではなく、幾世紀の威厳をまとった絶対君主の所作。
「理解しておらぬのだ。わたくしの存在こそ、この国の安寧。わたくしの千年の叡智が戦乱を退け、民に豊穣を与えてきた。そのための、ほんのわずかな犠牲――それがお前たちヴァレンシュタインの女の存在意義。気高く美しい宿命であろう?」
宿命。
独りよがりで虫のいい言葉に、思わずくすりと笑う。
「まあ、面白いことをおっしゃいますのね、陛下。出来の悪い童話のよう。自分だけが気持ちよくなるための、ご都合主義な物語」
一歩、前へ。
「わたくし、大義名分というものがこの世で一番嫌い。国のため? 民のため? 笑わせないで。あなたが守りたいのは、あなた自身の永遠の命という、醜く孤独な欲望だけではなくて?」
「黙れッ!」
初めて声が荒ぶ。美貌が怒りで醜く歪む。
「器風情に、我が気高き理想の何が分かる!」
「ええ、分かりませんわ。理解する必要もございませんもの」
冷たい声。
「あなたの気高き理想とやらは、わたくしの安眠を妨げる。――ただそれだけの理由で、今この場で駆除の対象ですわ」
あまりに純粋で絶対的な利己主義。
王は怒りすら忘れ、呆然とわたくしを見つめた。
千年の間に彼は数多の人間を見たはず。反逆者も英雄も聖者も悪人も。
だが、目の前の少女はどの類型にも当てはまらない。
自分の心地よさだけを世界の中心に据える――神でも悪魔でもない、怠惰で気高い一匹の猫の視点。
「……貴様は、一体何なのだ……」
絞り出す声はわずかに震えていた。
「さあ、何でしょう。わたくしにもよく分かりませんわ」
肩をすくめる。
「ですが、一つだけ確かなことがございます」
アメジストの瞳に、この百回目で手に入れた新しく本当の強さの光を宿し、告げる。
「わたくしは、もう、あなたの物語の中の哀れな登場人物ではございませんの」
「これは、わたくしの物語。最高の安眠を手に入れるためだけの物語ですわ」
「そして、その物語に、あなたのような騒々しい害虫は不要です」
静かで絶対的な宣告。
空色の瞳に、千年の狂気と、初めて味わう純粋な恐怖が浮かぶ。
「……いいだろう、イザベラ」
声はもはや怒りでなく、どこか楽しげ。追い詰められた獣が見せる最後の狂気の煌めき。
「言葉で分からぬなら、その生意気な魂に直接教えてやる。お前がどれほど無力で孤独な玩具かをな!」
叫ぶや、空気が変質した。
天井の偽りの星が光を失い、玉座の背後からどろりと黒い影が溢れ出す。
千年の間に王が喰らってきた魂の残滓。絶望と憎悪の集合体。
「さあ、始めようか。最後にして最高の絶望のフルコースを」
両手を広げる姿は、もはや王ではなく混沌の化身。
終末の光景に、隣のノアが小さく息を呑む。
「……やれやれ。少し想定外の面倒さですな」
「ええ、本当に」
同意し、うごめく絶望の群れを見据えながら、心底うんざりした溜息をひとつ。
「わたくし、お掃除は嫌いではございませんけれど――」
「一度にこれほどたくさんの害虫を駆除するのは、さすがに少し、骨が折れそうですわね」




