第55話 オペレーション・エターナルスリープ、開始
その夜、王宮の「鏡の間」は偽りの光で満ちていた。
千の蝋燭を抱く巨大なシャンデリアが磨き上げられた大理石と壁一面の鏡に幾重にも反射し、空間は星海の幻影に変わる。
建国記念の大夜会――この国で最も華やかで、そして最も空虚な儀式。
偽りの星海を支配するように、広間の最奥、ひときわ高い玉座に一人の王が座す。
ユリウス・テオ・ド・ラ・ファイエット。
若く美しい肢体を持ちながら、その空色の瞳に宿る光は、愚かで哀れな少年のものではない。千年を生き狂気に蝕まれた初代王アレクシオス一世、その昏く冷たい光だ。
彼の前に集う貴族たちは完璧な笑みの仮面を貼り付けていた。だが内側では、恐怖と追従、そしていつ狂気の矛先が自分へ向くかという絶望的な緊張に胸を締め付けられている。
彼らは知っている。この美しき王が、もはや人の心を失った化け物だと。
その息詰まる祝宴のさなか、わたくしたちヴァレンシュタイン家の一行は、何事もない顔で優雅に身を置いていた。
「……まあ、お父様。ご覧になって。あのシャンデリア、埃が溜まっておりますわ。王宮も財政が厳しいのかしら。掃除婦を減らしたのかもしれませんわね」
わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインは夜色の豪奢なドレスの裾を指で弄びながら、隣の父アルブレヒトに囁く。
アメジストの瞳は、目の前で繰り広げられる国の未来など露ほども興味がないと言わんばかりに、ただ退屈の色を浮かべていた。
「リリィ。今はそのようなことを口にする時では――」
父が威厳ある声で窘めようとする。
「あら、なぜ? 埃は埃ですわ。それに、あちらのランゲンブルク侯爵夫人。胸元のルビーは我が国の鉱山の石ではございませんわ。隣国からの密輸品。それにデザインが致命的に古臭い。まるで去年の流行みたい。見ているだけで美的感覚が鈍ってしまいそう」
場違いでマイペースな批評に、父は重い溜息をひとつ落としただけだった。
わたくしの斜め後ろには三人の厄介な同行者が控える。
一人はカイン・アシュフィールド様。護衛騎士の名目で、鍛え上げられた大柄な身体を礼装で窮屈に包み、隙なく玉座の王を見据える獅子の瞳。
もう一人はエミリア・ブラウンさん。神殿より特別派遣の聖女候補として、純白の簡素なドレスに身を包み、ヘーゼルナッツ色の瞳に緊張と使命の覚悟を宿す。
最後はノア。どこかの成り上がり子爵家の遠縁の書記官――という胡散臭い肩書きで王宮の心臓部へ音もなく潜り込み、銀の瞳はこの張り詰めた華やぎのすべてを愉しむように輝いていた。
暑苦しい忠犬。
泣き虫な太陽。
胡散臭い共犯者。
わたくしの安眠をこれでもかと妨げてきた主役たちが、最後の舞台に揃っている。
(……やれやれ。本当に面倒なことになりましたわね)
侍従から受け取ったシャンパンを口に含む。
(……まあ、不味い。気が抜けておりますわ。温度もぬるい。砂糖水のよう。最後の晩餐にしては、お粗末ですこと)
そのとき、音楽がぴたりと止んだ。
王がゆっくり顔を上げる。若々しく人間味のない美貌。空色の瞳が広間を値踏みするように巡り、わたくしの上で一瞬止まった。瞳の奥に粘つく独善的な所有欲がちらり。
「皆の者、静まれ」
若々しく力強い声。だが響きには何百年も生きた古い魂の重みが宿る。
「今宵は我が国の新たなる千年の始まりを祝う宴である。同時に、古き闇を浄化する聖なる儀式の始まりでもある」
芝居がかった言葉とともに視線が再びわたくしへ。
ああ、始まった。この退屈で陳腐な三文芝居が。
さらに言葉を紡ごうとした、その瞬間――
わたくしは動いた。
「……あら」
か細く儚げな声が静まり返った鏡の間に響く。
「少し、気分が悪くなってしまいましたわ……」
額に手を当て、よろめいてみせる。指からシャンパングラスがするりと滑り落ちた。
――パリンッ。
クリスタルが大理石に砕ける甲高い音。
偽りの祝宴の終わりと、わたくしの壮大な「害虫駆除計画」の始まりを告げるファンファーレ。
合図に、沈黙を守っていた父アルブレヒトが一歩前へ。
鍛え上げられた雷鳴の声を広間の隅々まで轟かせる。
「国王陛下! いや、陛下を騙る偽りの王よ! 茶番はもう終わりだ!」
あまりに直接的で大逆無道な一言。
貴族たちが息を呑み、王の美貌に初めて驚愕の色が走る。
「アルブレヒト! 貴様、何を――」
「陛下はもはや正気にあらず!」
父は言葉を遮り、懐から分厚い羊皮紙の束を取り出した。ノアが集めた奇行の記録だ。
「ここ数ヶ月、重要な国事を放棄し、夜な夜な地下で怪しげな儀式に没頭。国庫の金を私的に流用、その目的も不明! これが国を治める王の姿か!」
力強い演説に呼応して、派閥の貴族が次々声を上げる。
「そうだ! 公爵閣下の仰る通り!」
「我らはもはや狂気の王には従えぬ!」
権威が揺らぎ、動揺が走る。
完璧なタイミングで、外から地鳴りのような鬨の声、剣戟の音。
カイン様率いる真紅の騎士団が王宮の要所を一斉制圧。
窓ガラスが震え、会場は瞬く間にパニックの坩堝。
貴婦人の悲鳴、逃げ惑う怒号、倒れるテーブル、砕け散る食器。
混沌の中心で、静かに時を待っていたエミリアさんが動く。
純白の裾を翻し、逃げる人波を掻き分けて楽団台へ駆け上がる。
小さな身体から、清らかな光が放たれた。
「皆様、お聞きくださいッ!!」
魔力で増幅された声は阿鼻叫喚の中でも全員の耳と心へ届いた。
「真の神は、このような血塗られた儀式をお望みになりません! 王家が千年続けたこの儀式は神の御名を騙る偽りの邪法! 今こそ、偽りではなく、各々の心にある真の光に従うべき時です!」
魂からの叫びと、彼女の身から溢れる温かな黄金の光。
それはパニックに陥った人々の心を不思議と鎮め、足を止めさせ、救いを求めるように光の少女を見上げさせた。
革命は始まった。
父の政治が敵の権威を砕き、カイン様の武が敵の体を封じ、エミリアさんの光が人々の心を掴む。
完璧な布陣、完璧な連携。
すべてが、わたくしの脚本どおり。
その光景を、わたくしは広間の柱影から静かに眺める。
表情は、舞台の出来を確認する冷徹な演出家のそれ。
「……やれやれ。騒がしいことですわね」
小さくため息をつき、隣の闇に声をかけた。
「ノア。行きますわよ」
「――御意」
いつの間にかそこにいた胡散臭い共犯者が優雅に一礼。
逃げ惑う人々の混乱を、川を遡る二匹の黒い魚のように、優雅に、一直線に切り裂いて進む。
悲鳴も怒号も耳に入らない。目的地はひとつ。
王宮で最も高く、最も暗い場所。すべての元凶と因縁が渦巻く「星の塔」へ。
道中、狂信的な近衛騎士が行く手を塞ぐ。
「待て、ヴァレンシュタインの魔女! ここは通さん!」
足は止めない。すれ違いざまに顔をちらりと見てひと言。
「まあ、あなた。昨夜は奥様と喧嘩でも? 目の下にひどい隈。睡眠不足はお肌にも判断力にもよろしくなくてよ。そのお顔では殿方としての魅力も半減ですわ」
「なっ……!」
思わず顔へ手が伸びる。その一瞬の隙にノアが背後を抜けた。
別の騎士が剣を構える。
「問答無用! 死ねッ!」
「あら、その構え。右肩が少し上がりすぎ。斬撃の威力が三割は落ちますわ。それに美しい剣の柄、宝石が一つ取れかけております。もったいないこと」
「え……?」
視線が柄へ落ちる。そのコンマ数秒の硬直。
わたくしたちはすでに数メートル先にいた。
わたくしは戦わない。戦いは面倒で非効率、そして何より美しくない。
使うのは、九十九回の人生で蓄えた、人の心の最も脆く滑稽な「隙」を見抜く力だけ。
それはもはや戦闘ではなく、芸術的障害物競走。
やがて目の前に巨大な扉が現れる。
黒曜石の重い扉。表面には星々を模した複雑な紋様。――「星の塔」の入口だ。
「さて」
忌まわしい扉を見上げる。「いよいよ最後の害虫駆除ですわね」
「ええ。最高の舞台があなた様をお待ちかねですぜ、我が女王陛下」
ノアが口元に三日月の笑み。
どこまでも続く螺旋階段を見上げ、心の底からうんざりとため息。
(……わたくし、階段を上るのは好きではございませんの)
緊張感のないひと言に、ノアが心底楽しそうに笑う。
「はは。では俺がお姫様抱っこで?」
「結構ですわ。あなたの胡散臭い腕の中より、自分の足でこの面倒な階段を一段一段上る方がまだマシですもの」
軽口を最後に、顔を見合わせる。
どちらからともなくうなずき、すべての因縁が待つ塔の内へ、静かに足を踏み入れた。




