第54話 決戦前夜
決戦を三日後に控えた夜。
ヴァレンシュタイン公爵邸の最も豪奢な客間――今は革命軍の秘密司令室――は、嵐の前の奇妙な静寂に包まれていた。
巨大な王都地図の上に駒が並び、これから始まる壮大なチェスの最終盤を示している。
つい先ほどまでここでは最後の作戦会議が白熱していた。父アルブレヒトの老獪な駆け引き。カイン様の実直で力強い軍事計画。エミリアさんの民の心を掴む慈愛の提案。ノアの神経を逆撫でする、しかし完璧な情報操作。
すべてが終わり、今は誰もいない。
残されたのは蜜蝋の燃え尽きかけた匂いと、床に落ちた一枚の資料だけ。
わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインは、その静寂の中心で一人、月明かり差す広いバルコニーに出ていた。
ひんやりした夜風がプラチナブロンドを揺らす。眼下の庭園は月光に銀色を帯び、夢の景色のよう。
九十九回、わたくしはこうした夜を迎えてきた。断頭台、火刑台、毒杯――その前夜を。
かつての夜はいつも冷たく色のない牢獄だった。ただ終わりの時を待つだけ。
けれど今宵は少し違う。
空には憎らしいほど美しい月。白薔薇の甘い香りが風に乗ってくる。
そして何より、背後の部屋にはまだ温かな人の気配が残っている。
暑苦しくて、胡散臭くて、そしてひどく面倒な、あの人たちの気配が。
(……本当に、どうしてこうなりましたのかしら)
大理石の手すりに頬を寄せ、今日何度目か分からないため息をつく。
わたくしはただ、静かに誰にも関わらず心置きなく昼寝がしたかった――はず。
いつの間にか、革命などというこの世で最も面倒でエネルギーを消費する厄介事の中心に立たされている。
すべてはわたくしの安眠のため。そう言い聞かせてはいるけれど、本当にそう?
胸の奥で時折、不規則に脈打つこの奇妙な「微熱」は――ただの安眠妨害の副作用?
答えの出ない自己問答に沈んでいた、その時。
「――イザベラ様!」
静寂を無慈悲に裂いたのも、やはりこの男の声。
振り返れば、カイン・アシュフィールド様が鍛え上げられた大きな体を少し窮屈そうにして立っていた。
翠の瞳は緊張と高揚を宿し、真夏の森のように深く、きらきらと光る。
「こんな夜更けにお一人で。お体が冷えます! 明日の大事な決戦のためにも、どうかお休みください!」
駆け寄るや、真紅のマントをわたくしの肩にかけようとする。
「……結構ですわ、カイン様」
その手を優雅に、しかしきっぱりと制す。「あなたの燃える体温だけで、このバルコニーの気温が二度は上がっておりますもの。おかげで少しも寒くございませんけれど」
完璧な塩対応に彼は一瞬ひるむ。だがすぐに子犬のような瞳をさらに輝かせた。
「そ、そうですか! それはよかった! 俺の、あなた様への燃える忠誠心が、お役に立てたなら光栄です!」
(……本当に皮肉が通じないお方)
建設的な会話を諦める。
しかし彼が引き下がるはずもない。
わたくしの隣に立ち、月を仰ぎながら胸に溜めた熱い想いを語り出す。
「明日、すべてが終わる。俺がこの剣で、あなた様の道を切り開く。あの偽りの王の首でも、神の心臓でも、望まれるものは必ずこの手に!」
自信に満ちた声。
「神の心臓、ですって? 結構ですわ。そんな血生臭いもの、わたくしの美しい庭園に持ち込まないで。後片付けが面倒ですもの。それに、内臓系のお料理は好みではなくてよ」
どこまでもマイペースな返答に、カイン様は言葉を詰まらせ、やがて諦めたように、しかしどこか嬉しそうに息を漏らす。
「……はは。そうでした。あなた様は、そういうお方だ。失礼しました」
少し困ったようで、どこまでも優しい笑み。
それを見ると、氷の心臓がまたドクンと大きく跳ねた。
いけませんわ。本当に。
この男といると、わたくしの完璧なポーカーフェイスが崩れそう。
奇妙に温かく、どこか気まずい沈黙。
それを破ったのは第三の、そして最も厄介な闖入者。
「――いやはや、猛犬殿は相変わらずご熱心で。ですが、あまり女王陛下をお困らせなさるな。あなた様の燃える忠誠心は、時にただの暑苦しい迷惑行為になりますからな」
予兆なく背後の闇から声。
音も気配もなく、ノアが柱に寄りかかっていた。口元には人を食った三日月の笑み。
「貴様……!」
カイン様は即座に身をわたくしの前へ移し盾となる。「いつからそこに! イザベラ様を気安く女王などと呼ぶな!」
「おや、これは失礼。しかし俺にとっては、この方こそ、この腐った世界を照らす唯一無二の女王陛下でして。あなたのようにワンワン吠えるだけの忠実な番犬とは、主君への認識が少々違うのですよ」
挑発的な物言い。
こめかみに青筋がぴきりと浮かぶ。
ああ、もう。この二人を同じ空間に置くとろくなことがない。
「まあ、お二人とも、その辺でおやめになって」
子供の喧嘩のようなやり取りにうんざりして仲裁する。
「あなたたちの不毛な口喧嘩を聞いているだけで、わたくしの貴重な精神エネルギーが無駄に消費されますわ」
一言で二人はぴたりと止まり、同時にこちらを向いた。
絶対の忠誠を誓う騎士と、すべてを捧げた共犯者。対照的な二つの瞳が真っ直ぐにわたくしを見つめる。
ふっと息を吐く。諦観のため息。
そして静かに口を開いた。
「明日、すべてが終わりますわね」
最初に応えたのはカイン様。
「ああ。俺が必ず、あんたを守る」
どこまでも力強く頼もしい声。
次いでノア。
「ええ。最高のハッピーエンドをプレゼントしてみせますぜ」
優雅で自信に満ちた声。
守られる。プレゼントされる。
その二つの言葉に、思わずくすりと笑みが漏れた。
九十九回の人生で一度も浮かべなかった、本当に心の底からの、どこか愛おしいものを見るような穏やかな笑み。
聖女でも悪役令嬢でもない。ただのイザベラとしての初めての笑み。
あまりに意外な反応に、二人は一瞬だけ表情を失う。
わたくしは対照的な顔をゆっくり見比べ、アメジストの瞳に、この百回目の人生で得た新しく本当の強さの光を宿して言った。
「お二人とも、勘違いなさらないで」
静かなのに、魂を震わせる絶対の響きを持つ声。
「わたくしは、守られるか弱いお姫様ではございませんのよ」
一歩、前へ。
いつの間にか大切に思うようになってしまった、この面倒で愛おしい二人に宣言する。
「わたくしが、あなたたちの安眠を守って差し上げますの」
傲慢で不遜で、どこまでもわたくしらしい言葉。
だがその奥底にある、不器用で温かな本音――それを二人が理解したかどうかは、まあ、どちらでもよろしい。
カイン様は意味を測りかねて呆然とし、圧倒的な存在感にひれ伏したくなる衝動に駆られている。
ノアは正確に読み取り、「あなたたちが安心して眠れる完璧な世界を、わたくしが作って差し上げますわ」という究極のツンデレだと理解して、必死に笑いをこらえていた。
わたくしはその反応に満足したのか、あるいは本当に眠くなっただけか――ふぁあと大きなあくび。
「さて。わたくしはもう休みますわ。明日は少し早起きして、この馬鹿げた千年の茶番を、綺麗にお掃除しなければなりませんからね」
そう言い残し、背を向ける。振り返らず自室へ戻っていく。
残されたのは、月明かりの下で対照的――だがどこか似た誇らしげな表情で同じ夜空を見上げる一人の騎士と一人の情報屋だけ。
決戦の前夜。
わたくしの心は不思議なほど穏やかだった。
九十九回の孤独な夜は、もう終わった。
明日はきっと良いお天気。最高の昼寝日和に違いない。
その完璧な未来のために。わたくし、ほんの少しだけ頑張って差し上げてもよろしくてよ。
そう思いながら、久しぶりに悪夢を見ることなく、深く穏やかな眠りへ落ちていった。




