第52話 騎士の救援と、新たな決意
その声は、地獄の底からわたくしの魂を強引に引き戻すような力を帯びていた。
暑苦しくて実直で、そして今この世で最も聞きたくないと思っていた声。
「――イザベラ様ッ! ご無事ですか!」
轟音。わたくしたちを閉じ込めていた地下通路の壁が、内側から紙細工のように砕ける。
舞い上がる砂塵の向こうから松明のぎらつく光。その逆光に、神話の英雄めいて立つ、燃える赤髪の騎士。
カイン・アシュフィールド。
鍛え上げられた体は泥と汗にまみれ、翠の瞳はわたくしの姿を探して崩壊した墓場をさまよう。
(……ああ、もう。なぜあなたまで、ここにいらっしゃるの)
薄れる意識の底で、心の底からうんざりする。
せっかく静かに永遠の眠りにつけると思ったのに。
この男はいつもそう。わたくしの完璧な平穏計画を、その無駄に高い体温と無駄に大きな声で簡単に壊していく。
安眠妨害リスト殿堂入り。決定ですわ。
「イザベラ様! そこにおられるのですね! 今、お助けします!」
返事など待たず、手にした大剣で隔てる最後の瓦礫を薙ぎ払う。一振りごとに風圧が走り、埃まみれの髪が乱暴に揺れた。
やがて視界を塞いでいたものがすべて取り払われる。
彼はわたくしの無残な姿をその瞳に捉え、驚愕、安堵、そして燃え立つ怒りへと一瞬で色を変えた。
「……イザベラ様……!」
巨大な剣を放り出し、駆け寄ってくる。泥だらけの腕が、壊れ物でも抱くようにそっと、しかし力強くわたくしを抱き上げた。
胸当てのひやりとした金属。体から伝わる異常な熱。まるで炎に抱かれているみたい。
「……暑苦しいですわよ」
かろうじて絞った文句。
彼は聞かない。いえ、聞こえないふりをしているのかもしれない。
ただ強く、強く抱きしめる。
「よかった……本当によかった……間に合った……!」
震える声。
九十九回、一度も聞いたことのない――誰かが、わたくしの生存そのものを心から喜ぶ声。
その真っ直ぐで温かい感情に、凍てついていたはずの心臓がまたドクンと不規則に跳ねる。
いけませんわ。このままではこの男の熱に当てられて、本当にわたくしの何かが溶けてしまう。
腕の中でもがくように身じろぎした。
「……離しなさいな。埃がつきますわ」
「申し訳ございません! ですが、もう少しだけ、このままで――!」
不毛なやり取り。
それを断ち切ったのは、すぐそばで上がったか細い呻き声だった。
「……う……」
ユリウス殿下。わたくしが突き飛ばしたおかげで致命傷は免れたらしいが、精神は完全に崩れている。ただ虚ろな目でこちらを見る。
その哀れな姿を、カイン様の翠の瞳が捉える。
次の瞬間、温度が氷点下まで落ちた。
わたくしを抱く腕から力が抜け、手は傍らの大剣の柄へ。瞳に宿ったのは純粋で一切容赦のない殺意。
「……貴様か」
低く地を這う声が響く。「イザベラ様をこのような目に遭わせたのは」
わたくしをそっと地面に降ろし、ゆっくり立ち上がる。巨大な影が怯える殿下の上に、死の宣告のように落ちた。
「万死に値する」
剣が振り上がる――その瞬間。
「――おやめなさいな」
わたくしの静かな、しかし有無を言わせぬ声が、殺意に満ちた空気を切り裂く。
カイン様は驚いたように動きを止め、振り返った。
「しかし、イザベラ様! こいつは――!」
「ええ、分かっておりますわ」
ゆっくりと立ち上がる。ドレスの裾から石の粉がぱらぱらと落ちた。
「この方は確かに万死に値する愚か者。ですが、今はまだ、その時ではございませんの」
気を失ったままのユリウス殿下に一瞥。そこにあるのは感情ではなく、ただ一つの面倒な置き土産という事実認識だけ。
「それよりも、先に片付けるべき面倒事が山積しておりますのよ」
カイン様、そして背後で心配そうにこちらを見守る騎士たちへ視線を向ける。
「あなたたち、どうやってここまで?」
「はっ!」
カイン様は即座に殺気を収め、臣下の顔に戻った。
「イザベラ様が地下へ向かわれたとノア殿から連絡を受けました。しかし入口は王家の兵が固めておりました。ならば、と、この三日間、不眠不休で仲間と岩盤を掘り進めました!」
誇らしげに胸を張る。
あまりに猪突猛進で非効率、しかしどこまでも彼らしい行動。
こめかみがずきりと痛む。
「……そうですか。それはご苦労様なことでしたわね」
心の底からの疲労を込めて告げる。
こうして、わたくしは百回目の人生で最もドラマチックで、そして最も暑苦しい救出劇の主役になってしまった。
地上へ続く、騎士たちが三日三晩かけて掘り進めた荒削りだが確かな希望のトンネル。
出口の光が見えたとき、見慣れた人影が数人、待ち構えていた。
「――いやはや、死ぬかと思いましたぜ、お姫様。あんたが死んだら、俺の最高の退屈しのぎがなくなるところでした」
軽口を叩きながら、銀の瞳に隠しようもない安堵を滲ませるノア。
「イザベラ様ッ! ごめんなさい、ごめんなさい、わたくしのせいで……!」
カイン様の腕の中でようやく目を覚ましたらしいエミリアさんが、涙でぐしゃぐしゃのヘーゼルナッツ色の瞳で駆け寄ってくる。
そして――
「リリィ! わたくしのリリィ! なんという無残な姿に……! 今すぐ世界で一番腕の立つ医者と最高のドレス職人を呼びなさい!」
泥だらけのわたくしを見て卒倒しかける母レオノーラ。
その母を支えながら、瞳の奥ではこの異常事態の政治的損得勘定を高速で計算している父アルブレヒト。
暑苦しい忠犬。
胡散臭い共犯者。
泣き虫な太陽。
過保護な両親。
わたくしの百回目の人生をこれでもかというほど面倒で騒がしく、そして厄介にしてくれる役者たちが、今この場所に揃っている。
彼らは口々にわたくしの身を案じ、あるいは今後の対策を語り合う。
その温かくて騒々しく、ひどく息苦しい人間関係の渦の中心で、わたくしはただ一人、静かに空を見上げた。
空はどこまでも青く澄み渡る。
ああ、こんな良いお天気の日には、木陰でうたた寝でもすれば、さぞ気持ちがよろしいでしょうに。
(……ですが)
目の前の、愛すべき――そしてひどく面倒な――光景を見渡す。
(……これでは到底、安眠などできそうにありませんわね)
この国のシステム。
この狂った儀式。
千年続いた偽りの安寧。
それらが存在する限り、面倒事はわたくしの周りにつきまとう。
そしてそれは、いつの間にか少しだけ大切に思うようになってしまった、この厄介な人たちを傷つけるかもしれない。
そうなればどうなる?
後味が悪い。寝覚めが悪い。
わたくしの安眠を根本から脅かす最大の脅威。
ならば、答えは一つ。
わたくしは騒がしい会話を制するように一歩前へ出る。
アメジストの瞳に、九十九回の絶望と百回目のささやかな希望、そして何より揺るぎない決意の光を宿し、宣言した。
「皆様、お静かになさいな」
静かだが絶対の一言に、その場の全員がぴたりと動きを止める。
視線が一斉に集まる。
すべてを受け止めながら続けた。声は春の夜風のように穏やかで、その内容は冬の吹雪のように冷徹。
「皆様、よくお聞きになって。わたくし、決めましたの」
「この馬鹿げたお話は、もう終わりにいたしますわ」
「わたくしは、この国のシステムそのものを破壊いたします」
「これは、革命ですわ」
そこで一度、言葉を切る。
そして、百回目の人生で最も美しく、最も不遜な笑みを浮かべた。
「――わたくしの、わたくしによる、わたくしのための、『安眠確保闘争』の始まりです」




