第50話 百回目の対話
「――御意のままに、我が女王陛下」
ノアの声は、崩壊する轟音の中に、不思議なほど、はっきりと響いた。その声には、もはや、一片の軽薄さもなかった。ただ、自らが仕える主君の、その、狂気じみた、しかし、どこまでも美しい、決意に対する、絶対的な信頼だけが、こもっていた。
彼は、その言葉を最後に、気を失ったエミリアを、その腕に、まるで、羽毛のように、軽々と抱え上げると、身を翻した。そして、わたくしが、以前、彼に示しておいた、この、地下迷宮の、もう一つの、秘密の脱出経路へと、影の中を、滑るように、消えていった。
彼の、その、完璧な仕事ぶり。わたくしは、内心で、彼の、来月のお給金を、金貨一枚分、上乗せして差し上げることを、決定した。もちろん、その手続きは、全て、父に丸投げするだけですけれど。
さて、と。
これで、舞台の上には、本当に、二人きりになった。
わたくしと、そして、九十九回、わたくしを、絶望の淵へと、突き落とし続けてきた、この、物語の、元凶。
ユリウス・テオ・ド・ラ・ファイエット。
彼は、まだ、瓦礫の山の中で、呆然と、うずくまっていた。
その、美しいはずの顔は、泥と、血と、そして、何よりも、理解を超えた現実に対する、純粋な恐怖に、醜く歪んでいる。
かつての、自信に満ち溢れた、傲慢な王子の姿は、そこには、どこにもなかった。
わたくしは、静かに、彼へと、歩み寄った。
崩れ落ちた、巨大な柱の、破片。足元に転がる、砕け散った、星々の、名残。
それらを、まるで、舞踏会の、ダンスフロアでも歩くかのように、優雅な、しかし、揺るぎない足取りで、一歩、また、一歩と、彼との距離を、詰めていく。
こつ、こつ、と。
わたくしの、靴音が、静かになった、崩壊の間の中で、やけに、はっきりと響く。
その音に、彼は、ようやく、顔を上げた。
そして、その、空色の瞳が、わたくしの姿を、捉えた瞬間、その瞳に、今まで、見たことのないほどの、強烈な、恐怖の色が、浮かんだ。まるで、死神そのものと、対峙したかのように。
「……ひっ」
彼の、喉から、引きつったような、悲鳴が漏れた。「く、来るな……! 化け物め……!」
化け物。
まあ、そうかもしれませんわね。
九十九回も、同じ、退屈な人生を、繰り返していれば、普通の人間は、とっくに、狂ってしまうでしょうから。
わたくしが、まだ、こうして、正気を保っていられるのは、単に、わたくしが、元々、他の人間よりも、遥かに、怠惰で、そして、面倒くさがりだった、という、ただ、それだけのこと。
わたくしは、彼の、数歩手前で、ぴたり、と足を止めた。
そして、九十九回分の、全ての疑問と、全ての諦観と、そして、ほんの少しの、純粋な好奇心を、凝縮したかのような、ただ、一つの問いを、彼に、投げかけた。
その声は、驚くほど、穏やかだった。
「――九十九回……いえ、それ以上ですのね」
わたくしは、静かに、切り出した。
「あなたはこの茶番を、一体、いつまで、続けるおつもりでしたの?」
「……な……にを……」
ユリウスは、わたくしの、その、言葉の意味が、理解できない、というように、ただ、呆然と、わたくしの顔を、見つめ返している。
「ですから、聞いておりますの」
わたくしは、まるで、物分かりの悪い、生徒に、問題を、もう一度、読み聞かせるかのように、懇切丁寧に、繰り返した。
「この、退屈で、陳腐で、そして、救いようのない、三文芝居を。あなたと、あなたの、その、気高き王家は、あと、何百年、繰り返す、ご予定でしたのかしら、と」
その、あまりに、人間離れした、問いかけ。
ユリウスの、恐怖に染まった瞳が、今度は、純粋な、困惑の色に、変わっていく。
この女は、一体、何を言っているのだ? 狂ったのか? この、世界の終わりのような状況で。
「……茶番、だと……?」
彼は、ようやく、絞り出すように、そう、呟いた。そして、まるで、最後の、拠り所を、求めるかのように、虚勢を張った。
「これは、茶番などではない! この国を、千年の長きにわたり、守り続けてきた、神聖な、儀式だ! 我ら、王家の、気高き、責務なのだッ!」
責務。
その、あまりに、空虚な言葉に、わたくしは、思わず、ふっと、息を漏らした。
それは、もはや、笑いですら、なかった。ただの、空気の、塊。
「責務、ですって? 面白いことを、おっしゃいますのね」
わたくしの声は、どこまでも、冷たかった。
「民の幸福は、誰か一人の、理不尽な犠牲の上に、成り立つものでは、ございませんわ。それは、ただの、偽りの繁栄。あなたたちが、自分たちの、その、永遠の命という、醜い欲望のために作り上げた、脆弱な、砂上の楼閣に、過ぎませんのよ」
わたくしの言葉は、一つ、一つが、真理の、冷たい、重みを持ち、彼の、その、薄っぺらい、建前の鎧を、容赦なく、一枚、また、一枚と、剥がしていく。
「だ、黙れッ! 貴様のような、ただの、贄に、何が分かるというのだ! 何も、何も、知らぬくせにッ!」
彼が、最後の、抵抗を試みるように、叫ぶ。
その、哀れな、叫び声。
それが、わたくしの、心の奥底にあった、最後の、扉の、鍵を、開けた。
わたくしは、ゆっくりと、彼に、視線を合わせた。
そして、この、百回目の人生で、初めて、わたくしが、何者であるのかを、彼に、告げた。
それは、わたくしが、九十九回の絶望の果てに、ようやく、たどり着いた、究極の、そして、最も、残酷な、真実。
「いいえ」
わたくしの声は、静かだった。
けれど、その声は、どんな轟音よりも、重く、この、崩壊する、星見の間に、響き渡った。
「知りすぎておりますのよ」
わたくしは、一歩、彼に、近づいた。
「わたくしは、あなたよりも、ずっと、ずっと、永く」
「この、絶望を、生きてきましたから」
その、一言。
その、人間を、超越した、言葉の、重み。
ユリウスの、空色の瞳が、見開かれた。
今まで、彼を支配していた、恐怖も、困惑も、憎悪も、全てが、吹き飛んで、その瞳に、ただ一つ、純粋な、「理解不能」という、四文字だけが、浮かび上がった。
彼は、ようやく、悟ったのだ。
目の前にいる、この、美しい、白金の髪を持つ少女が。
自分と、同じ、ただの、人間では、ないということを。
もっと、古く、もっと、深く、そして、もっと、計り知れない、何かである、という、その、恐るべき、真実を。
彼の、その、完璧に整っていた、王子の顔が、ついに、完全に、崩れ落ちた。
精神が、その、存在の、根底から、屈服した、音だった。
「……あ……あ……」
彼は、もはや、言葉を、紡ぐことさえ、できない。ただ、赤子のように、口を、はくはくと、動かすだけ。
その、哀れな、姿。
それを見ても、わたくしの心は、もはや、何も、感じなかった。
達成感も、憐れみも、ない。
ただ、一つの、面倒な作業が、終わった、という、静かな、安堵感だけが、そこにあった。
「さて、と」
わたくしは、彼に、背を向けた。「お話は、もう、よろしいでしょう。わたくし、少し、疲れましたから。そろそろ、眠らせていただきますわ」
わたくしが、そう言って、その場を、立ち去ろうとした、その、瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ―――ッ!
今まで、かろうじて、均衡を保っていた、天井の、最も、巨大な岩盤が、ついに、その、最後の、支えを失い、わたくしたちの、頭上から、ゆっくりと、しかし、確実に、その、絶望的な、巨体を、落とし始めたのだ。
ああ、これで、本当に、終わりか。
そう、思った。
それは、絶望ではなかった。むしろ、一つの、解放に、近かった。
もう、何も、考えなくていい。
もう、誰も、傷つけなくていい。
ただ、静かに、永遠の、眠りへと、沈んでいける。
わたくしは、目を閉じた。
その、最後の、瞬間を、受け入れるために。
しかし。
わたくしの、体は、わたくしの、思考とは、全く、別の、動きをした。
気づいた時には、わたくしは、走っていた。
そして、未だ、床に、へたり込んだまま、動けないでいる、ユリウスの、その、痩せた背中を、全力で、突き飛ばしていた。
ドンッ、という、鈍い衝撃。
彼の体が、驚きに目を見開いたまま、前方へと、吹き飛んでいく。
そして、わたくしの、視界は。
急速に、迫りくる、巨大な、岩の、塊と、そして、完全な、闇に、覆われた。
(……あら、まあ)
わたくしの、薄れゆく意識の中で、最後に、浮かんだのは、そんな、どこか、他人事のような、感想だった。
(どうして、わたくし、こんな、面倒なことを、してしまったのかしら……)
その、答えの出ない、問いを、最後に。
わたくしの、百回目の物語は、今度こそ、本当に、終わった。
……かに、思われた。




