第48話 さようなら、平穏な昼寝
ドォォォォォォンッ!!!
星見の間の、空気が、爆ぜた。
エミリア・ブラウンという、たった一人の少女の、その、あまりに純粋で、そして、引き裂かれた心から溢れ出した光の奔流は、もはや、癒やしでも、祝福でもなかった。
それは、全ての、悪意も、善意も、喜びも、悲しみも、区別なく、浄化し、無に帰す、絶対的な、破壊の光。
天井に輝いていた、千年前の偽りの星々が、その圧倒的な光の圧力に耐えきれず、まるで、ガラス細工のように、ぱらぱらと砕け散っていく。光の雨が、涙のように、この、崩壊する世界へと降り注ぐ。
床が、壁が、みしみしと、断末魔の悲鳴を上げる。何千年もの間、この国の、最も深い秘密を、静かに、見守り続けてきた、この神聖な空間が、今、たった一人の少女の、その、あまりの純粋さによって、奈落の底へと、崩れ落ちようとしていた。
「素晴らしい! これだ! これこそが、真の聖女の力だ!」
この、終末のような光景の中心で、ユリウス王子は、恐怖するどころか、恍惚とした表情で、両手を、天に広げていた。彼の、その、歪んだ美学にとって、この、純粋な破壊は、至上の芸術に見えたのだろう。自らが、望んだ通りの、完璧なカオス。その中心に、自分と、そして、この、世界を滅ぼす力を持つ少女がいる。その事実に、彼は、支配者としての、究極の悦びを感じていた。
「愚かな……! 王家の血を引く者が、自ら、この国の礎を、破壊するか!」
星詠みの老人が、絶望の声を上げた。彼は、その、枯れ木のような体から、最後の力を振り絞り、黒曜石の祭壇を守るため、長年蓄えてきた、闇の結界を展開する。星々の静寂を凝縮したかのような、深い、深い、闇。
しかし、エミリアから溢れ出す、純粋な光の奔流は、その、千年の歴史を持つ闇さえも、まるで、朝日に溶ける、夜霧のように、じりじりと、侵食していく。光と闇が、最も、愚かで、そして、最も、美しい形で、この空間で、激突していた。
「……ちっ。面倒なことになりやがった」
わたくしの背後で、ノアが、小さく、舌打ちをしたのが聞こえた。
わたくしは、彼の顔を見ていない。だが、分かる。彼の、その、銀の瞳は、今、この、絶望的な状況下でさえ、冷静に、脱出経路と、この混乱を最大限に利用するための、次の一手を、高速で、計算しているに違いない。彼の、その、悪趣味なまでの、生存本能。
ユリウスの、狂喜。
星詠みの、絶望。
ノアの、計算。
そして、エミリアの、悲痛な、泣き声。
「イザベラ様ッ! どうして……!? どうして、何も、言ってくださらなかったのですかッ!?」
その、魂からの叫びが、崩壊する、星見の間に、木霊する。
その問いに、わたくしは、もう、答えることは、できなかった。
答えるべき、言葉を、持ち合わせていなかった。
わたくしは、ただ、一人。
この、阿鼻叫喚の、地獄絵図の中心で、静かに、そこに、立っていた。
「……はぁ」
わたくしの口から、本日、最大にして、わたくしの、百回目の人生において、最も、深くて、そして、心の底からの、うんざりとした、ため息が、漏れ落ちた。
「(ああ、もう、本当に、本当に、本当に、面倒なことになりましたわね!)」
なぜ、こうなるのだろう。
わたくしはただ、静かに、誰にも、関わらず、空気のように、水のように、過ごし、そして、心置きなく、昼寝がしたかった。ただ、それだけだったのに。
なぜ、この世界の人間は、こうも、大げさで、感情的で、そして、致命的なまでに、非効率的なのだろうか。
泣き叫べば、誰かが助けてくれるとでも?
怒鳴り散らせば、自分の正義が、通るとでも?
愚かしい。
実に、愚かしい。
このまま、放っておけば、どうなるか。
この、光の暴走は、いずれ、この空間そのものを、完全に、崩壊させるだろう。
そうなれば、ここにいる、全員が、おしゃべりなユリウス殿下も、頑固な番人殿も、胡散臭い共犯者も、そして、この、うるさく泣きじゃくる、太陽の少女も、皆、仲良く、この、石の墓標の下に、埋もれることになる。
それは、それで、一つの、結末かもしれない。
静かで、永遠の、眠り。
わたくしが、九十九回、望んで、そして、決して、手に入れられなかった、完璧な、終わり。
(……それも、悪くは、ありませんわね)
わたくしは、一瞬、本気で、そう、思った。
全てが、終わる。
この、面倒な、ループも、厄介な人間関係も、全て。
その時だった。
わたくしの視界の隅で、巨大な、天井の岩盤が、ぎしり、と、嫌な音を立てて、剥がれ落ちるのが、見えた。
その、落下予測地点の、真下。
そこには、光の奔流の中心で、もはや、立つこともできず、その場に、うずくまって、ただ、泣きじゃくっている、エミリアの、小さな、小さな、背中があった。
(……ああ)
わたくしの、頭の中で、何かが、高速で、回転を始めた。
それは、感情ではない。
ただの、冷徹な、損益計算。
ここで、彼女が、死んだら?
あの、か細い体が、無慈悲な、岩の塊に、押し潰されたら?
――間違いなく、夢に見る。
毎晩、毎晩、繰り返し、あの、最後の、泣き顔を、見ることになるだろう。
そして、そのたびに、わたくしの耳の奥で、あの、少し焦げたクッキーが、サクリ、と、砕ける音がするのだ。
舌の奥に、あの、不器用で、優しい甘さが、蘇るのだ。
そうなれば、どうなる?
寝覚めが、悪い。
それも、ただ、悪いのではない。最悪だ。
後味の悪い眠りは、質の良い安眠を、根本から、破壊する。
それは、わたくしの、人生哲学において、最も、許しがたい、損失。
結論。
彼女を、ここで、死なせるのは、わたくしの、今後の、安眠計画にとって、致命的な、リスクとなる。
「……全く」
わたくしは、もう一度、ため息をついた。
それは、諦観と、そして、どこか、吹っ切れたような、響きをしていた。
「仕方、ありませんわね」
その、呟きと、同時。
わたくしは、動いていた。
「ノア!」
わたくしの声は、崩壊する轟音の中でも、驚くほど、クリアに、そして、鋭く、響き渡った。
それは、もはや、退屈な令嬢の声ではない。絶対的な、指揮官の、声だった。
「な、何ですかい、お姫様! こんな時に、漫才でも、始めようってんですか!?」
彼は、巨大な柱の影で、迫り来る瓦礫を、ひらり、ひらりと、避けながら、軽口を叩き返す余裕を、まだ、失ってはいなかった。
「あなたには、わたくしの、安眠を守る、義務がございますわよね?」
「はあ!? そりゃあ、まあ、契約では、そうなっておりますが……!」
「ならば、今すぐ、あの、うるさく泣いている、太陽の少女を、確保なさい!」
わたくしは、エミリアを、指差した。「彼女の、その、光の力が、この場所を、完全に、破壊し尽くす前に。そして、彼女の、その、泣き声が、わたくしの、これからの、夢の、安眠を、妨げる前に! 気絶させてでも、黙らせて、ここから、連れ出すのです!」
その、あまりに、自分本位で、そして、どこまでも、わたくしらしい、命令。
ノアは、一瞬だけ、その銀の瞳を、きょとん、と、丸くした。
そして、次の瞬間。
彼は、心の底から、楽しそうに、そして、嬉しそうに、その口元を、三日月のように、歪めた。
「……くくっ。ははは! なるほど、なるほど! そういう、理屈ですかい!」
彼は、全てを、理解したのだ。
この、女王陛下が、初めて、誰かを、守ろうとしている。その、動機が、純粋な善意や、ヒロイズムなどという、陳腐なものではなく、どこまでも、気高く、そして、滑稽なほどの、利己主義から、来ているという、その、美しい事実を。
「――御意のままに、我が女王陛下!」
彼の声には、もはや、一片の、迷いもなかった。
「最高の舞台の、幕引きですな! せいぜい、後腐れのないように、綺麗に、掃除してご覧にいれますぜ!」
彼は、そう言うと、影の中を、滑るように、エミリアへと、駆け寄っていった。
「さて、と」
わたくしは、一人、残された。
いや、違う。
わたくしの、行く手を阻むように、二人の、面倒な男たちが、まだ、この、崩れゆく舞台の上に、残っている。
一人は、狂喜の笑みを浮かべたままの、ユリウス王子。
そして、もう一人は、わたくしと、ユリウスの間に、最後の壁として、立ちはだかる、星詠みの老人。
天井から、ついに、最大の岩盤が、ぎしり、ぎしりと、悲鳴を上げながら、剥がれ落ちてくるのが、見えた。
それは、もはや、逃げることのできない、絶対的な、死の、予兆。
「イザベラ! これで、お前も、わたくしのものだ! この、世界の、終わりと、共に、永遠に、わたくしの、腕の中へ……!」
ユリウスが、恍惚とした声で、叫ぶ。
わたくしは、その、愚かで、哀れな男の姿を、そして、ゆっくりと、自分たちへと、迫りくる、死の影を。
なぜか、ひどく、冷静に、そして、どこか、達観した、瞳で、見つめていた。
九十九回、繰り返してきた、エンディング。
ああ、また、これか、と。
そう、思った。
ただ、一つだけ、違うことがあるとすれば。
今回の、この、終わりは。
ほんの、少しだけ、誰かの、温もりを、知ってしまった後の、終わりだということ。
(……まあ、よろしいでしょう)
わたくしは、心の中で、静かに、呟いた。
「(これで、ようやく、静かに、眠れるのかしら……)」
その、皮肉な呟きと共に。
世界は、轟音と、そして、完全な、闇に、包まれた。




