第47話 引き裂かれた心、穢れなき光の暴走
その人影が、ユリウス王子の背後から、よろめきながら姿を現した瞬間、星見の間の、張り詰めていた空気が、ぱきり、と音を立てて砕け散った。
栗色の髪。大きな、ヘーゼルナッツ色の瞳は、目の前の、信じがたい光景に、絶望的に、揺れている。
エミリア・ブラウン。
この、神々のチェス盤には、あまりにも不釣り合いな、ただの、心優しい、太陽の少女。
「……」
わたくしは、何も言わなかった。
ただ、静かに、その、怯える子リスのような少女の姿を、見つめていた。
胸の奥で、ドクン、と、一つ、大きく、そして、不快な音がした。あの、カイン様といる時とも、ノアといる時とも違う、もっと、鈍く、そして、嫌な痛みのような、鼓動。
「さあ、出てくるがいい、エミリア」
ユリウス王子の声は、どこまでも、甘く、そして、残酷だった。まるで、聖者が、迷える子羊に語りかけるかのような、慈愛に満ちた声音で。
「そして、この、哀れな魔女に、真実の光を、見せてやるのだ」
彼は、エミリアの、その、か細い肩を、優しく、しかし、決して、逃がさぬように、強く、抱きしめた。
その、絶対的な支配者の所有欲を示すような仕草に、わたくしの背後で、ノアが、小さく、舌打ちをするのが分かった。
「エミリア」
ユリウスは、続ける。その言葉は、エミリアの、その、純粋な心にだけ、届くように調整された、甘い、甘い、毒薬だった。
「見ての通りだ。イザベラは、この国の禁忌に触れ、古の魔女と共に、闇の力で、世界を混乱させようとしている。わたくしは、王子として、それを、止めねばならない。だが、わたくしの力だけでは、彼女の、その、凝り固まった心を、解きほぐすことは、できんかもしれん」
彼の空色の瞳が、悲しげに、そして、懇願するように、エミリアを見つめる。
「だから、頼む。君の、その、誰よりも清らかで、温かい、聖なる光の力で、彼女の目を、覚まさせてやってはくれぬか。彼女を、この、哀れな闇から、救い出してやれるのは、もう、世界中で、君一人しかいないのだ」
救う。
その、何よりも、甘美な響きを持つ、言葉。
平民である自分を、特待生として、この学園に招き入れてくれた、尊敬する王子様。
その、王子様が、自分を、必要としてくれている。
この、国の危機を、そして、道を誤ってしまった、友人を、救うための、力になってほしい、と。
エミリアの、その、純粋な心にとって、それは、抗いがたい、魅力的な響きを持っていた。
彼女の、潤んだ、ヘーゼルナッツ色の瞳が、ゆっくりと、わたくしの方へと、向けられる。
その瞳には、恐怖と、混乱と、そして、かすかな、非難の色が、浮かんでいた。
(……イザベラ様)
エミリアの心の中は、嵐のようだった。
目の前にいる、この、氷のように美しい人は、本当に、王子様がおっしゃるような、恐ろしい魔女なのだろうか。
信じられなかった。信じたくなかった。
だって、この人は。
規則を破った、自分を、庇ってくれた。
風紀委員に、絡まれていた、自分を、助けてくれた。
無愛想で、少し、意地悪なことばかり、おっしゃるけれど。
でも、わたくしが、一生懸命、焼いた、少し焦げたクッキーを、「まあ、及第点ね」なんて言いながら、ちゃんと、食べてくれた。
あの時の、少しだけ、困ったような、そして、ほんの僅かに、優しかった、あの、横顔。
あれが、嘘だったなんて、思いたくない。
(お願い、イザベラ様。何か、言ってください)
エミリアは、心の中で、必死に、叫んでいた。
違う、と。誤解だ、と。一言、言ってくれさえすれば。
わたくしは、何があっても、あなたのことを、信じるのに。
彼女の、その、助けを求めるような、必死の視線が、わたくしに、突き刺さる。
痛い、と思った。
その、純粋すぎる眼差しは、わたくしの、この、九十九回分の絶望で、鎧のように固くなった、心の、一番、柔らかい部分を、的確に、抉ってくる。
けれど、わたくしは、何も言わなかった。
弁解もしない。
助けも求めない。
ただ、静かに、そこに立ち、彼女の、その、揺れる瞳を、真っ直ぐに、見つめ返すだけ。
まるで、「さあ、あなたも、選びなさいな。この、陳腐な茶番劇で、どの役を、演じるのかを」と、試すかのように。
あるいは、もしかしたら。
わたくしは、心のどこかで、期待していたのかもしれない。
この、太陽のような少女なら。ユリウス王子の、その、甘い言葉にも、惑わされず、自分自身の目で、真実を、見抜いてくれるのではないか、と。
それは、九十九回の人生で、一度も、誰かに対して、抱いたことのない、淡く、そして、愚かな、「信頼」という名の、感情だったのかもしれない。
しかし、その、わたくしの沈黙は。
エミリアにとっては、最も、残酷な、答えとなって、突きつけられた。
(……どうして)
彼女の心の中で、何かが、ぷつり、と、切れた。
どうして、何も、言ってくださらないのですか。
どうして、わたくしを、見て、くれないのですか。
やっぱり、そうだったんだ。王子様の、おっしゃる通りだったんだ。
イザベラ様は、本当に、悪い魔女で。
わたくしが、信じていた、あの、優しさは、全部、まやかしで。
わたくしは、ただ、利用されていただけなんだ。
裏切られた、という、絶望。
信じていたものに、手を、払いのけられたかのような、孤独感。
「……ひどい、です」
エミリアの唇から、か細い、そして、震える声が、漏れた。
「イザベラ様なんて、もう、知りません……!」
その、悲痛な、叫び声。
それが、引き金だった。
彼女の、コントロールできない、感情の奔流――尊敬、友情、絶望、悲しみ、怒り――その、全てが、彼女の体の中で、一つの、巨大な、魔力の渦となって、暴走を始めたのだ。
「――っ!?」
彼女の、その、小さな体から、今までとは、比べ物にならないほどの、凄まじい、純粋な光の魔力が、奔流となって、溢れ出した。
それは、もはや、癒しの光ではない。
全ての、悪意も、善意も、喜びも、悲しみも、区別なく、浄化し、無に帰す、絶対的な、破壊の光。
ドォォォォォォンッ!!!
星見の間の、空気が、爆ぜた。
圧倒的な、光の圧力。
部屋全体が、みしみし、と、悲鳴を上げる。天井の、偽りの星々が、まるで、寿命を迎えたかのように、激しく明滅し、一つ、また一つと、砕け散って、光の雨となって、降り注ぎ始めた。
壁に、床に、蜘蛛の巣のような、亀裂が、走り始める。
千年の時を、静かに、刻んできた、この、聖なる空間が、たった一人の少女の、引き裂かれた心の、その、あまりの純粋さによって、今、まさに、崩壊しようとしていた。
「素晴らしい! これだ、これこそが、真の聖女の力だ!」
ユリウスは、その、終末のような光景を前に、恐怖するどころか、恍惚とした表情で、両手を、広げていた。自らが、望んだ通りの、完璧な破壊。
「……ちっ。面倒なことになりやがった」
ノアは、舌打ちを一つすると、冷静に、この、最悪の状況下での、最善手を、計算し始めていた。
「……なんということじゃ。光と闇が、最も、愚かな形で、交わろうとしておる……。これは、千年の理をも、超える、混沌の始まりか」
星詠みの老人は、その、あまりの光景に、ただ、呆然と、立ち尽くす。
そして、わたくしは。
この、阿鼻叫喚の、地獄絵図の中心で。
ただ、一人。
溢れ出す、純白の光の中で、泣きじゃくる、エミリアの姿を、見つめていた。
わたくしの、沈黙が、彼女を、ここまで、追い詰めた。
わたくしの、愚かな、期待が、彼女の心を、引き裂いた。
わたくしの、百回目の人生で、初めて、芽生え始めた、あの、温かい感情。
それが、結果として、最も、残酷な形で、彼女を、傷つけてしまった。
(……ああ、そうか)
わたくしは、ようやく、理解した。
わたくしは、やはり、誰かと、関わってはいけなかったのだ。
わたくしの存在そのものが、この世界の、理を、狂わせる、バグなのだ。
わたくしが、何かを、望めば、望むほど。
誰かを、想えば、想うほど。
大切なものは、この手から、こぼれ落ちていく。
九十九回、繰り返してきた、あの、絶望の法則。
それは、百回目も、やはり、変わらないらしい。
「イザベラ様ッ! どうして……!? どうして、何も、言ってくださらなかったのですかッ!?」
エミリアの、悲痛な、魂からの叫びが、崩壊する、星見の間に、木霊する。
その問いに、わたくしは、もう、答えることは、できなかった。
「……本当に」
わたくしの唇から、乾いた、そして、どこまでも、虚しい声が、漏れた。
「面倒な、ことばかり、起こしてくださいますわね。あなたは」
その呟きは、誰の耳にも、届かなかった。
ただ、全てを、飲み込もうと、荒れ狂う、穢れなき光の奔流の中に、虚しく、消えていった。




