第45話 星詠みの番人と、百万の民の幸福
開かれた扉の向こう側は、ただ、どこまでも深い、星屑を散りばめたような、美しい闇だった。
ひやりとした空気が、わたくしたちの頬を撫でる。それは、今まで歩いてきた、湿った地下通路の空気とは、全く質の違う、どこか神聖で、そして、ひどく乾いた、古代の匂いがした。
「……これは」
隣に立つノアが、思わず、息を呑むのが分かった。
わたくしは、何も言わなかった。ただ、目の前に広がる、未知の空間へと、躊躇なく、最初の一歩を踏み出した。
わたくしの足が、その空間の床に触れた瞬間、足元から、青白い光の波紋が、さざ波のように広がっていった。そして、その光に呼応するかのように、わたくしたちの頭上の、遥か高くにある天井に、一つ、また一つと、星々が、その輝きを灯し始める。
やがて、わたくしたちが、その部屋の中央まで歩を進めた時、そこは、完全な、夜空のドームと化していた。
北の空には、揺ぎ無い北極星が輝き、南の地平線近くには、見慣れた蠍の星座が、赤い心臓を点滅させている。天の川が、おびただしい数の光の粒子となって、天井を横断している。まるで、わたくしたちは、宇宙の真ん中に、ぽつんと、取り残されたかのようだ。
部屋の壁一面には、天井の星々と同じように、おびただしい数の、微細な古代文字が、まるで、銀河の渦のように、びっしりと刻み込まれていた。そして、その、広大な部屋の、まさに、中心。全ての星々の光が、まるで、そこに吸い込まれていくかのように、鎮座している、一つの、黒曜石の祭壇。
その、美しくも禍々しい祭壇の前で、わたくしは、この国の、そして、自らのループの、あまりにも、馬鹿げた真実を知った。
わたくしたち、ヴァレンシュタイン家の女は、代々、この国を、豊かにするための、最高級の『供物』として、生まれ、育てられ、そして、捧げられてきたのだ、と。
わたくしの、九十九回の死は、全て、この、美しき王国の、繁栄のための、礎の一つに過ぎなかった。
「……ふふっ。ああ、なるほど。そういう、仕組みでしたのね」
わたくしの口から漏れたのは、絶望の悲鳴でも、怒りの咆哮でもなく、ただ、乾いた、自嘲的な笑いだった。
その、あまりに静かで、そして、人間離れした、わたくしの反応に、隣に立つノアは、言葉を失っていた。
「実に、合理的ですわ。一人の犠牲で、百万の民が、幸福に暮らせる。これほど、効率的な、統治システムは、ございませんわね。考えた方は、さぞかし、優秀な、そして、心の無い、天才だったのでしょう」
わたくしは、まるで、感心しているかのように、そう、呟いた。
「……お姫様。あんた、正気か?」
ノアが、ようやく、絞り出した声は、かすかに、震えていた。
「ええ、いつになく、明晰ですわよ」
わたくしは、部屋の中央にある、あの、黒曜石の祭壇へと、ゆっくりと、歩み寄った。そして、その、ひんやりとした、滑らかな表面に、そっと、指先で、触れた。
「今まで、ずっと、分からなかった。なぜ、わたくしだけが、こんな目に、と。ですが、理由が分かれば、対処法も、見えてくるというもの」
わたくしは、ふっと、息を吐いた。
それは、ため息ではない。
これから始まる、最も、面倒で、最も、骨の折れる、しかし、最も、やりがいのある『お掃除』を前にした、決意の、呼気だった。
「どうします、お姫様」
ノアが、尋ねる。彼の声には、もはや、ただの部下としてではない、対等な共犯者としての、覚悟が滲んでいた。「あんたの敵は、どうやら、あんたが思っていたよりも、ずっと、巨大で、厄介な相手のようですぜ。この、国、そのものだ」
その言葉に、わたくしは、ゆっくりと、振り返った。
そして、この、百回目の人生で、初めて、心の底から、楽しそうに、笑った。
それは、聖女でも、悪役令嬢でもない、ただの、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインとしての、初めての、本物の、笑みだった。
「ええ、そうみたいですわね」
わたくしは、天井に広がる、千年前の、美しい、偽りの星空を、見上げた。
「ですが、好都合ですわ、ノア。敵が大きいほど、それを、根こそぎ、駆除した後の、安眠は、きっと、格別なものになるでしょうから」
その、不遜な言葉が、星々の静寂の中に、溶けて消えた、その時だった。
「――それは、叶わぬ夢であろうな」
その声は、どこからともなく、響いてきた。
古井戸の底から、響いてくるかのように、低く、枯れて、そして、何百年もの時の重みを、その内に、宿したかのような、声だった。
わたくしとノアは、同時に、その声のした方へと、視線を向けた。
祭壇の、影。
今まで、何もなかったはずの、その、深い闇の中から、まるで、闇そのものが、人の形をとったかのように、一つの、人影が、すうっと、浮かび上がってきていた。
深い、深い、星空の色をした、フード付きのローブ。顔は、影になって、窺い知ることはできない。ただ、その、ミイラのように、細く、節くれだった、皺だらけの手だけが、ローブの袖口から、覗いている。
その手には、星の光を宿したかのように、淡く輝く、一本の、樫の杖が、握られていた。
「何者だ!」
ノアが、即座に、わたくしの前に立ち、警戒の声を上げる。彼の指先から、いつでも魔法を放てるように、銀色の魔力の粒子が、火花のように、散っている。
しかし、そのローブの人物は、ノアの敵意など、意にも介さないかのように、ただ、静かに、そこに、佇んでいた。その、見えない視線が、真っ直ぐに、わたくしだけに、向けられているのを、感じた。
「……お下がりなさいな、ノア」
わたくしは、彼の腕を、そっと、制した。「この方からは、殺気も、敵意も、感じられませんわ。ただ、ひどく、古い匂いがするだけ」
ローブの人物は、わたくしの言葉に、応えるかのように、ゆっくりと、そのフードを、持ち上げた。
現れたのは、一人の、老人だった。
その顔は、まるで、干からびた果実のように、深く、おびただしい数の皺が、刻み込まれている。しかし、その、深く窪んだ眼窩の奥で、光る瞳だけは、天井の星々よりも、なお、鋭く、そして、澄み切った輝きを、宿していた。
「……いかにも」
老人は、静かに、口を開いた。
「わしは、星詠み。この、聖なる祭壇を、千年の長きにわたり、守り続けてきた、『番人』にござる」
彼の言葉は、古語に近い、独特の響きを持っていた。
「そして、お主こそが」
老人の、その、星の光を宿した瞳が、わたくしを、射抜く。
「――百番目の、『贄の乙女』よな」
贄。
その、あまりに直接的な、そして、侮蔑的な響きを持つ言葉に、ノアの肩が、ぴくりと動いた。
「……番人殿。あなたの、お役目も、どうやら、今日で、終わりのようですわね」
わたくしは、冷静に、そして、どこまでも、冷たく、言い放った。「この、馬鹿げたシステムは、わたくしの代で、終わりにして差し上げますから」
わたくしの、その、宣戦布告ともとれる言葉。
しかし、星詠みの老人は、動じない。それどころか、その皺だらけの顔に、まるで、物分かりの悪い子供を、諭すかのような、哀れみの色さえ、浮かべた。
「……乙女よ。お主は、まだ、真実の、半分しか、理解してはおらぬようじゃな」
「半分、ですって?」
「うむ。この儀式は、ただ、この地に、豊穣をもたらすためだけのものではない。それは、あくまで、副次的な効果に、過ぎぬ」
老人は、その手に持つ、樫の杖で、こつん、と、一度だけ、床を突いた。
「捧げられし、聖女の、その、清浄なる魂の力。その、本当の使い道は――」
彼は、一呼吸、置いた。
そして、この国の、最も、深く、そして、暗い、秘密を、告げた。
「――王家の血を引く者に、『擬似的な不死』を、与えることにある」
「……何ですって?」
今度こそ、わたくしは、言葉を失った。ノアもまた、信じられない、というように、目を見開いている。
「この国の王は、死なぬ。ただ、老いた『器』が、その役目を終えるたびに、新たなる、若く、そして、強健な『器』へと、その、気高き魂を、移し替えるだけ。千年の間、この国を治めてきたのは、ただ一人。初代国王、アレクシオス一世、その人のみ」
それは、あまりに、荒唐無稽で、そして、常軌を逸した、真実だった。
わたくしを、九十九回、殺し続けてきた、あの、ユリウスという名の、愚かな王子。彼もまた、その、永遠に続く、狂気の輪廻の、ただの、一コマに過ぎなかった、というのか。
「お主の、九十九回の、尊い犠牲があったからこそ、王は、その、永遠の叡智を、保ち続けることができた。王の、永遠の叡智があったからこそ、この国は、千年の、平和と繁栄を、享受することができたのだ」
老人の声には、絶対的な、揺るぎない、確信が、こもっていた。
それは、彼が、千年間、信じ続けてきた、この世界の、唯一の「正義」だった。
「乙女よ。お主は、ただ、死んできたのではない。お主の死は、この国の、百万の民の、幸福と、笑顔を、支え続けてきたのだ。お主は、この国の、歴史そのものであり、安寧、そのものなのだ」
彼は、静かに、わたくしへと、歩み寄ってくる。
その、星の瞳が、問いかけていた。
「なぜ、今更、それを、乱す?」
「なぜ、たった一人の、お主の、その、ささやかな『安眠』とやらのために、百万の民の、千年の『安寧』を、破壊しようとする?」
「お主に、その『権利』が、あるとでも、思うてか?」
静寂が、落ちる。
彼の、その、重い、重い、問いかけ。
それは、どんな剣よりも、どんな魔法よりも、鋭く、わたくしの魂の、核心を、貫こうとしていた。
百万の、幸福。一人の、幸福。
その、究極の、天秤。
ノアが、固唾をのんで、わたくしの反応を、見守っている。
おそらく、彼でさえも、この問いに、即答することは、できないだろう。
わたくしは、ゆっくりと、その、老人の、皺だらけの顔を、見つめ返した。
そして、その、アメジストの瞳に、何の感情も、浮かべないまま、静かに、答えた。
「……権利、ですって?」
わたくしの声は、春の夜風のように、穏やかだった。
「面白いことを、おっしゃいますのね、番人殿」
わたくしは、くすり、と、小さく、笑みを漏らした。
それは、九十九回の絶望を、全て、飲み干してしまった者にしか、浮かべられない、究極の、虚無の、微笑みだった。
「わたくし、そのような、高尚で、そして、面倒くさいものを、持ち合わせているつもりは、これっぽっちも、ございませんのよ」
「……何?」
「わたくしの、行動原理は、いつだって、ただ、一つ」
わたくしは、一歩、前へと、踏み出した。そして、老人の、その、星の瞳を、真っ直ぐに、見つめ返す。
「わたくしの、安眠を妨げるものは、それが、たとえ、この国の、気高き王であろうとも、百万の民の、尊い幸福であろうとも、そして、千年続く、美しい世界の理であろうとも――」
わたくしの口元に、三日月のような、冷たく、そして、美しい笑みが、浮かぶ。
「――等しく、駆除の、対象となる。ただ、それだけのことですわ」
その、あまりに、純粋で、あまりに、絶対的な、利己主義。
星詠みの老人は、その言葉を聞いて、初めて、その、千年の時を刻んだ顔に、驚愕の色を、浮かべた。
彼は、わたくしが、自らの運命に絶望し、怒り、あるいは、悲しむことを、予想していたのだろう。
しかし、目の前の少女は、その、全てを、超越していた。
「……そうか」
老人は、やがて、その驚愕を、深い、深い、理解へと、変えた。
「お主は、九十九回の絶望の果てに、神にも、人にもならず……」
彼は、わたくしの、魂の、本質を、見抜いた。
「ただの、『イザベラ』に、なったのだな」
その言葉は、肯定か、否定か。
分からなかった。
「――ならば、見せてもらおうか」
老人は、その手に持つ、樫の杖を、静かに、構えた。
杖の先端に、天井の星々の光が、集まり始める。
「お主の、その、たった一つの『安眠』が」
「この、百万の民が紡いできた、千年の『安寧』に、勝るのかどうかを」




