第44話 星見の間と、美しき欺瞞
開かれた扉の向こう側は、ただ、どこまでも深い、星屑を散りばめたような、美しい闇だった。
ひやりとした空気が、わたくしたちの頬を撫でる。それは、今まで歩いてきた、湿った地下通路の空気とは、全く質の違う、どこか神聖で、そして、ひどく乾いた、古代の匂いがした。
「……これは」
隣に立つノアが、思わず、息を呑むのが分かった。
わたくしは、何も言わなかった。ただ、目の前に広がる、未知の空間へと、躊躇なく、最初の一歩を踏み出した。
わたくしの足が、その空間の床に触れた瞬間、足元から、青白い光の波紋が、さざ波のように広がっていった。そして、その光に呼応するかのように、わたくしたちの頭上の、遥か高くにある天井に、一つ、また一つと、星々が、その輝きを灯し始める。
やがて、わたくしたちが、その部屋の中央まで歩を進めた時、そこは、完全な、夜空のドームと化していた。
北の空には、揺るぎない北極星が輝き、南の地平線近くには、見慣れた蠍の星座が、赤い心臓を点滅させている。天の川が、おびただしい数の光の粒子となって、天井を横断している。まるで、わたくしたちは、宇宙の真ん中に、ぽつんと、取り残されたかのようだ。
「……まるで、本物の、星空ですな」
ノアが、感嘆の声を漏らす。その声は、この、広大すぎる空間に、吸い込まれて、どこにも響かなかった。
「いいえ、違いますわ」
わたくしは、静かに、首を横に振った。「これは、魔法によって作り出された、完璧な、そして、巨大な幻影。星々の位置、光の強さ、瞬きの周期……寸分の狂いもない。おそらく、建国当時の、千年前の夜空を、寸分違わず、ここに再現しているのでしょう」
「千年前の、夜空……。一体、何のために、こんなものを」
わたくしは、彼の問いには答えず、部屋全体を見渡した。
ドーム状の壁一面には、天井の星々と同じように、おびただしい数の、微細な古代文字が、まるで、銀河の渦のように、びっしりと刻み込まれていた。それは、歴史書か、それとも、何かの記録か。その情報量は、地上の王立図書館の、全ての蔵書を合わせたとしても、到底、及ばないだろう。
そして、その、広大な部屋の、まさに、中心。
全ての星々の光が、まるで、そこに吸い込まれていくかのように、鎮座している、一つの、存在があった。
黒曜石の、祭壇だった。
それは、人の背丈ほどの高さがあり、磨き上げられたその表面は、星々の光を吸収して、ぬらりとした、底知れない闇の色を、放っていた。祭壇の上部には、ちょうど、人が一人、横たわれるくらいの大きさの、滑らかな窪みが、設えられている。
美しい、と思った。
そして同時に、心の奥底で、警鐘が、けたたましく鳴り響いていた。
九十九回の人生で、何度も、何度も、味わってきた、あの、死の予感。断頭台の、冷たい感触。火刑台の、焦げる匂い。毒杯の、舌を刺す痺れ。
それら全ての、根源にある、絶対的な「悪意」の気配を、わたくしは、この、美しくも禍々しい祭壇から、感じ取っていた。
「……お姫様?」
わたくしが、立ち尽くしているのを、いぶかしんだのだろう。ノアが、心配そうに、わたくしの顔を覗き込む。
わたくしは、はっと、我に返った。
そして、無意識のうちに、自分の首筋に、手をやっていたことに気づく。
恐怖ではない。ただの、古い記憶の、残滓だ。
わたくしは、その、不快な感覚を振り払うように、壁際に、歩み寄った。
そして、そこに刻まれた、無数の古代文字へと、その指先を、そっと、触れさせた。
「……少し、この部屋の、謎解きを、始めましょうか」
わたくしの声は、自分でも驚くほど、冷静だった。
恐怖や、警戒心よりも、今は、目の前の、この、巨大な謎を解き明かしたいという、知的な好奇心の方が、遥かに、勝っていたのだから。
「ええ、喜んで、お付き合いいたしますぜ。それで、何と、書かれておりますので?」
ノアは、わたくしの背後を守るように立ちながら、尋ねた。
わたくしは、壁の文字を、指先で、ゆっくりと、なぞっていく。それは、わたくしの知る、どの言語とも違う、神代の文字。しかし、九十九回の退屈な人生の中で、ありとあらゆる文献を読破させられてきた、わたくしの脳は、その、未知の言語の法則性を、驚くべき速度で、解析し始めていた。
「……『星の恵みは、乙女の嘆きより生まれる』……。まるで、詩のようですわね。ずいぶんと、感傷的な、設計者だったらしい」
「乙女の、嘆き……?」
「ええ。ですが、この『乙女』という単語、どうやら、普通名詞ではないようですわ。一つの、固有名詞として、扱われている。そして、その名は……奇妙なことに、わたくしたち、ヴァレンシュタイン家の、初代当主の奥方――歴史上、最初の『聖女』と呼ばれた方の、幼名と、同じですわね」
ノアが、息を呑む気配がした。
わたくしは、構わず、解読を続ける。指先が、別の行へと、滑っていく。
「『百の輪廻は、一つの礎』……。輪廻? 礎? 何ですの、これ……。まるで、禅問答のよう」
「……お姫様。その『輪廻』という言葉、まさか……」
「さあ、どうでしょうね。ですが、もっと、直接的な記述が、こちらにございますわ」
わたくしの指が、止まった。そこには、今までとは違う、より、事務的で、冷徹な文章が、刻まれていた。
「『儀式要項、第一条。贄は、星の血脈を引く、未婚の乙女たるべし。その魂の純度、最高位なる者を、聖女と認定す』……」
贄。聖女。
ばらばらだった単語が、わたくしの頭の中で、一つの、おぞましい意味を、結び始めようとしていた。
「『第二条。聖女の魂は、星見の祭壇にて、王錫に捧げられるべし。捧げられし魂の力は、エーテルへと変換され、王国の土に、百年の豊穣と、安寧を、約束する』……」
「……待ってくだせえ」
ノアの声が、いつになく、硬い。
「つまり、これは……。この国は、建国以来、ずっと、誰かの魂を、生贄にすることで、繁栄してきた、と。そういうことか……?」
「ええ。そして、その『贄』に、最も、適した家系というのが……」
わたくしは、もう、言葉を続ける必要もなかった。
答えは、すでに出ていた。
わたくしの、この、忌々しいループは。
個人的な呪いでもなければ、王子との、痴情のもつれなどという、矮小な悲劇でも、なかった。
それは、この国そのものを、千年間、維持し続けてきた、巨大な、そして、狂気の『システム』、そのものだったのだ。
わたくしたち、ヴァレンシュタイン家の女は、代々、この国を、豊かにするための、最高級の『供物』として、生まれ、育てられ、そして、捧げられてきた。
わたくしの、九十九回の死は、全て、この、美しき王国の、繁栄のための、礎の一つに過ぎなかった。
「……ああ、なるほど」
わたくしは、壁から、そっと、手を離した。
そして、ゆっくりと、振り返る。
その、アメジストの瞳には、もはや、驚きも、絶望も、怒りさえも、浮かんでいなかった。
ただ、全てを理解し、全てを受け入れ、そして、全てを「敵」と認識した、絶対零度の、静けさだけが、そこにあった。
「そういう、仕組みでしたのね」
その、あまりに、静かで、そして、人間離れした、わたくしの反応。
ノアは、言葉を失っていた。
彼は、わたくしが、泣き叫ぶか、あるいは、怒りに、我を忘れるか、そう、思っていたのだろう。
けれど、わたくしの心は、九十九回の絶望の果てに、もはや、そんな、人間らしい感情では、揺さぶられないほど、冷え切ってしまっていた。
わたくしは、部屋の中央にある、あの、黒曜石の祭壇へと、ゆっくりと、歩み寄った。
そして、その、ひんやりとした、滑らかな表面に、そっと、指先で、触れた。
「実に、合理的ですわ。一人の犠牲で、百万の民が、幸福に暮らせる。これほど、効率的な、統治システムは、ございませんわね。考えた方は、さぞかし、優秀な、そして、心の無い、天才だったのでしょう」
その声は、どこか、感心しているかのようにさえ、聞こえた。
「……お姫様。あんた、正気か?」
ノアが、ようやく、絞り出した声は、かすかに、震えていた。
「ええ、いつになく、明晰ですわよ」
わたくしは、祭壇から、視線を外さないまま、答えた。「今まで、ずっと、分からなかった。なぜ、わたくしだけが、こんな目に、と。ですが、理由が分かれば、対処法も、見えてくるというもの」
わたくしは、その祭壇を、まるで、愛しいものでも、見るかのように、その指先で、優しく、なぞった。
「あなた、でしたのね」
「わたくしの、九十九回分の人生を、退屈な、悲劇に、仕立て上げてくれた、張本人は」
「いいえ、違うわ。あなたは、ただの、舞台装置。本当の、脚本家は、別にいる」
わたくしは、ふっと、息を吐いた。
それは、ため息ではない。
これから始まる、最も、面倒で、最も、骨の折れる、しかし、最も、やりがいのある『お掃除』を前にした、決意の、呼気だった。
「どうします、お姫様」
ノアが、尋ねる。彼の声には、もはや、ただの部下としてではない、対等な共犯者としての、覚悟が滲んでいた。「あんたの敵は、どうやら、あんたが思っていたよりも、ずっと、巨大で、厄介な相手のようですぜ。この、国、そのものだ」
その言葉に、わたくしは、ゆっくりと、振り返った。
そして、この、百回目の人生で、初めて、心の底から、楽しそうに、笑った。
それは、聖女でも、悪役令嬢でもない、ただの、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインとしての、初めての、本物の、笑みだった。
「ええ、そうみたいですわね」
わたくしは、天井に広がる、千年前の、美しい、偽りの星空を、見上げた。
「ですが、好都合ですわ、ノア」
「……好都合?」
「ええ。敵が大きいほど、それを、根こそぎ、駆除した後の、安眠は、きっと、格別なものになるでしょうから」




