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ループ100回目の悪役令嬢は、もう平穏に昼寝がしたい  作者: 河合ゆうじ
安眠妨害の元凶を排除いたしますわ

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第43話 温かい感情は、安眠の敵か、味方か(上)

王立古代文献研究所の地下は、地上の喧騒が嘘であるかのように、完璧な静寂に満ちていた。

高い、高い天井まで続く書架は、まるで知識の巨人たちが、息を潜めて眠っているかのよう。窓から差し込む午後の光が、空気中を舞う微細な埃を、金色の粉のようにきらきらと輝かせている。古い羊皮紙と、乾いたインクと、そして、ほんの少しのカビの匂い。その全てが、わたくしにとっては、この世で最も心を落ち着かせる、極上のアロマだった。


わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインは、この聖域の最奥、巨大な天球儀のそばに設えた、ビロード張りの長椅子の上で、至福の微睡みに身を委ねていた。

ユリウス王子という名の、最も騒々しい害虫を駆除して以来、わたくしの日常には、嘘のような平穏が訪れていた。もはや、彼の粘着質な視線に悩まされることも、彼の退屈な自慢話に相槌を打つ必要もない。

素晴らしい。実に、素晴らしいことだ。

これで、心置きなく、思う存分、眠ることができる。九十九回の人生の果てに、ようやくたどり着いた、理想郷。


……その、はずだった。


(……おかしいですわね)


わたくしは、膝の上のカシミアの膝掛けの、柔らかな感触を指先で弄びながら、内心で、本日何度目になるか分からない、ため息をついた。

静かなはずなのに、心が、少しも、落ち着かない。

まるで、静まり返った湖面に、絶えず、誰かが、小石を投げ込み続けているかのようだ。

その波紋の中心にいるのは、決まって、三人の、厄介な顔ぶれだった。


暑苦しいほど、まっすぐに、わたくしを見つめる、翠の瞳。

胡散臭く、しかし、楽しげに、こちらを挑発してくる、銀の瞳。

そして、太陽のように、ただ、ひたすらに、温かく、こちらを、見守ってくれる、ヘーゼルナッツ色の瞳。


彼らのことを思い浮かべるたびに、わたくしの、この、九十九回かけて完璧な静寂を手に入れたはずの心臓が、ドクン、ドクン、と、まるで知らないリズムを刻むかのように、騒がしく脈打つのだ。

実に、不愉快。そして、実に、非効率的。

このような、情緒不安定な状態では、質の良い睡眠など、到底、望めそうにない。原因は、分かっている。人との、過剰な関わり合いだ。やはり、百害あって一利なし。早急に、関係を断ち切り、わたくしの、完璧な孤独を、取り戻さなければ。


わたくしが、そんな、極めて個人的で、そして、重大な問題について、思考を巡らせていた、その時だった。


「――おや、お姫様。随分と、難しいお顔をなさっている。もしや、次の『害虫駆除計画』でも、練っておられるのですかな?」


その声は、何の予兆もなく、わたくしの思考の、すぐそばから聞こえた。

音も、気配も、全くなかった。

わたくしが、顔を上げると、いつの間にか、書架に寄りかかるようにして、一人の男が、立っていた。

夜色の髪に、全てを見透かすような、銀の瞳。その口元には、いつもと同じ、人を食ったような、しかし、どこか、芸術的なまでに洗練された、三日月のような笑みが浮かんでいる。

情報屋、ノア。


「……あなた、いつから、そこに?」

わたくしは、驚きを、完璧なポーカーフェイスの下に隠し、尋ねた。この男の、この、幽霊のような出現の仕方には、未だに、慣れることができない。


「さあ、いつからでしょうな。ちょうど、あなた様が、胸に手を当てて、うっとりとした表情で、溜息をついておられた、あたりから、ですかな?」


「……わたくし、そのような、はしたない真似は、しておりませんけれど」

「おや、そうですかい? それは、俺の、見間違いだったようですな」


彼は、そう言いながらも、その銀の瞳が、「全て、お見通しですよ」と、雄弁に語っている。

実に、忌々しい。そして、実に、油断のならない男。


「それで? 何の用ですの、ノア。わたくし、今日はもう、店じまいの気分ですのよ。面倒な報告は、また、明日にしていただける?」

わたくしは、彼との、不毛な会話を切り上げるべく、そう、冷たく言い放った。今日のわたくしの精神エネルギーは、すでに、この、正体不明の「微熱」によって、その大半を消費してしまっているのだ。


しかし、ノアは、動じない。

彼の表情から、いつもの軽薄な笑みが、すうっと、消えた。代わりに、その銀の瞳に宿ったのは、真剣で、そして、どこか、挑戦的な光だった。


「残念ながら、お姫様。今日の話は、先延ばしにできるような、生易しいものではございませんぜ」

彼は、そう切り出すと、わたくしたちが、先日、手も足も出なかった、あの、地下の壁についての、驚くべき解析結果を、語り始めた。


「――例の、地下の結界ですがね。解析が、ある程度、進みました。どうやら、あれは、ただの物理的な障壁や、単純な魔術的な鍵などではない。術者の**『感情』**に、直接、反応する、極めて厄介な代物らしい」


感情。その言葉に、わたくしの眉が、ほんの少しだけ、ぴくりと動いた。


「それも、特に、恐怖や、怒り、憎悪といった、『負の感情』を感知すると、それを、自らのエネルギーとして、取り込み、より、強固になる。自己防衛型の、自動増殖結界。それが、奴の、正体です」


ノアの、その、淡々とした報告。

それは、わたくしが、九十九回の人生で、決して解けなかった、最大の謎に対する、あまりにも、シンプルで、そして、残酷な、答えだった。


なぜ、あの壁を、越えられなかったのか。

なぜ、九十九回、何をしても、あの扉は、開かなかったのか。


理由は、わたくし自身だったのだ。

婚約者に裏切られ、断罪され、絶望の淵に突き落とされた、一度目のわたくし。

運命に抗い、怒りに身を任せた、十回目のわたくし。

全てを諦め、冷たい諦観に心を閉ざした、九十九回目のわたくし。


わたくしの、その、九十九回分の、ありとあらゆる「負の感情」が、自らを閉じ込める、牢獄の壁を、より厚く、より、強固なものへと、育て上げてしまっていたのだ。

なんという、皮肉。

なんという、悪趣味な、喜劇。


「……ふふっ」

わたくしの口から、思わず、乾いた笑いが漏れた。

「そうですか。つまり、わたくしは、九十九回もの間、自分自身の絶望によって、自分自身の道を、塞いでいた、と。実に、滑稽なお話ですわね」


その、自嘲的な笑みを見て、ノアは、何も言わなかった。

ただ、静かに、その銀の瞳で、わたくしの反応を、見守っている。


「……では」

わたくしは、呟いた。それは、誰に聞かせるでもない、独り言のような、小さな声だった。

「今の、わたくしなら?」


その、一言。

それは、わたくし自身、無意識のうちに、口をついて出た言葉だった。

今の、わたくし。

あの、九十九回の、絶望と諦観だけに支配されていた、過去のわたくしとは、違う。

胸の中に、あの、厄介で、面倒で、そして、ほんの少しだけ、温かい、「微熱」を宿してしまった、今の、わたくしなら。


その、心の揺らぎを、この、狡猾な情報屋が、見逃すはずもなかった。

ノアの口元に、再び、いつものような、挑発的な笑みが、浮かぶ。


「さあ、どうでしょうな。それは、試してみなければ、分かりませんぜ?」

彼は、芝居がかった仕草で、わたくしに、手を差し伸べる。

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