第42話 太陽の少女と、焦げたクッキーの味
ノアという名の、最も厄介で、そして、最も退屈しない男が去った後、王立古代文献研究所の地下聖域には、再び、静寂が訪れた。
しかし、その静寂は、もはや、以前のような、完璧に澄み切ったものではなかった。
わたくしの心は、まるで、静かな湖面に、二つの、性質の異なる石を、同時に投げ込まれたかのように、複雑な波紋を描き続けていた。
カイン・アシュフィールド様といる時の、あの、胸を叩くような、力強い鼓動。
ノアといる時の、あの、脳髄が痺れるような、静かな高揚感。
どちらも、面倒で、非効率的で、そして、わたくしの安眠を、根本から脅かす、極めて、由々しき事態だった。
(……いけませんわ。このような、情緒不安定な状態では、とてもではございませんが、質の良い睡眠など、望めそうにありません。やはり、人との関わり合いなど、百害あって一利なし。明日からは、この聖域の扉に、『安眠中につき、面会謝絶』の札でも、掛けておきましょうかしら)
わたくしは、一人、うんざりと、長椅子に深く身を沈めた。
そして、全ての面倒事を、思考の外へと追い出すように、ゆっくりと、瞼を閉じた。
そう。眠るのが一番だ。眠ってしまえば、この、厄介な心のざわめきも、全て、忘れてしまえるはず。
わたくしの意識が、心地よい、微睡みの海へと、沈みかけた、その時だった。
タタタタタッ!
静寂を切り裂くように、軽快で、そして、少しだけ、慌てたような、小さな足音が、遠くから、こちらへと近づいてくるのが聞こえた。
その、太陽の光を思わせるような、一点の曇りもない、明るい足音。
この足音の主もまた、わたくしは、一人しか知らない。
(……ああ、もう。今日は、一体、何の日ですの。来客感謝デーか何かなのかしら)
わたくしは、もはや、起き上がる気力もなく、死んだフリを、決め込むことにした。
やがて、その足音は、わたくしの寝椅子のそばで、ぴたり、と止まった。
そして、鈴を転がすような、しかし、少しだけ、心配そうな声が、わたくしの耳に、届いた。
「……イザベラ様? お眠りでいらっしゃいますか?」
声の主は、やはり、エミリア・ブラウン嬢だった。
彼女は、わたくしが本当に眠っていると思ったのか、足音を忍ばせ、そっと、わたくしの顔を、覗き込んでいるようだった。
その、純粋な好奇心と、親愛の情に満ちた、温かい気配。
(……帰りなさいな、太陽の少女。あなたの、その、あまりに眩しい存在感は、この、薄暗く、ひんやりとした、わたくしの聖域には、あまりにも、不釣り合いですのよ)
わたくしが、内心で、そんなことを考えていると、彼女は、何やら、ごそごそと、懐から、一つの包みを取り出す気配がした。
ふわり、と、甘く、そして、少しだけ、香ばしい匂いが、鼻腔をくすぐる。
「……イザベラ様。いつも、お一人で、大変でしょうから……。これ、また、焼いてきましたの。今度は、少しだけ、焦がさずに、上手にできた、と、思うのですけれど……」
その、囁くような、独り言。
それは、誰に、聞かせるでもない、彼女の、ささやかな、そして、心のこもった、贈り物だった。
わたくしは、その、あまりに健気で、まっすぐな行為に、ついに、根負けした。
これ以上、彼女を、ここに、留めておくわけにはいかない。彼女の、この、太陽のような温かさに、これ以上、当てられてしまっては、わたくしの、九十九回かけて築き上げてきた、氷の心が、本当に、溶けてしまいかねない。
わたくしは、仕方なく、ゆっくりと、身を起こした。
「……あら、ブラウン嬢。いつから、そこに?」
「あ! イザベラ様! お、起こしてしまって、申し訳ございません!」
エミリアは、驚いて、リスのように、ぴょこんと、肩を跳ねさせた。そして、慌てて、その手に持っていた、布の包みを、背中の後ろへと、隠した。
「別に。もう、起きようと思っていたところですわ」
わたくしは、嘘をついた。
「それで? その、背中に隠しているものは、何ですの? なんだか、甘ったるい、匂いがいたしますけれど」
わたくしの、その、意地悪な指摘に、エミリアの顔が、ぽっ、と、リンゴのように、赤くなった。
彼女は、おずおずと、その包みを、わたくしの前に、差し出した。
「あ、あの……! これ……! 先日の、お礼、と、申しますか……! その、いつも、お世話になっておりますので……!」
彼女は、しどろもどろになりながら、そう言った。
その、あまりの純真さに、わたくしは、思わず、小さな、ため息をつきそうになるのを、必死で、こらえた。
包みを開くと、中には、やはり、手作りのクッキーが、入っていた。
前回よりも、確かに、形は、少しだけ、整っている。焦げている部分も、少なくなっていた。
その、不器用で、しかし、確かな、努力の跡。
わたくしは、そのクッキーを、ただ、黙って、見つめた。
手作りの、贈り物。
その、温かさが、今の、この、面倒な感情で、ささくれ立っていた、わたくしの心には、少しだけ、眩しすぎた。
「……わたくし、甘いものは、あまり、得意ではございませんのよ」
わたくしの口から、つい、そんな、素直ではない言葉が、こぼれ落ちた。
その一言に、エミリアの、きらきらと輝いていたヘーゼルナッツ色の瞳が、みるみるうちに、不安の色に、曇っていくのが分かった。
「そ、そうでしたのね……! ご、ごめんなさい! わたくし、そんなことも知らずに、ご迷惑を……!」
彼女は、潤んだ瞳で、そのクッキーを、引っ込めようとした。
その、あまりにも、悲しそうな、子犬のような表情。
(……ああ、もう。本当に、面倒ですわね、あなたは)
わたくしは、なぜだか、分からないけれど、その、彼女の、悲しむ顔を、見ていられなかった。
それは、わたくしの、完璧な、自己完結した世界に、一滴だけ、落ちた、毒のようだった。
無視できない、異物。
わたくしは、彼女が引っ込めようとした、その手を、そっと、制した。
そして、中から、一枚のクッキーを、つまみ上げる。
「……ですが」
わたくしは、続けた。
「あなたの、その、努力だけは、認めて差し上げても、よろしくてよ」
そう言って、わたくしは、そのクッキーを、躊躇いがちに、口元へと、運んだ。
サクリ、とした食感。
素朴なバターの風味と、優しい甘さ。そして、ほんのりとした、焦げの香ばしさ。
それは、公爵家の、一流のパティシエが作るような、洗練された味では、決してない。
けれど。
その、不器用で、まっすぐな味が。
なぜか、わたくしの、心の、最も、冷たく、そして、固くなっていた部分に、じんわりと、染み渡っていくような、気がした。
まるで、凍てついた大地に、初めて差し込む、春の、陽光のように。
「……!」
エミリアは、わたくしが、クッキーを食べたのを見て、信じられない、というように、その大きな瞳を、さらに、大きく、見開いた。
そして、次の瞬間、その瞳から、ぽろり、ぽろり、と、大粒の涙が、こぼれ落ち始めた。
「まあ、どうして、あなたが泣くのですか」
「だ、だって……! 嬉しいのですもの……! イザベラ様が、わたくしの、クッキーを……!」
彼女は、感極まって、言葉にならない、嗚咽を漏らしている。
その、あまりの、感情の豊かさに、わたくしは、少しだけ、眩暈がした。
「……大げさですわね。たかが、クッキーの一枚で」
「大げさじゃ、ありません! わたくし、イザベラ様の、お力になりたいんです! あなたは、いつも、一人で、全部、背負ってしまわれるから……! だから、わたくし、少しでも、あなたの、心の、支えに、なれたら、って……!」
支え、ですって?
この、わたくしが、誰かに、支えられる?
九十九回、誰にも頼らず、誰にも心を開かず、たった一人で、絶望の中を、歩き続けてきた、この、わたくしが?
馬鹿げている。
馬鹿げている、はずなのに。
なぜか、彼女の、その、あまりに純粋で、温かい言葉が。
カイン様がくれた、あの、力強い鼓動とも、
ノアがくれた、あの、知的な高揚感とも、違う。
もっと、根本的な、何かを、わたくしの心に、もたらしていた。
それは、「安らぎ」という名の、感情だった。
「……あなたといると、本当に、調子が、狂いますわ」
わたくしは、そう、呟いた。
それは、紛れもない、本心だった。
その夜。
わたくしは、久しぶりに、自室の、豪奢な天蓋付きの寝台で、眠りについた。
研究所の寝椅子も、悪くはない。けれど、やはり、この、自分のためだけに、完璧に整えられた、この場所が、一番、落ち着く。
わたくしは、いつものように、目を閉じた。
そして、いつものように、意識が、遠のいていくのを、感じていた。
九十九回、繰り返してきた、眠りへの、ルーティン。
それは、現実という名の、退屈な舞台から、無という名の、安息の地へと、逃避するための、儀式だった。
けれど、今夜は、少しだけ、違った。
意識が、沈んでいく、その、微睡みの中で。
わたくしの脳裏に、浮かび上がってきたのは、絶望の記憶では、なかった。
暑苦しいほど、まっすぐに、わたくしを見つめる、翠の瞳。
胡散臭く、しかし、楽しげに、こちらを挑発してくる、銀の瞳。
そして、太陽のように、ただ、ひたすらに、温かく、こちらを、見守ってくれる、ヘーゼルナッツ色の瞳。
(……ああ、本当に、面倒な、人たち)
その、面倒で、騒がしくて、そして、ひどく、厄介な、彼らの顔を、思い浮かべながら。
わたくしは、気づかないうちに、その口元に、ほんの、ごく、ごく僅かな、笑みを、浮かべていた。
九十九回の、長い、長い、冬の眠りの中で、一度も、浮かべたことのない、穏やかで、そして、満ち足りた、微笑みを。
わたくしの、百回目の人生の、眠りは。
もはや、ただの「逃避」では、なくなっていた。
明日、また、あの、面倒な人たちに、会うための。
ほんの、少しだけ、楽しみに、思うための。
「安らぎ」という名の、温かい、休息へと、その意味を、変えようとしていた。
その、小さな、しかし、決定的な変化に、まだ、わたくし自身、気づかぬまま。




