第41話 胡散臭い共犯者と、退屈しのぎのチェス
カイン・アシュフィールドという名の、歩く暖炉のような男が去った後、王立古代文献研究所の地下聖域には、再び、ひんやりとした、心地よい静寂が戻ってきた。
わたくしは、先ほど、あの忠犬騎士によって乱された心の平静を、なんとか取り戻そうと、アンナが淹れ直してくれた、新しいカモミールティーを、ゆっくりと味わっていた。
(……おかしいですわね。まだ、少し、胸のあたりが、騒がしいような気が……)
あの、不規則で、そして、力強い鼓動。
まるで、わたくしの体の中に、もう一人、別の誰かが住み着いて、勝手に、太鼓でも叩いているかのようだ。
実に、不愉快。そして、実に、非効率的。
このような状態では、質の良い睡眠など、到底、望めそうにない。原因を、早急に、特定し、排除せねば。
わたくしが、そんな、極めて個人的で、そして、重大な問題について、思考を巡らせていた、その時だった。
「――おや、お姫様。随分と、難しいお顔をなさっている。もしや、次の『害虫駆除計画』でも、練っておられるのですかな?」
その声は、何の予兆もなく、すぐ、隣から聞こえた。
音も、気配も、全くなかった。
わたくしが、顔を上げると、いつの間にか、書架に寄りかかるようにして、一人の男が、立っていた。
夜色の髪に、全てを見透かすような、銀の瞳。その口元には、いつもと同じ、人を食ったような、しかし、どこか、芸術的なまでに洗練された、三日月のような笑みが浮かんでいる。
情報屋、ノア。
「……あなた、いつから、そこに?」
わたくしは、驚きを、完璧なポーカーフェイスの下に隠し、尋ねた。この男の、この、幽霊のような出現の仕方には、未だに、慣れることができない。
「さあ、いつからでしょうな。ちょうど、あなた様が、胸に手を当てて、うっとりとした表情で、溜息をついておられた、あたりから、ですかな?」
「……わたくし、そのような、はしたない真似は、しておりませんけれど」
「おや、そうですかい? それは、俺の、見間違いだったようですな」
彼は、そう言いながらも、その銀の瞳が、「全て、お見通しですよ」と、雄弁に語っている。
実に、忌々しい。そして、実に、油断のならない男。
「それで? 何の用ですの、ノア。わたくし、今日はもう、店じまいの気分ですのよ。面倒な報告は、また、明日にしていただける?」
わたくしは、彼との、不毛な会話を切り上げるべく、そう、冷たく言い放った。カイン様との一件で、すでに、わたくしの今日の精神エネルギーは、その大半を消費してしまっているのだ。
しかし、ノアは、動じない。
彼は、書架から、一冊の、古びた、革張りの本を、取り出した。そして、それを、わたくしの前のテーブルの上に、ことり、と置いた。
「まあ、そう、つれないことをおっしゃらずに。今日は、報告ではございません。ただの、『退屈しのぎ』を持ってきただけですぜ」
わたくしは、いぶかしげに、その本に、視線を落とした。
タイトルは、ない。ただ、表紙に、複雑な、幾何学模様のような、一つの紋章が、刻印されているだけ。
「何ですの、これは」
「さあ、何でしょうな。王家の書庫の、最も奥深く、誰にも忘れられたように、埃をかぶっておりました。俺にも、この紋章が、何を意味するのか、皆目、見当がつかない」
彼の言葉に、わたくしの眉が、ほんの少しだけ、動いた。
九十九回の人生で、ありとあらゆる文献を、嫌というほど、読まされてきた、このわたくしが、見たことのない紋章。
「……ただ」と、ノアは続ける。「この本、奇妙なことに、開かないのです。どんな物理的な力をもってしても、どんな解錠の魔法を試しても、まるで、一枚の石の塊のように、びくともしない」
彼は、面白そうに、その銀の瞳を細めた。
「おそらく、これは、ただの本ではない。何らかの、極めて高度な、知的な『鍵』によって、封印されている、のでしょう。そして、その『鍵』を、解ける人間がいるとすれば……」
彼の視線が、真っ直ぐに、わたくしを射抜く。
「この国広しといえども、あなた様をおいて、他にいないのでは、と、思いましてね」
挑発。
それは、あまりにも、分かりやすい、挑発だった。
わたくしの、その、異常なまでの知識と、プライドを、的確に、刺激してくる、彼の、いつもの手口。
(……全く、この男は。人の、扱い方というものを、よく、心得ておりますわね)
わたくしは、内心で、悪態をつきながらも、その、古びた本へと、手を伸ばしていた。
指先に触れた、革の感触は、ひんやりと、そして、どこか、吸い付くように、滑らかだった。
確かに、開かない。まるで、一つの、完璧なオブジェのように、そのページは、固く、閉ざされている。
わたくしは、その、謎めいた紋章を、じっと、見つめた。
円と、直線と、いくつかの、見たこともない、記号の組み合わせ。
一見、無秩序に見えるその模様が、しかし、長時間見つめているうちに、わたくしの脳内で、ゆっくりと、その形を変え始めた。
それは、ただの模様ではない。
一つの、巨大な、そして、多重構造になった、『思考の迷路』だ。
「……なるほど。これは、一種の、論理パズルですわね」
わたくしの口から、無意識に、言葉が漏れた。
「この紋章に隠された、複数の問いに、心の中だけで、正しい答えを、同時に、導き出さなければ、この『鍵』は、開かない。しかも、時間制限付き。実に、悪趣味な、仕掛けですこと」
その、わたくしの、一瞬の分析を聞いて、ノアの銀の瞳が、驚きと、そして、それを遥かに上回る、歓喜の色に、きらめいた。
「……ほう。見ただけで、そこまで、お分かりに? いやはや、恐れ入りました。さすがは、我が女王陛下」
「おだては、結構ですわ」
わたくしは、彼を、ちらりと一瞥した。「あなた、本当は、この仕掛けの、七割方は、解明していたのでしょう? その上で、最後の、最も厄介な部分を、わたくしに、解かせようとしている。違いますか?」
「……くくっ。お見通し、ですかい」
ノアは、降参、とでも言うように、両手を、軽く上げてみせた。
「ええ、その通りです。最後の、この、古代神学と、高等数学が、複雑に絡み合った部分だけが、どうにも、俺の、浅い知識では、手も足も出なくてね。それで、あなた様のお知恵を、拝借しよう、と」
彼の、その、悪びれない態度。
わたくしは、ふん、と鼻を鳴らした。
「……仕方ありませんわね。あなたに、貸しを、一つ、作っておくのも、悪くはないでしょう」
わたくしは、そう言うと、目を閉じた。
そして、その、精神の迷宮へと、意識を、深く、深く、沈めていく。
一つ目の問い。『天空の七つ星が、南の地平線に沈む時、王の天秤は、どちらに傾くか』。これは、占星術に見せかけた、高度な、天体力学の計算問題。
二つ目の問い。『賢者の石は、賢者にしか見えず、愚者の石は、愚者にしか見えない。ならば、王が見る石は、何か』。これは、哲学的な、言葉遊びのようで、その実、集合論の、基本的なパラドックスを問うている。
三つ目、四つ目……。
次々と、現れる、難問、奇問。
その一つ、一つを、わたくしは、九十九回分の膨大な知識のデータベースを、フル回転させて、解き明かしていく。
それは、面倒だった。実に、面倒で、骨の折れる作業だった。
けれど。
(……ああ、そうか。この、数式は、あの、三百年前の、異端の数学者が提唱した、虚数空間の理論を、応用すれば……)
(……なるほど。この、神話の、この部分は、ただの物語ではない。古代魔導王国の、王位継承の儀式を、暗喩しているのですね)
パズルのピースが、一つ、また一つと、ぴたり、と、嵌っていく。
その、脳髄が、痺れるような、快感。
今まで、ただ、退屈な知識として、頭の中に、無造作に、詰め込まれていただけの、がらくたのような情報たちが、一つの、意味のある、美しい体系となって、再構築されていく。
忘れていた。
この感覚を。
何かを、知ることの、喜び。
謎を、解き明かすことの、興奮。
九十九回の、絶望と、諦観の中で、完全に、摩耗しきってしまったと、思っていた、わたくしの、知的好奇心。
それが、この男といると、いとも容易く、掘り起こされてしまう。
時間にして、わずか、十分ほどだっただろうか。
わたくしは、ゆっくりと、目を開けた。
「……解けましたわ」
その、一言と共に。
わたくしの手の中にある、古びた本が、カチリ、と、小さな、そして、心地よい音を、立てた。
何百年もの間、固く閉ざされていた、そのページが、まるで、ため息をつくかのように、ふわり、と、開いたのだ。
中に書かれていたのは、わたくしたちが、探し求めていた、ループの謎に、直接、関わるような、衝撃的な情報では、なかった。
それは、ただ、古代魔導王国時代に生きた、一人の、名もなき宮廷魔術師が、日々の、退屈を、紛らわすために、書き綴った、極めて、高度で、そして、極めて、悪趣味な、知的遊戯の、記録だった。
「……はぁ。何ですの、これは。全くの、骨折り損ですわね」
わたくしは、少しだけ、がっかりして、そう、ため息をついた。
しかし、ノアは、その本の中身には、一切、興味を示さなかった。
彼の、その、銀の瞳は、ただ、うっとりと、わたくしの顔だけを、見つめていた。
「……いいえ」
彼は、囁くように、言った。
「最高の、退屈しのぎでしたぜ。まるで、この世で、最も、美しく、そして、最も、スリリングな、チェスの棋譜を、見ているかのようでした」
その、熱を帯びた、視線。
その、どこまでも、甘い、言葉。
――ドクン。
まただ。
また、わたくしの、この、忌々しい心臓が、あの時と同じ、奇妙な、音を立てる。
カイン様といる時とは、違う。もっと、静かで、もっと、頭の中心が、痺れるような、別の種類の、高鳴り。
「……あなたといると、どうも、調子が、狂いますわ」
わたくしは、その、胸のざわめきを、彼に、悟られぬよう、そっぽを向いて、そう、吐き捨てた。
「おや、それは、光栄なことですな」
ノアは、心の底から、楽しそうに、笑った。
「ですが、ご安心を、お姫様。俺は、あの、忠犬くんのように、暑苦しくはございません。あなた様の、お昼寝の邪魔をするような、無粋な真似は、決していたしませんとも」
彼は、そう言うと、音もなく、その場から、姿を消そうとした。
まるで、自分の役目は、終わった、とでも言うかのように。
「――待ちなさいな」
わたくしは、思わず、彼を、呼び止めていた。
自分でも、なぜ、そんなことをしたのか、分からなかった。
ノアは、驚いたように、足を止め、振り返る。
「……その本、置いていきなさいな」
わたくしは、少しだけ、むきになって、言った。
「まだ、解けていない、問題が、いくつか、残っているようですから。わたくし、中途半端、というものが、一番、寝覚めが悪くて、嫌いですのよ」
「……」
ノアは、一瞬だけ、その銀の瞳を、驚きに、見開いた。
そして、次の瞬間、今日一番の、悪戯っぽく、そして、どこまでも、優しい笑みを、浮かべた。
「――御意のままに、我が女王陛下」




