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ループ100回目の悪役令嬢は、もう平穏に昼寝がしたい  作者: 河合ゆうじ
安眠妨害の元凶を排除いたしますわ

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第40話 暑苦しい忠犬と、心地よい微熱

王立古代文献研究所の地下は、地上の喧騒が嘘であるかのように、完璧な静寂に満ちていた。

高い、高い天井まで続く書架は、まるで知識の巨人たちが、息を潜めて眠っているかのよう。窓から差し込む午後の光が、空気中を舞う微細な埃を、金色の粉のようにきらきらと輝かせている。古い羊皮紙と、乾いたインクと、そして、ほんの少しのカビの匂い。その全てが、わたくしにとっては、この世で最も心を落ち着かせる、極上のアロマだった。


わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインは、この聖域の最奥、巨大な天球儀のそばに設えた、ビロード張りの長椅子の上で、至福の微睡みに身を委ねていた。

膝の上には、アンナがどこからか見つけてきた、雲のように柔らかいカシミアの膝掛け。そして、その上には、完璧な偽装工作のための、分厚い魔導書『古代魔術における触媒の物理的変性に関する考察』が、鎮座している。

ああ、素晴らしい。

実に、素晴らしい環境だ。

ユリウス王子という名の、最も騒々しい害虫を駆除して以来、わたくしの日常には、嘘のような平穏が訪れた。もはや、彼の、粘着質な視線に悩まされることも、彼の、退屈な自慢話に相槌を打つ必要もない。

これで、心置きなく、思う存分、眠ることができる。九十九回の人生の果てに、ようやくたどり着いた、理想郷。


(……このまま、夕食の時間まで、誰にも起こされなければ、今夜は、きっと、素晴らしい夢が見られそうですわね)


わたくしが、そんな、幸福な未来予想図を描きながら、意識を手放しかけた、その時だった。


トス、トス、トス……。


静寂の中で、その足音は、やけに、はっきりと響いた。

それは、忍び足ではない。かといって、無遠慮な足音でもない。

まるで、聖域に足を踏み入れることに、最大限の敬意を払いながらも、その喜びと興奮を、隠しきれていないかのような、奇妙に、弾んだ足音。

この、暑苦しくて、実直で、そして、少しだけ、騒々しい足音の主を、わたくしは、一人しか知らない。


わたくしは、目を開けるのも面倒で、そのまま、眠っているフリを続けることにした。

やがて、その足音は、わたくしの寝椅子のすぐそばで、ぴたり、と止まった。

視線を感じる。

それも、ただの視線ではない。まるで、巡礼者が、長年夢見た聖地で、ご神体そのものを前にしているかのような、熱烈で、純粋で、そして、少しだけ、息苦しいほどの、畏敬に満ちた視線だ。


(……帰りなさいな。あなたの、その、体温の高そうな視線だけで、この部屋の快適な温度が、一度は、上昇してしまいますわよ)


わたくしが、内心で、完璧な淑女にあるまじき悪態をついていると、その視線の主は、感動に打ち震えるような、潜めた声で、呟いた。

「ああ……。イザベラ様……。お眠りになられている、お姿すら、なんと、神々しいのだろうか……。まるで、戦いの疲れを癒す、女神のようだ……」


声の主は、やはり、カイン・アシュフィールド様だった。


女神ですって? とんでもない。わたくしは、ただの、睡眠を貪る、ナマケモノですわよ。

わたくしは、もはや、これ以上、彼の、暑苦しいポエムを聞かされるのに耐えきれず、仕方なく、ゆっくりと、瞼を持ち上げた。


「……あら。アシュフィールド様では、ございませんか。ごきげんよう」

わたくしの声は、寝起きの気だるさを、完璧に演じていた。


わたくしが目覚めたことに気づいたカイン様は、待ってましたとばかりに、その翠の瞳を、子犬のように、きらきらと輝かせた。そして、その場で、がばっと、音が出そうなほどの勢いで、頭を下げた。

「お、お目覚めでしたか、イザベラ様! お眠りのところ、大変、申し訳ございません! 俺、あなた様のお顔を、ほんの一目、拝見できれば、それで満足でしたので!」


「そうですか。では、もう、よろしいでしょう。お帰りになって?」

わたくしの、あまりにも素早い、そして、情け容赦のない塩対応に、カイン様は、一瞬、言葉に詰まった。しかし、彼は、すぐに気を取り直すと、さらに、一歩、わたくしに近づいてきた。


「い、いえ! そういうわけには、まいりません! あの、ユリウスとかいう、不届き者が失脚したとはいえ、あなた様を狙う不埒な輩が、いないとも限りません! この、カイン・アシュフィールド、この命に代えましても、あなた様の、この聖域の、安寧を、お守りいたしますッ!」


そう宣言すると、彼は、わたくしの寝椅子の、すぐ横に、仁王立ちになったのだ。

腕を組み、胸を張り、その、鍛え上げられた巨体で、まるで、わたくしを守る、一人の、人間城壁になるかのように。


「……」


わたくしは、無言で、彼を見上げた。

彼の影が、ちょうど、わたくしの顔に、かかっている。せっかくの、心地よい日差しが、遮られてしまったではないか。

それに、聞こえる。彼の、規則正しく、しかし、力強い、呼吸音が。スゥー、ハァー、という、その、生命力に満ち溢れた音が、この、完璧な静寂を、無粋に、乱している。


(……ああ、もう。ユリウス殿下は、物理的に距離が離れていただけ、まだ、マシでしたわね。この方は、すぐ隣で、わたくしの安眠を、妨害する気満々ですわ)


わたくしは、本日、何度目になるか分からない、深いため息を、心の中でついた。


「アシュフィールド様」

「はっ! 何でございましょうか、イザベラ様!」

「……少し、暑苦しいので、そこを、おどきになってくださる?」


「はっ! 暑苦しい! そうでしたか! 申し訳ございません! 俺の、この、燃えるような忠誠心が、熱となって、あなた様にご迷惑を……! では、少し、距離を取って、お守りいたします!」

彼は、そう言うと、三歩ほど、後ろに下がった。しかし、その視線は、寸分も、わたくしから外れることはない。


(……あまり、意味がございませんわね)


わたくしは、もはや、彼に何かを言うことを諦め、再び、眠りにつこうと、目を閉じた。

しかし、静寂は、すぐに、破られた。


「あの、イザベラ様!」

「……何ですの」


「あなた様、先日の作戦では、さぞかし、お疲れになったことでしょう! 肩など、凝ってはいらっしゃいませんか!? 俺のこの腕、人を癒すような、高尚な力はございませんが、凝り固まった筋肉を、的確に、揉み解す力なら、この騎士団の、誰にも負けません! いかがでしょうか!」

彼は、そう言うと、自らの、丸太のように太い腕の、力こぶを、ぼこり、と作って見せた。その腕力で揉まれたら、わたくしの、この華奢な肩は、おそらく、粉々になってしまうだろう。


「……結構ですわ。わたくし、人に、体を触られるのは、好きではございませんの」

「はっ! さすがは、イザベラ様! その、気高きお言葉、このカイン、感服いたしました! ですが、万が一、お疲れが溜まっているようでしたら、いつでも、お申し付けください!」


(……この男には、本当に、言葉が、通じませんわね)


彼は、わたくしの、どんな冷たい言葉も、拒絶の態度も、全て、彼独自の、ポジティブで、忠誠心に満ち溢れたフィルターを通して、変換してしまうらしい。

ある意味、最強の精神構造かもしれない。


わたくしは、いよいよ、うんざりしてきて、本で、完全に、顔を覆い隠してしまった。

もう、結構です。あなたが、そこで、何を言おうと、わたくしは、眠りますから。


しかし。

そんな、わたくしの、ささやかな抵抗も、虚しかった。

静寂が、戻ってきたかと思った、次の瞬間。カイン様は、今度は、わたくしの足元に、跪くと、まるで、祈りを捧げるかのように、語りかけ始めたのだ。


「イザベラ様……。俺は、本当に、幸せでございます。こうして、あなた様にお仕えできることが。あなた様から、いただいた、この新しい命で、あなた様をお守りできることが……。あの、黄金の光に包まれた瞬間から、俺の魂は、全て、あなた様のものなのです……」


彼の声は、熱っぽく、そして、どこまでも、真摯だった。

それは、九十九回の人生で、わたくしが、一度も、向けられたことのない種類の、純粋で、まっすぐで、そして、何の打算もない、剥き出しの、好意だった。


その、言葉の、一つ、一つが。

まるで、温かい、小さな石のように、わたくしの、凍てついていたはずの心の湖に、ぽちゃん、ぽちゃん、と、投げ込まれていく。

そして、そのたびに、小さな、波紋が、広がっていく。


その時だった。


――ドクン。


わたくしの、心臓が。

今まで、聞いたことのないような、大きく、そして、奇妙な音を、立てた。

一度だけではない。

ドクン、ドクン、と、まるで、知らないリズムを、刻み始めたかのように。


「(……な、んですの……? この、音は……)」


わたくしは、本の下で、思わず、目を見開いた。

不整脈?

それとも、この、暑苦しい男の熱気に、ついに、わたくしの体の方が、悲鳴を上げたのかしら。


わたくしは、その、正体不明の、胸のざわめきから、逃れるように、勢いよく、身を起こした。

そして、顔を覆っていた本を、彼の足元に、わざと、落としてみせた。


「……あら、いけませんわ。手を、滑らせてしまいました。拾ってきてくださる?」

「はっ! お安い御用です!」


カイン様が、喜んで、その本を拾いに行っている、その、ほんの数秒の隙に。

わたくしは、彼に、背を向けた。

この、奇妙な、胸の高鳴りを、彼に、気づかれてはならない。なぜだか、分からないけれど、そう、強く、思ったのだ。


「……アシュフィールド様。わたくし、少し、風に当たりたくなりましたわ。あなたは、ここで、この聖域を、しっかりと、お守りくださいな」

「はっ! お任せください! このカインド・アシュフィールド、一歩たりとも、ここを動きません!」


わたくしは、彼の、その、頼もしい返事を聞きながら、足早に、その場を、後にした。

まるで、何かから、逃げ出すかのように。


一人、研究所の、冷たい廊下を歩きながら、わたくしは、そっと、自分の胸に、手を当てた。

まだ、少しだけ、速い。

そして、少しだけ、熱い。

まるで、微熱にでも、浮かされているかのような、この、不快で、そして、ほんの少しだけ、心地よい、この感覚。


「……全く、本当に、面倒な方ですわね。あの方は」


わたくしは、誰にともなく、そう呟いた。

その声は、いつものように、冷たい響きをしていたけれど。

わたくしの頬が、ほんの、ごく、ごく僅かに、上気していたことに、わたくし自身、まだ、気づいてはいなかった。


「この、微熱は……一体、いつになったら、引いてくださるのかしら」


その、厄介で、そして、抗いがたい、新しい種類の「面倒事」に、わたくしは、この日、初めて、出会ってしまったのだった。

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