第39話 女王陛下からの請求書
静寂。
王宮の、ユリウス王子の執務室は、まるで時が止まったかのように、死んだような静寂に包まれていた。
床に散らばった陶磁器の破片だけが、昨夜、この部屋で吹き荒れた激情の嵐の、唯一の名残だった。
ユリウスは、豪奢な執務椅子に、深く、深く、沈み込むように座っていた。その空色の瞳は、もはや何の光も映さず、ただ、窓の外の、虚無の空間だけを、ぼんやりと見つめている。
完敗だった。
それも、ただの敗北ではない。チェスで、相手に全ての駒を取られ、裸のキングのまま、盤上で嬲り殺しにされるような、絶対的な、屈辱的な敗北。
彼は、生まれて初めて、自分以外の誰かの脚本の上で、滑稽な道化を演じさせられていたのだ。
(……化け物め)
もはや、怒りも、憎しみも、湧いてこない。
彼の心を支配しているのは、ただ一つ。
理解を超えた存在に対する、原始的な「恐怖」だった。
あの、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインという、美しい皮を被った、得体の知れない何かへの。
コン、コン。
控えめなノックの音が、静寂を破った。
ユリウスは、反応しない。反応する気力もなかった。
しかし、扉は、彼の許可を待たず、静かに、そして、滑るように開かれた。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
夜色の髪に、全てを見透かすような銀の瞳。その口元には、人を食ったような、しかし、どこか、王侯貴族のような優雅ささえ感じさせる、不可解な笑みが浮かんでいる。
情報屋、ノア。
ユリウスの、虚ろだった瞳に、初めて、微かな光が宿った。それは、憎悪の色だった。
この男。この、どこからともなく現れ、あの女の影として、暗躍した、忌々しい道化。
「……何の用だ、下衆が」
ユリウスの声は、砂を噛むように、乾ききっていた。「衛兵! 衛兵! こいつを、つまみ出せ!」
しかし、誰も来ない。
衛兵たちは、昨夜の一件以来、もはや、彼の命令を、まともに聞こうとはしなかった。
「まあ、そう、つれないことをおっしゃらずに、殿下」
ノアは、まるで、自分の庭を散歩するかのように、悠々と部屋の中へ入ってきた。そして、ユリウスの机の前に、恭しく、しかし、その態度の端々に、隠しようもない侮蔑を滲ませながら、一つの、豪奢な木箱を、ことり、と置いた。
それは、最高級の黒檀で作られ、銀の美しい透かし彫りが施された、見事な箱だった。
「……何だ、これは」
「我が主君、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン様からの、ささやかなる『贈り物』にございます」
ノアの声は、どこまでも、丁重だった。
贈り物。その言葉に、ユリウスの心に、ほんの、ごく、ごく僅かな、あり得ないはずの期待が、芽生えた。
まさか。あの女が、わたくしに? 謝罪の品か? それとも、和解を求めての、貢ぎ物か? そうだ、そうに違いない。彼女も、やりすぎたことを後悔し、このわたくしの、許しを乞うて……。
「……開けて、ご覧ください」
ノアは、ユリウスの、その、哀れな妄想を、楽しむかのように、促した。
ユリウスは、震える手で、その箱に、触れた。
重い。ずしりとした、確かな重み。
彼は、ゆっくりと、その蓋を、持ち上げた。
中に、入っていたのは。
金銀財宝では、なかった。
毒の塗られた短剣でも、脅迫状でも、なかった。
そこにあったのは。
まず、一つ。
月の光を閉じ込めたかのように、滑らかで、艶やかな、最高級のシルクで作られた、『アイマスク』。
次に、一つ。
伝説の鳥、グリフォンの羽毛でも使ったのかと思わせるほど、軽く、そして、柔らかい、小さな、小さな、『安眠枕』。
そして、一つ。
蓋を開けただけで、ふわり、と、心を落ち着かせる、甘く、優しい香りが立ち上る、カモミールと、ラベンダーと、その他、数種類の、極めて希少なハーブをブレンドした、『特製ハーブティー』の茶葉。
ユリウスは、ただ、呆然と、その、三つの品物を見つめていた。
意味が、分からなかった。
これは、何だ。この、悪趣味な、冗談は。
そして、彼は、箱の底に、もう一枚、添えられているものに、気づいた。
それは、ヴァレンシュタイン家の紋章が、金の箔押しで刻まれた、一枚の、美しいカードだった。
彼は、それを、取り上げた。指先が、小刻みに、震えている。
そこには、まるで、音楽を奏でるかのような、流麗で、完璧な筆跡の文字が、記されていた。
『――親愛なるユリウス・テオ・ド・ラ・ファイエット殿下へ』
『先日の件では、貴方様の、あまりに壮大で、そして、独創的なお芝居に、わたくし、大変、感銘を受けました。
つきましては、ささやかではございますが、観劇料の代わりに、この品々を、お贈りさせていただきます』
『貴方様の、その、常軌を逸した情熱のせいで、わたくしの、かけがえのない、三日分の貴重な睡眠時間が、無慈悲にも、奪われてしまいました。
ですが、慈悲深いわたくしは、その罪を、許しましょう。
そして、貴方様にも、せめて、今宵一夜だけでも、安らかな眠りが訪れることを、心より、お祈りしておりますわ』
『追伸。
この度の件で、わたくしが被った精神的苦痛、及び、安眠妨害に対する『迷惑料』につきましては、後日、改めて、『請求書』をお届けに上がりますので、その旨、ご承知おきくださいませ』
『愛を込めずに。
イザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン』
静寂。
カードを読み終えた、ユリウスは、ただ、固まっていた。
時が、止まったかのように。
彼の頭の中で、何かが、ぷつり、と、切れる音がした。
理解した。
ようやく、全てを。
これは、贈り物などではない。
これは、勝利宣言などですらない。
これは、この世で、最も、残酷で、最も、優雅な、精神的な、処刑だった。
あの女は、わたくしのことなど、初めから、何とも思っていなかったのだ。
憎悪も、恐怖も、恋愛感情も、何一つ。
わたくしの存在は、彼女にとって、ただの、「安眠を妨げる、騒々しい、害虫」程度のものでしかなかったのだ。
そして、その害虫が、三日間、彼女の耳元で、ぶんぶんと、うるさく飛び回った。
だから、彼女は、その「迷惑料」として、この、究極の侮辱を、送りつけてきたのだ。
「お前も、少しは、静かに、眠ったらどうだ?」と。
まるで、夜中に吠える、隣家の犬に、骨でも投げ与えるかのように。
「……あ」
ユリウスの口から、乾いた、空虚な声が漏れた。
「……あ、あはは……」
笑いが、込み上げてきた。
止まらない。
怒りも、悲しみも、憎しみも、全て、通り越してしまった。
残ったのは、ただ、底なしの、絶対的な、敗北感。
そして、自分の矮小さを、完膚なきまでに、思い知らされた、究極の、虚無。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははたっ!!」
彼は、壊れた人形のように、ただ、笑い続けた。
涙を流しながら。
その精神が、完全に、砕け散った、音だった。
ノアは、その、哀れな王子の姿を、一瞥すると、興味を失ったように、静かに、背を向けた。
そして、誰にともなく、小さく、呟いた。
「……請求書、お届けに上がりましたぜ。大変、お喜びの、ご様子でした」
彼は、音もなく、部屋を出て行った。
残されたのは、ただ、虚ろな笑い声だけが響き渡る、静かな、静かな、墓場のような部屋だけだった。
「――そうですか。それなら、よろしいのですけれど」
王立古代文献研究所、地下の一室。
ノアからの報告を聞いたわたくしは、特に、何の感慨もなさそうに、そう答えた。
そして、淹れたての紅茶の、最後の一滴を、名残惜しむように、味わう。
「さて、と」
わたくしは、ティーカップを置くと、満足げに、息をついた。
「これで、面倒な害虫駆除は、一旦、終わりですわね」
わたくしの視線は、もはや、ユリウス王子には向いていなかった。
その、アメジストの瞳は、部屋の隅に置かれた、一つの、巨大な石の壁へと、向けられていた。
あの、わたくしたちの行く手を阻む、未知の、古代結界が刻まれた、忌々しい壁。
「ノア。わたくし、そろそろ、本題に戻りたいのです」
わたくしの声は、静かだったが、その奥には、九十九回の退屈を打ち破る、新しい、そして、厄介なものへの、挑戦の色が、確かに宿っていた。
「あの、忌々しい『壁』の、謎解きに」




