第38話 敗者の朝、勝者の微睡み
朝の光は、無慈悲なまでに、平等だった。
昨夜の狂騒が嘘のように静まり返った王都にも、そして、絶望の淵に沈む王宮の一室にも、同じように、清らかな光を投げかけている。
王宮の、ユリウス王子の執務室は、まるで、嵐が通り過ぎた後のようだった。
床には、砕け散った陶磁器の破片や、無残に引き裂かれたタペストリーが散乱している。高価な黒檀の机には、昨夜の激情の跡である、深い剣の傷跡が、生々しく刻まれていた。
その、無惨な部屋の中心に、ユリウス・テオ・ド・ラ・ファイエットは、ただ一人、立っていた。
彼の、完璧に着こなされていたはずの純白の軍服は、今はもう、皺だらけになり、胸元のサファイアのブローチは、いつの間にか、どこかへ消え失せていた。完璧な金髪は乱れ、その美しい顔には、隈が、深く、青黒い影を落としている。
彼は、眠っていなかった。
眠れるはずが、なかった。
瞼を閉じれば、脳裏に浮かぶのは、あの、処刑台の上に残された、一枚のカード。ヴァレンシュタイン家の、気高き鷲の紋章。
それは、彼のプライドを、彼の存在意義を、根こそぎ奪い去った、悪魔の刻印だった。
(なぜだ……なぜ、こうなった……)
彼の思考は、同じ場所を、ぐるぐると、回り続ける。
完璧だったはずだ。わたくしの計画は、わたくしの世界は、完璧だったはずなのに。
あの女。
あの、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン。
ただの、美しく、従順な、人形ではなかったのか。わたくしの権威を飾り立てるための、最高のアクセサリーではなかったのか。
いつからだ。
いつから、あの女は、わたくしの理解を超える、化け物になってしまったのだ。
いや、違う。
もしかしたら、初めから、そうだったのかもしれない。
わたくしが、気づかなかっただけ。あの女が、その本性を、完璧な仮面の下に、隠し続けていただけ。
そして、わたくしは、その仮面の上っ面だけを撫でて、全てを支配した気になっていた、愚かな、道化に過ぎなかったのだ。
その、耐えがたい自己認識が、彼の心を、じりじりと、焼き焦がしていく。
「……父上は、何と?」
ユリウスは、部屋の隅で、石像のように控えていた側近、ロズワールに、かすれた声で尋ねた。
「……国王陛下は、『証拠もなしに、公爵家を断罪することはできん。全ては、お前の、失態だ』と……。そして、『これ以上、事を荒立てるな』との、お言葉でございました」
ロズワールの声は、平坦で、何の感情もなかった。
「失態、だと……?」
ユリウスは、乾いた笑いを漏らした。「これは、ただの失態ではない。反逆だ! 明らかな、王家への反逆行為だというのに!」
「ですが、殿下。証拠が、ございません。ヴァレンシュタイン嬢は、あの日、研究所から一歩も出ていないという、完璧なアリバイがございます。ヤコブを救出した者たちの正体も、いまだ、掴めておりません」
「黙れッ!!」
ユリウスは、叫んだ。「証拠など、作り出せばいい! ヴァレンシュタイン公爵を、今すぐ、捕らえろ! 奴の首を刎ね、あの女を、わたくしの前に引きずり出してやる!」
「……それは、できません」
ロズワールの声は、変わらず、平坦だった。
「公爵家は、今や、貴族院の半数以上を、完全に掌握しております。カイン・アシュフィールド率いる騎士団も、公然と、公爵家への支持を表明。我々に、もはや、彼らと事を構えるだけの力は、残されておりません」
それは、残酷な、事実だった。
一夜にして、力関係は、完全に、逆転していた。
ユリウスは、もはや、王都の支配者ではない。ただの、裸の王様だった。
彼は、がくりと、膝から崩れ落ちた。
床に散らばった、陶磁器の破片が、その膝を傷つけ、じわりと、血が滲む。しかし、彼には、その痛みさえ、感じられなかった。
それ以上の、屈辱と、絶望が、彼の全身を、支配していたからだ。
「……どうすればいい。わたくしは、これから、どうすれば……」
その呟きは、もはや、誰に向けられたものでもなかった。ただの、救いを求める、子供のような、か細い声だった。
ロズワールは、そんな主君の姿を、ただ、無感動に、見下ろしていた。
その、能面のような顔の、その奥で。
ほんの一瞬だけ、ごく、わずかな、憐れみと、そして、それを遥かに上回る、侮蔑の色が、浮かんで、消えたのを、ユリウスが、知る由もなかった。
同じ、朝の光が、王立古代文献研究所の、地下の一室にも、静かに、差し込んでいた。
その光は、高い窓から、一本の筋となって、埃をきらきらと輝かせながら、ビロード張りの寝椅子の上で、猫のように丸くなって眠る、一人の少女の、プラチナブロンドの髪を、優しく、照らしている。
わたくし、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインは、九十九回の人生で、最も、心地よい微睡みの中にいた。
昨夜は、よく眠れた。
ああ、実に、よく眠れた。
面倒事の元凶であった、ヤコブ救出作戦は、完璧に成功した。これで、当分、彼のことで、胸を痛め、寝覚めの悪い朝を迎えることもないだろう。
素晴らしい。実に、素晴らしいことだ。
わたくしは、寝返りをうった。寝椅子の、ビロードの感触が、頬に、心地よい。
ふわり、と、カモミールの、優しい香りがした。
いつの間にか、侍女のアンナが、わたくしの枕元に、温かいハーブティーを置いてくれていたらしい。
本当に、気が利く、侍女だ。今度、お給金を、少しだけ、上げて差し上げようかしら。もちろん、そんな面倒な手続きは、父に丸投げするだけですけれど。
(……ああ、このまま、今日一日は、ずっと、こうしていたいですわね)
わたくしが、そんな、至福の思考に、身を委ねていた、その時。
聖域の静寂を破る、一つの気配が現れた。
「――お目覚めですかな、我が女王陛下。随分と、ご機嫌麗しいご様子で」
声の主は、ノアだった。
彼は、書架に寄りかかり、腕を組みながら、こちらを、面白そうに、見つめている。
「……ごきげんよう、ノア。人の安眠を妨げるとは、あなたも、随分と、無粋なことをなさいますのね」
わたくしは、目を開けないまま、少しだけ、不機嫌な声で答えた。
「これは、失礼。ですが、あなた様におかれましても、そろそろ、昨夜の『勝利の美酒』の味を、お確かめになりたい頃合いかと思いましてね」
彼は、そう言うと、一枚の報告書を、ひらひらと、わたくしの膝の上に、落とした。
そこには、昨夜から今朝にかけての、王宮の、惨状が、実に、詳細に、そして、どこか、悪趣味なほどのユーモアを交えて、記されていた。
ユリウス王子が、いかに取り乱し、自室で暴れ狂ったか。
国王が、いかに、彼を冷たく突き放したか。
そして、王宮の貴族たちが、いかに、ヴァレンシュタイン家の顔色を窺い、右往左往しているか。
わたくしは、その報告書に、一度だけ、ざっと目を通した。
そして、興味を失ったように、それを、寝椅子の脇に、ぽい、と置いた。
「……そうですか」
その、一言だけだった。
わたくしの、その、あまりの反応の薄さに、ノアは、さすがに、少しだけ、驚いたようだった。
「……おや? あまり、お気に召しませんでしたかな。あの、傲慢な王子様が、無様に、床を這いずり回る様は、なかなかに、見応えのある、喜劇だったと思いますがね」
「別に」
わたくしは、ようやく、ゆっくりと、身を起こした。そして、大きな、大きな、欠伸を一つ。
「わたくし、他人の不幸を、肴にして、お茶を飲む趣味は、ございませんの。それに、彼が、どうなろうと、もはや、わたくしの知ったことでは、ありませんわ」
「……と、言いますと?」
「ええ」
わたくしは、アンナが淹れてくれた、ちょうど良い温度のカモミールティーを、一口、口に運んだ。
「わたくしの目的は、あくまで、『ヤコブ殿を見殺しにした』という、後味の悪い事実を、作らないこと。ただ、それだけでしたから。目的は、すでに、達成されました。彼のその後の人生など、わたくしの安眠には、何の関係もございません」
その、どこまでも、自分本位で、完結した、論理。
ノアは、その言葉を聞いて、もはや、笑うしかなかった。
ああ、やはり、このお方は、違う。
常人の、理解の範疇を、遥かに、超えている。
勝利の喜びも、復讐の快感も、このお方の前では、何の意味も持たない。
ただ、ひたすらに、静かで、平穏な、眠りだけが、このお方の、世界の、全てなのだ。
「……なるほど。さすがは、我が女王陛下。その、揺るぎなき哲学には、感服いたしました」
ノアは、芝居がかった仕草で、深く、頭を下げた。
わたくしは、そんな彼を一瞥すると、ふと、何かを思い出したように、手を、ぽん、と叩いた。
「ああ、そうだわ、ノア。危うく、忘れるところでした」
「何ですかな?」
わたくしは、にっこりと、完璧な淑女の微笑みを、彼に向けた。
しかし、その、アメジストの瞳の奥には、どこまでも冷たい、氷のような光が、宿っていた。
「わたくし、ユリウス殿下に、一つ、貸しが、ございましたわよね?」
その、静かな問いかけ。
ノアは、背筋に、ぞくりとした、甘い痺れが走るのを、感じた。
始まった。
この、女王陛下の、最も、恐ろしく、そして、最も、魅力的な、ゲームが。
「――お聞かせ願えますかな。その『貸し』とやらを」
彼の声は、期待に、震えていた。
わたくしは、優雅に、ティーカップを置くと、一枚の、美しい便箋を、取り出した。
そして、そこに、さらさらと、流麗な文字を、書きつけていく。
「ええ、もちろん」
わたくしの声は、春の小川のせせらぎのように、穏やかで、しかし、その内容は、冬の吹雪のように、冷徹だった。
「わたくしの、安眠を妨げた、その罪は、重い。とても、重いのですから」




