第36話 影の仕事
王宮の地下牢は、地上の喧騒が嘘であるかのように、重い沈黙に支配されていた。
ひやりと肌を撫でる、湿った空気。何百年もの時を吸い込んだ、古い石とカビの匂い。遠くで滴り落ちる水滴の音だけが、この、忘れ去られた空間に、かろうじて、時が流れていることを告げていた。
牢獄の最奥。
鉄格子の向こう側で、ヤコブ・グライフスワルトは、力なく壁に寄りかかり、虚ろな目で、天井の染みを数えていた。
もう、何も考えたくなかった。
栄華を誇ったギルドも、守りたかった家族の顔も、今はもう、霞のかかった、遠い世界の出来事のようだ。
三日前、彼は、絶対的な権力の前に、なすすべもなく、この暗闇へと突き落とされた。罪状は、大逆罪。ヴァレンシュタイン家の令嬢と共謀し、王国転覆を企てた、と。
馬鹿げている。自分はただ、あの、フードを被った、謎の「投資顧問」の言う通りにしただけだ。そのおかげで、傾きかけたギルドは、息を吹き返したというのに。
なぜ、こうなったのだ。
遠くから、地鳴りのような、何かが聞こえる。歓声だろうか。怒号だろうか。もはや、彼には、どうでもいいことだった。
どうせ、自分は、あと数十分後には、あの断頭台の露と消えるのだから。
(……ああ、神よ。もし、いるというのなら、なぜ、我を見捨てたもうたか)
彼が、全ての希望を諦め、ゆっくりと瞼を閉じようとした、その時だった。
コツン。
静寂の中で、その音は、やけに、はっきりと響いた。
まるで、通路の奥で、誰かが、小さな石でも蹴ったかのような。
「……?」
ヤコブは、眉をひそめた。
看守の見回りか? いや、交代の時間には、まだ早いはずだ。
彼は、鉄格子の隙間から、薄暗い通路の奥を、凝視した。
そこに、いた。
闇の中から、音もなく、すうっと、滑るように、二つの人影が、現れたのだ。
一人は、どこかで見たことのある、夜色の髪の、飄々とした男。もう一人は、全身を黒装束で包んだ、性別も分からない、影のような存在。
看守は、どうした。
通路の角には、常に二人の兵士が、立っているはずなのに。
ヤコブの全身に、緊張が走る。刺客か? 処刑を待たずして、ここで、口を封じられるのか。
夜色の髪の男――ノアは、ヤコブの牢の前で、ぴたりと足を止めた。そして、まるで、旧知の友人にでも会ったかのように、にこやかに、片手を上げた。
「やあ、ギルド長。少し、早いですがね。お迎えに上がりましたぜ」
その、あまりに場違いな、軽薄な口調。
ヤコブは、呆然として、言葉も出なかった。
「……き、貴様は、あの時の、情報屋……!」
「ご名答。さて、世間話をしている時間も、あまりない。さっさと、出てもらえますかな」
ノアは、そう言うと、隣の黒装束の部下に、顎でしゃくった。
部下は、懐から、一本の、細長い針金のようなものを取り出すと、こともなげに、牢の鍵穴へと差し込んだ。
カチリ、カチリ、と、小気味よい金属音。ほんの数秒後、重々しい音を立てていたはずの錠前が、まるでバターでも切るかのように、あっさりと、開いた。
ギイ、と、錆びついた蝶番が、悲鳴を上げる。
牢の扉が、開かれた。
ヤコブは、目の前の光景が、信じられなかった。
夢か? これは、死ぬ間際に見る、幻覚なのか?
「……何が、どうなっている。貴様ら、一体、何者なんだ」
「何者、ねえ」
ノアは、肩をすくめた。
「まあ、強いて言うなら、『女王陛下』に仕える、ただの、忠実な下僕、ですかな」
女王。その言葉に、ヤコ-ブの脳裏に、あの、フードの奥から聞こえた、冷たく、そして、絶対的な自信に満ちた、あの声が蘇る。
ノアは、呆然と立ち尽くすヤコブの腕を、ぐい、と引いた。
「さあ、行きますぜ。あまり、のんびりもしていられない。主役の出番は、もうすぐ終わりだ」
「――おい、どうした! 静かすぎるぞ!」
牢獄の、地上へと続く階段の前。
二人の看守が、異変に気づき、剣の柄に手をかけていた。
彼らは、先ほどから、地下の同僚からの、定時連絡が途絶えていることを、不審に思っていたのだ。
「誰か、様子を見てこい!」
ベテランの看守が、若い兵士に命じた、その瞬間だった。
プシュッ。
闇の中から、何かが、高速で飛来した。
それは、小さな、吹き矢の針。
若い兵士は、「うぐっ」と、短い呻き声を上げると、声もなく、その場に崩れ落ちた。眠り薬が塗られていたのだろう、穏やかな寝息を立てている。
「なっ……! 敵襲! てきしゅ……」
ベテランの看守が、警鐘を鳴らそうと、壁の鐘に手を伸ばす。
しかし、その手は、決して、鐘には届かなかった。
彼の背後、天井の梁から、音もなく、もう一人の黒装束が、逆さまに、舞い降りてきていたのだ。
まるで、蜘蛛のように。
看守の首筋に、手刀が、的確に、そして、無慈悲に、叩き込まれる。
彼は、白目をむくと、相棒の隣に、静かに、折り重なるように、倒れ込んだ。
ノアは、その完璧な仕事を、通路の角から、満足げに眺めていた。
「……上出来だ。お姫様の脚本通り、血の一滴も、流れていない」
ヤコブを抱え、闇の中を、疾風のように駆け抜ける。
その動きには、一切の、無駄がない。
どこに、罠があるのか。どこに、隠し通路があるのか。どこが、警備の死角なのか。
全てが、イザベラから与えられた、完璧な見取り図の通りだった。
彼らは、ただ、その上を、なぞっているだけだ。
やがて、一行は、一つの、古びた鉄格子の前に、たどり着いた。
その向こうからは、淀んだ水の匂いと、ドブネズミの鳴き声が、聞こえてくる。王宮の、地下を走る、秘密の下水道だ。
「さあ、ここからは、少し、匂いがきつくなりますがね。我慢してくだされ」
ノアは、ヤコブに、そう声をかけると、躊躇なく、その濁った水の流れへと、足を踏み入れた。
ヤコブは、もはや、抵抗する気力もなかった。
ただ、この、得体の知れない男たちに、その身を、委ねるしかなかった。
彼は、暗く、汚れた水路を進みながら、遠く、地上から響いてくる、割れんばかりの歓声を、聞いていた。
自分の処刑を、喜ぶ声なのだろうか。
いや、違う。
あれは、もっと、別の、何か。
まるで、新しい王の誕生でも、祝うかのような、熱狂的な、歓声。
(一体、地上で、何が起きているというのだ……)
彼の疑問に、答える者は、誰もいない。
王都の、港。
人影のない、古い倉庫の裏手。
一つの、小さな船が、夜の闇に紛れるように、静かに、係留されていた。
下水路の出口から、ずぶ濡れになった、数人の人影が、姿を現す。
ノアと、その部下たち、そして、彼らに半ば担がれるようにして、歩いてくる、ヤコブだった。
「……ようこそ、ギルド長。船の用意は、できております」
船の上から、一人の男が、声をかけた。グライフスワルト通商ギルドの、ヤコブが、最も信頼していた、腹心の部下だった。
「お、お前……! なぜ、ここに……!」
「『女王陛下』からの、お達しで。あなた様を、安全な場所へ、お連れするように、と」
ヤコブは、もはや、何も、分からなかった。
ただ、自分が、巨大な、そして、計り知れないほど、緻密な何かの、中心にいるということだけを、漠然と、感じていた。
彼は、船に乗り込みながら、最後に一度だけ、王都の方を、振り返った。
遠く、中央広場の方角が、騎士団の掲げる松明の光で、赤々と、燃えているように見えた。
そして、その光の中で、自分の処刑台が、まるで、取るに足らない、小さな舞台装置のように、寂しく、佇んでいるのが、見えた。
ノアは、岸壁に残り、静かに出港していく船を、見送っていた。
彼の部下が、隣で、尋ねる。
「……ボス。これで、よかったのでしょうか」
「何がだ?」
「ヤコブは、我々の『主』の顔を知りすぎています。生かしておけば、いずれ、禍根となるのでは……」
その言葉に、ノアは、ふっと、息を漏らした。
そして、夜空に浮かぶ、冷たい月を見上げながら、言った。
「馬鹿を言え。お姫様の脚本に、無駄な登場人物は、一人もいない。あの男にも、いずれ、また、別の『役割』が与えられるのさ」
彼は、続ける。
「それに、だ。俺たちの女王陛下は、なによりも、『後味が悪い』ことを、お嫌いになる」
その言葉は、どこか、楽しげだった。
船が、完全に、闇の中に消えた頃。
王都、中央広場では、騎士団の『演習』が、クライマックスを迎え、群衆の熱狂は、最高潮に達していた。
そして、その、全ての混乱が、まるで嘘であったかのように、収まり始めた頃。
王宮の者たちが、ようやく、異変に気づき、地下牢へと駆けつけた時には。
そこには、もぬけの殻となった牢獄と、穏やかな寝息を立てる、数名の看守たちだけが、残されているだけだった。
処刑台の上には、何もなかった。
いや、一つだけ。
一枚の、小さなカードが、夜風に、ひらひらと、舞っていた。
そこに描かれているのは、ヴァレンシュタイン家の、気高き鷲の紋章。
それは、血の一滴も流さず、この遊戯の勝者が、誰であるのかを、静かに、そして、この上なく侮蔑的に、知らしめる、女王陛下からの、冷たい、勝利宣言だった。
「……さて、と」
ノアは、一人、港の暗闇の中で、呟いた。
「そろそろ、本当の『主役』が、退屈し始める頃合いだ。報告に、戻るとしますかな」
彼は、身を翻すと、再び、音もなく、王都の闇の中へと、消えていった。




