第35話 二つの煙幕、混沌のファンファーレ
処刑当日の朝は、奇妙なほど、静かに始まった。
空は、まるで磨き上げられたサファイアのように青く澄み渡り、遠くで鳴り響く教会の鐘の音だけが、王都に、いつもと変わらぬ一日の始まりを告げていた。
しかし、その、偽りの平穏の皮膜の下では、見えざる毒が、三日間の時を経て、ついに、全身へと回りきっていた。
王都の中央広場は、すでに、異様な熱気に包まれていた。
広場の中央には、断頭台が、黒々とした、巨大な口を開けて、その日の生贄を待ち構えている。その周りを、王宮の近衛騎士たちが、銀色の鎧をきらめかせながら、蟻の子一匹通さぬ、というような、物々しい警備体制で固めている。
しかし、その鉄壁の警備網を、さらに、何重にも、何重にも、取り囲んでいるものがあった。
――人の、壁だった。
広場を埋め尽くした群衆は、もはや、ただの見物人ではなかった。
彼らの顔には、好奇心よりも、飢えと、怒りと、そして、何かが始まるのを待つ、不穏な期待の色が、濃く、浮かんでいた。
「……パンがねえ。水で薄めたスープだけだ、もう三日も」
「税金が上がるんだとよ。俺たちから、最後の銅貨一枚まで、搾り取る気だ」
「貴族様だけは、腹いっぱい食ってるってのによ」
「黙って殺されるのを、待つだけなのか、俺たちは……」
囁きは、低い、地を這うような唸りとなって、広場全体に広がっていく。それは、一匹一匹は弱くとも、群れとなれば巨大な獣をも倒す、軍隊蟻の羽音にも似ていた。
その群衆の、最も前列に近い場所に、一人の男がいた。
港湾労働者のクラウス。腕に、色褪せた碇の刺青を入れた、大男だ。彼の周りには、同じように、仕事も食料も失った、目の据わった仲間たちが、十数人、固まっている。
クラウスは、目の前の、銀色に輝く鎧の列を、飢えた狼のような目つきで睨みつけていた。
あの鎧。あの、気取った紋章。それらが、自分たちから全てを奪っている。妻の笑顔も、子供の寝顔も、温かい食事も。
(……ふざけるんじゃねえぞ)
彼の心の中で、怒りという名の、黒い獣が、檻を食い破らんばかりに、暴れていた。
今日、あの断頭台で殺されるのは、一人の商人だという。だが、クラウスには、分かっていた。あれは、見せしめだ。俺たちのような、物言う家畜に対する、王家からの、冷たい警告なのだ。
黙って従え。さもなくば、お前たちも、ああなるのだぞ、と。
冗談じゃない。
俺たちは、家畜じゃない。人間だ。
クラウスは、固く、拳を握りしめた。その指の関節が、白くなる。
隣に立つ仲間が、ごくり、と唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。
その時だった。
広場にそびえ立つ、巨大な時計塔の鐘が、重々しく、そして、無慈悲に、鳴り響き始めた。
ゴォン……ゴォン……。
正午。処刑の刻限を告げる、死への序曲。
群衆の唸りが、一瞬だけ、ぴたりと止んだ。
広場の向こうから、一つの、陰鬱な行列が、姿を現す。数名の近衛兵に囲まれ、ゆっくりと進んでくる、一台の、黒い檻の馬車。
その中には、やつれ果て、絶望に顔を歪ませた、一人の男が、力なく座っている。
グライフスワルト通商ギルドの長、ヤコブ。その人に、違いなかった。
「……来やがった」
誰かが、呟く。
その一言が、引き金だった。
今まで、かろうじて保たれていた、群衆の理性のタガが、音を立てて、外れた。
「人殺し!」「俺たちの食い物を返せ!」「王子を引きずり出せ!」
怒号が、一つの巨大な津波となって、警備兵の壁へと、叩きつけられる。
最前列の警備兵たちが、槍を構え、盾を並べる。その顔には、隠しようもない、恐怖の色が浮かんでいた。三万を超える、飢えた群衆の怒り。それを、たった数百の兵で、止められるはずがない。
「止まれ! 止まらんと、実力を行使するぞ!」
隊長らしき男が、声を張り上げるが、その声は、巨大な怒号の渦の中に、かき消されていく。
クラウスは、見た。
警備兵の一人が、恐怖のあまり、槍を持つ手が、わなわなと震えているのを。
もう、駄目だ。こいつらは、俺たちの敵じゃない。ただの、怯えた子供だ。
本当の敵は、この混乱を、高みの見物を決め込んでいる、王宮の、あの気取った連中だ。
「うおおおおおおおおっ!!」
クラウスの、魂からの咆哮が、広場に響き渡った。
彼は、もはや、何も考えられなかった。ただ、目の前の、理不尽な壁を、壊したかった。
彼は、その巨大な体で、警備兵の槍の列へと、突進しようとした。
暴動が、始まる。
血が、流される。
誰もが、そう思った、その、刹那。
――パパパパーン! パパパ、パーン!!
突如として、広場の反対側から、鼓膜を突き破るかのような、華々しいファンファーレが、鳴り響いた。
それは、あまりに場違いで、あまりに荘厳で、あまりに力強い音色だった。
広場の、全ての音が、一瞬にして、止まった。
怒号も、悲鳴も、警備兵の号令も。全ての人間が、まるで魔法にでもかかったかのように、音のする方へと、その視線を向けた。
そこに、いた。
広場の北門から、太陽の光を背に浴びて、ゆっくりと、しかし、圧倒的な威圧感を放ちながら、一団の騎士たちが、姿を現したのだ。
先頭に立つのは、燃えるような赤い髪を、兜の下からなびかせた、一人の騎士。
その背後には、真紅のマントを、誇らしげにはためかせた、百を超える騎士たちが、馬上で、完璧な、一糸乱れぬ陣形を組んでいる。
彼らが掲げる旗には、気高き鷲の紋章。ヴァレンシュタイン家の、そして、王都民が、最も愛し、最も尊敬する、カイン・アシュフィールドとその部隊だった。
広場が、どよめいた。
今度は、怒りではない。純粋な、驚きと、困惑と、そして、かすかな期待が入り混じった、どよめきだった。
一体、何が、始まるというのだ。
先頭に立つカインは、馬を止めると、その手に持っていた剣を、ゆっくりと、天高く掲げた。
磨き上げられた刃が、太陽の光を反射し、まるで、天からの啓示のように、鋭い光を放つ。
彼は、その、鍛え上げられた声を、魔力で増幅させ、広場の、隅々にまで、響き渡らせた。
「皆の者、静まれッ!!」
その声には、有無を言わせぬ、絶対的な力が宿っていた。
三万の群衆が、水を打ったように、静まり返る。
「我らは、王立騎士団、第三特務部隊! この度、ヴァレンシュタイン公爵家、及び、王家の特別許可を得て、これより、この場にて、我が国の威信と、民の安寧を祈念するための、『特別公開演習』を、執り行うッ!!」
演習。
その一言に、誰もが、耳を疑った。
処刑の、この、一触即発の場で、演習だと?
カインは、群衆の困惑など、意にも介さなかった。
彼は、ただ、その剣を、振り下ろす。それが、合図だった。
次の瞬間。
百を超える騎士たちが、一斉に、その剣を抜き放った。
鋼の刃が、空を切り裂く、鋭い音が、百重に重なり、一つの、荘厳なハーモニーとなって、広場に響き渡る。
彼らは、馬を巧みに操り、複雑で、しかし、息を呑むほどに美しい陣形を、次々と展開していく。剣と剣が、火花を散らしながら、演武を繰り広げる。それは、もはや、ただの訓練ではない。一つの、完成された、芸術だった。
広場の空気が、変わった。
つい先ほどまで、この場所を支配していた、飢えと、怒りと、憎悪の、どろりとした空気は、跡形もなく吹き飛ばされていた。
代わりに、そこを満たしていたのは、目の前の、圧倒的なスペクタクルに対する、純粋な、熱狂だった。
「す……すげえ……」
クラウスは、警備兵に掴みかかろうとしていた、その拳を、下ろすのも忘れて、呆然と、その光景を見つめていた。
「これが、アシュフィールド隊……! 俺たちの、英雄だ!」
誰かが叫ぶ。
それを皮切りに、広場のあちこちから、割れんばかりの、歓声が上がった。
「カイン様ーッ!」「そうだ、やっちまえ!」「王家の腑抜けどもに、本物の騎士の力を見せてやれ!」
怒りの矛先は、もはや、どこにもなかった。
市民の心は、完全に、この、突如として現れた、真紅の英雄たちに、奪われてしまっていた。
警備兵たちも、近衛騎士たちも、そして、囚人護送の任についていた兵士たちでさえも、目の前の、信じがたい光景に、ただ、呆然と立ち尽くすばかりだった。
その、全ての光景を。
広場を見下ろす、時計塔の、最も高い尖塔の上から、冷ややかに見下ろしている、二つの影があった。
「……くくく。いやはや、見事なものですな」
ノアは、腕を組みながら、心の底から、楽しそうに、笑っていた。
「怒号を、歓声で塗りつぶす、か。あの、単純な忠犬くんも、なかなか、良い役者だ。お姫様の脚本は、実に、悪趣味で、最高に、面白い」
彼の隣に控えていた、黒装束の部下が、静かに、尋ねた。
「……ボス。そろそろ、時間です」
「ああ、分かっている」
ノアは、眼下の、怒りと熱狂が渦巻く、完璧なカオスを見下ろした。
広場にいる、全ての人間が、騎士団の演習に、完全に、釘付けになっている。
牢獄の警備など、もはや、誰も、気にしてはいないだろう。
最高の、煙幕。
これ以上の、舞台装置はない。
ノアは、その口元に、三日月のような、冷たい笑みを浮かべた。
「さて、観劇は、ここまでだ」
彼は、身を翻した。その動きは、重力を感じさせない、猫のように、しなやかだった。
「――ここからが、俺たちの、仕事の時間だ」
その言葉を最後に、彼らは、音もなく、影の中へと、溶けるように、消えていった。




