第34話 それぞれの広場へ
王都の中央広場は、すでに、異様な熱気に包まれていた。
空は、皮肉なほどに青く澄み渡り、広場の中央にそびえ立つ、巨大な時計塔の針が、破滅の時を、刻一刻と、無慈悲に刻んでいる。
広場の中央には、断頭台が、黒々とした、巨大な口を開けて、その日の生贄を待ち構えていた。その周りを、王宮の近衛騎士たちが、銀色の鎧をきらめかせながら、蟻の子一匹通さぬ、というような、物々しい警備体制で固めている。
しかし、その鉄壁の警備網を、さらに、何重にも、何重にも、取り囲んでいるものがあった。
――人の、壁だった。
広場を埋め尽くした群衆は、もはや、ただの見物人ではなかった。
彼らの顔には、好奇心よりも、飢えと、怒りと、そして、何かが始まるのを待つ、不穏な期待の色が、濃く、浮かんでいた。
「……ひどい有様だな」
広場を見下ろす、建物の屋根の上。
ノアは、腕を組みながら、眼下の光景に、小さくため息をついた。彼の隣には、彼の部下である、影のような男たちが、数名、控えている。
「計画通り、と言えば、計画通りですがね。ここまで、市民の不満が膨れ上がるとは、少し、予想以上でしたぜ」
部下の一人が、感心したような、あるいは、恐れをなしたような声で言う。
ノアは、答えない。
彼の銀の瞳は、群衆の中の、一点を、じっと見つめていた。
それは、ギルドの仲間たちに担がれるようにして、広場の中央へと進み出ようとしている、一人の男の姿だった。クラウス。先日、港で、仲間たちに檄を飛ばしていた、あの、腕に碇の刺青を入れた、大男だ。
彼の瞳は、燃えていた。
王家への、そして、この理不尽な世界への、怒りの炎で。
「……火種は、十分に撒かれた。あとは、誰が、それに、最初に火をつけるか、だ」
ノアは、独り言のように呟いた。
「さて、お姫様の脚本では、主役は、まだ登場しないはずだが……。アドリブ好きな役者が、しゃしゃり出てこなければ、いいんだがね」
彼は、まるで、これから始まる、最高の芝居の開幕を待つ、特等席の観客のように、その口元に、楽しげな笑みを浮かべた。
◇
同じ頃。
広場の、北側。
カイン・アシュフィールドは、馬上で、その手に持つ、鋼の兜の冷たさを、感じていた。
彼の背後には、彼が率いる、百名を超える騎士たちが、完璧な陣形を組み、静かに、その時を待っている。彼らの真紅のマントが、風にはためき、まるで、血の海のようだった。
「……隊長。本当に、やるんですかい」
隣に馬を並べた、副長のラインハルトが、低い声で尋ねた。彼の顔には、未だ、葛藤の色が、深く刻まれている。
「ああ、やるさ」
カインの答えは、短く、そして、迷いがなかった。
「だがな、カイン。あれを見ろ」
ラインハルトは、顎で、広場を埋め尽くす群衆を示した。「あれは、もはや、ただの市民じゃない。飢えた、狼の群れだ。俺たちが、ここで『演習』など始めれば、それが、引き金になるかもしれん。大規模な、暴動のな」
「分かっている」
カインは、群衆の、その、飢えた瞳を、まっすぐに見返した。
「だからこそ、やるんだ。俺たちの剣が、ただの、王家の人殺しの道具じゃないってことを、彼らに、見せつけるために」
彼は、ゆっくりと、兜を被った。
鉄の面頬が、彼の表情を隠す。しかし、その奥にある、翠の瞳は、かつてないほど、澄み切った、決意の光を宿していた。
(イザベラ様……)
彼は、心の中で、自らの主の名を呼んだ。
(あなたの、真意は、まだ、わたくしには分からない。けれど、信じています。あなたの選ぶ道が、必ず、この国を、真の光へと導く道であることを。だから、わたくしは、あなたのための、ただの、一本の剣になる)
彼は、鞘から、その愛剣を、ゆっくりと引き抜いた。
磨き上げられた刃が、太陽の光を反射し、鋭い光を放つ。
「ラインハルトさん」
カインは、前を向いたまま、言った。
「もし、俺が、間違っていると思うのなら、あんたは、ここで、俺を斬ってもいい。だが、もし、少しでも、俺の信じる正義に、共感してくれるのなら……」
彼は、その剣を、天高く、掲げた。
「――わたくしと共に、地獄の底まで、付き合ってもらおうか!」
その、魂からの叫び。
ラインハルトは、一瞬、息を呑んだ。そして、やがて、諦めたように、しかし、どこか、吹っ切れたように、大きく、息を吐いた。
彼は、何も言わずに、自らの剣を、同じように、引き抜いた。
その行動が、彼の、答えだった。
彼に続くように、背後の騎士たちが、次々と、その剣を、抜き放っていく。
百を超える鋼の刃が、天を突き、陽光を浴びて、きらきらと輝く。
それは、まるで、これから始まる、聖戦の幕開けを告げる、光の森のようだった。
◇
そして、王宮の一室。
ユリウス王子は、最後の身支度を終えようとしていた。
側近のロズワールが、彼の肩に、純白の、金の刺繍が施された、儀礼用のマントをかける。
「殿下。群衆の数は、すでに、三万を超えた、との報告が……。警備の兵士たちも、動揺しております。ここは、一度、処刑を延期し、民の不満を、先に、宥めるべきかと……」
ロズワールは、最後の諫言を、試みた。
しかし、ユリウスは、彼の言葉を、まるで、羽虫の羽音のように、聞き流した。
「何を、恐れている、ロズワール」
彼は、心底、つまらなそうに言った。
「三万匹の、蟻が集まったところで、ライオンの敵ではないだろう? むしろ、好都合だ。より多くの愚民どもに、わたくしの威光と、わたくしに逆らう者の、哀れな末路を、見せつけてやることができる」
彼は、ロズワールの手から、権威の象徴である、白銀の指揮杖を、受け取った。
その、冷たい感触が、彼の心を、絶対的な自信で満たしていく。
全ては、完璧だ。
舞台は整った。役者も、揃った。
あとは、主役である、このわたくしが、登場するだけ。
(待っているがいい、イザベラ)
彼は、心の中で、あの、孤高の少女に、語りかけた。
(今頃、お前は、自室で、震えていることだろう。自分の駒が、自分のせいで、無残に殺されていく様を、ただ、見ていることしかできない、その無力さに。だが、それも、もうすぐ終わる。わたくしが、この混乱を、鮮やかに収めてみせる。そして、お前を、救い出してやろう。この、優しい、わたくしの腕の中へ、な)
その、甘美な妄想。
その、致命的な、勘違い。
彼は、ついに、部屋の扉へと、足を向けた。
「さあ、行こうか、ロズワワー。祝祭の、始まりだ」
「……はっ」
ロズワールは、力なく、頷いた。
彼の目には、もう、何の光も宿っていなかった。ただ、これから、自らが仕える主君と共に、避けようのない破滅へと、歩んでいくしかない、という、深い、深い、絶望の色だけが、浮かんでいた。
王都、中央広場。
処刑の時まで、あと、わずか。
市民の怒り、騎士の正義、そして、支配者の驕り。
それぞれの思惑が、一つの場所へと、収束していく。
誰もが、まだ、気づいていない。
この、巨大な、混沌の舞台の、本当の脚本家が、一体、誰であるのかを。
そして、その脚本家が、今、何を思い、どこで、静かに、その時を待っているのかを。
時計塔の鐘が、重々しく、鳴り響き始めた。
それは、一つの時代の終わりと、そして、壮大な「お掃除」の、始まりを告げる、合図の鐘だった。




