第33話 支配者の朝
王宮の一室は、静寂に満ちていた。
磨き上げられた黒檀の床は、鏡のように、天井の豪奢なシャンデリアを映し出している。壁に掛けられたタペストリーには、初代国王の英雄譚が、金糸銀糸で、細密に織り込まれていた。
空気は、高価な香油の香りと、ほんのりとした革の匂いが混じり合い、この部屋の主が持つ、揺るぎない権威を、無言のうちに物語っている。
ユリウス・テオ・ド・ラ・ファイエットは、その部屋の中心に、ただ一人、立っていた。
窓から差し込む、清々しい朝の光が、彼の完璧な金髪を、まるで後光のように、きらきらと輝かせている。彼は、寸分の隙もなく着こなした純白の軍服の胸元を飾り付ける、サファイアのブローチの位置を、指先で、ミリ単位で調整していた。
「……報告は、以上でございます、殿下」
部屋の隅に控えていた側近の男、ロズワール侯爵が、恭しく頭を下げた。彼の声は、緊張で、わずかに上ずっていた。
ユリウスは、鏡に映る自分の姿から、一度も視線を外すことなく、尋ねた。その声は、朝の湖面のように、穏やかで、静かだった。
「……それで? 街の、ネズミどもは、まだ、騒いでいるのかね」
「はっ……。その、市場での食料不足は、未だ解消されておらず、市民の間に、不満の声が高まっている、とのことで……。一部の者は、中央広場へと向かい、何やら、不穏な動きを見せている、とも……」
ロズワールは、言葉を選びながら、慎重に報告する。彼の額には、脂汗が滲んでいた。
「ふん」
ユリウスは、鼻で笑った。
「愚民どもが、腹を空かせて、騒いでいるだけだろう。パンがなければ、菓子でも食わせておけ。すぐに、静かになる」
彼の声には、一片の懸念もなかった。それは、絶対的な支配者が、自らの足元でうごめく、取るに足らない虫けらに対して抱く、当然の侮蔑だった。
「ですが、殿下! その、噂が……! 王家が、不当に、民から食料を奪っている、などという、根も葉もない噂が、彼らの怒りを……!」
ロズワールは、必死に、ことの重大さを訴えようとする。
しかし、ユリウスは、ようやく鏡から視線を外し、ゆっくりと、彼の方へと振り向いた。
その空色の瞳は、美しいが、何の感情も映していなかった。まるで、最高級のガラス玉のようだった。
「ロズワール」
彼の声は、静かだったが、部屋の空気を、一瞬で、氷点下へと凍らせた。
「君は、ライオンが、蟻の行列を、気にすると思うかね?」
「……え?」
「彼らが、何を考え、何を囁き合おうと、どうでもいいことだ。彼らは、ただの、背景だ。この、壮大な舞台を彩るための、ただの、エキストラに過ぎん」
ユリウスは、ゆっくりと、部屋の中を歩き始めた。その足音だけが、静寂の中で、こつ、こつ、と響く。
「重要なのは、ただ一つ。この舞台の、主役が、誰であるか、ということだ」
彼は、窓のそばに立つと、眼下に広がる王都の景色を見下ろした。遠く、中央広場の方に、黒い蟻の行列のような、人の群れが見える。
「あの女は、まだ、動かんのかね」
「……はっ。ヴァレンシュタイン嬢は、ここ三日間、研究所に籠りきりのようで、一切の、動きは……」
「そうか」
ユリウスの口元に、満足げな、そして、どこか、退屈そうな笑みが浮かんだ。
「良い子だ。ようやく、自分の立場というものを、理解し始めたらしい」
彼にとって、この王都の混乱すらも、全ては、計算のうちだった。
いや、むしろ、望んだ展開ですらあった。
市民が騒げば騒ぐほど、社会が不安定になればなるほど、イザベラの孤立は深まる。彼女が、頼れるものは、他に誰もいなくなる。
そして、追い詰められた彼女は、必ず、このわたくしの元へ、救いを求めて、やってくるはずなのだ。
ひざまずき、涙を流し、「どうか、お助けください、ユリウス様」と、わたくしの足元に、すがりついてくる。
あの、孤高で、誰にも屈しなかった、美しい人形が、ついに、わたくしの前で、完全に、壊れる。
その瞬間を、想像するだけで、ユリウスの背筋は、甘美な悦びに、ぞくぞくと震えた。
今日の処刑は、そのための、最後の仕上げだ。
あの商人の首が、断頭台から転がり落ちる時、イザベラの、最後の、か細いプライドも、一緒に、砕け散るのだ。
「ロズワール。君は、心配しすぎだ」
ユリウスは、振り向くと、怯える側近に、慈悲深い君主のような、完璧な笑みを向けた。
「全ては、わたくしの、脚本通りに進んでいる。今日の午後には、全てが、解決するだろう。混乱は収まり、民は、再び、王家の威光の前にひれ伏す。そして……」
彼は、指先で、窓ガラスに付着した、小さな埃を、優雅に、拭った。
「わたくしの鳥籠には、一羽の、美しいカナリアが、戻ってくる。今度は、もう二度と、逃げ出そうなどとは、考えない、従順で、賢いカナリアが、ね」
その、絶対的な自信。
その、完璧なまでの、自己陶酔。
彼は、気づいていなかった。
自分が、ライオンだと思い込んでいる、その足元で、ただの蟻だと思っていた者たちが、静かに、そして、確実に、その土台を、食い荒らし始めているということに。
そして、彼が、鳥籠に戻ってくると思い込んでいるカナリアが、実は、その鳥籠ごと、この世界そのものを、破壊しようとしている、恐るべき猛禽であったということに。
「殿下……。ですが、騎士団の動きも、少し、気になります。アシュフィールド隊が、今朝から、中央広場周辺で、何やら、不穏な動きを……」
ロズワールが、最後の懸念を、恐る恐る口にする。
「カインかね?」
ユリウスは、心底、つまらなそうに、鼻を鳴らした。
「あの、筋肉だけの、犬ころか。放っておけ。どうせ、市民の暴発を恐れて、警備を強化しているだけだろう。あの男には、それくらいの、犬としての分別は、ある」
彼は、もはや、その話題に、一切の興味を示さなかった。
彼の頭の中は、これから訪れるであろう、イザベラとの再会の、甘美な妄想で、満たされていた。
「さて、ロズワール。そろそろ、わたくしも、広場へ向かうとしよう」
ユリウスは、純白の手袋を、ゆっくりと、その手にはめながら、言った。
「主役が、舞台に上がる時間だ。今日の処刑は、わたくしが、この国の、唯一の支配者であることを、改めて、全ての愚民どもに、そして、あの、愚かな女に、知らしめるための、祝祭なのだからな」
その、空色の瞳には、一片の疑いも、曇りもない。
それは、自らが作り上げた、完璧な世界の中で、永遠に王であり続けると信じて疑わない、支配者の、驕りに満ちた光だった。
そして、それこそが、彼の、致命的な、過ちだった。
「準備は、よろしいか、ロズワール」
「……はっ。いつでも、殿下の御心のままに」
ロズワールは、深く、頭を下げた。
その、下がった顔に、どのような絶望と諦観の色が浮かんでいたのか、ユリウスが、知る由もなかった。




