第32話 王都の朝、パンが消えた
処刑当日の朝は、奇妙なほど、静かに始まった。
空は、まるで磨き上げられたサファイアのように青く澄み渡り、遠くで鳴り響く教会の鐘の音だけが、王都に、いつもと変わらぬ一日の始まりを告げていた。
しかし、その、偽りの平穏の皮膜の下では、見えざる毒が、三日間の時を経て、ついに、全身へと回りきっていた。
王都で一番と評判のパン屋「金の麦の穂」。
その店主であるオットーは、店の前で、腕を組みながら、途方に暮れていた。
いつもならば、焼きたてのパンの、あの香ばしく、甘い匂いが、道行く人々の鼻をくすぐり、空腹を優しく刺激する時間。しかし、今日の彼の店から漂うのは、ただ、冷たい石窯の匂いと、彼の焦燥の匂いだけだった。
棚は、空っぽだった。
昨日の午後から、ぱったりと、グライフスワルト通商ギルドからの小麦粉の配達が、途絶えたのだ。最初は、ただの遅延だと思っていた。しかし、他の小規模な製粉所にも問い合わせてみたが、答えは同じ。「申し訳ないが、親方。どういうわけか、うちにも、今朝は粉が一袋も入ってこなくてね」。
「親方、どうします? もう、店の前には、お客さんが並び始めてやすぜ」
若い弟子が、店の奥から、不安そうな顔で尋ねる。
オットーは、ガラス窓越しに、外の様子を窺った。そこには、いつもより、明らかに多い数の人々が、それぞれの買い物かごを手に、落ち着かない様子で列を作っていた。彼らの顔には、いつものような、焼きたてのパンを待つ、和やかな期待の色はない。ただ、ひりつくような、焦りの色だけが、浮かんでいた。
「……仕方ない」
オットーは、重々しく、ため息をついた。「今日は、店を閉める。そう貼り紙を出せ。パンがないのだから、どうしようもない」
「そ、そんな……! お客さんたち、怒りやすぜ!」
「怒らせておけ! 俺だって、怒りたい気分だ! 一体、この街は、どうなっちまったんだ……!」
オットーの怒声は、空っぽの店内に、虚しく響いた。
その頃、王都の中央市場では、さらに深刻な事態が、静かに進行していた。
主婦のエルマは、二人の幼い子供の手を引きながら、人の波をかき分けていた。彼女の目的は、八百屋のマーサおばあさんの店。いつもなら、瑞々しい野菜が、山のように積まれているはずの場所だ。
しかし、彼女がたどり着いた時、そこに広がっていたのは、信じがたい光景だった。
店先の台は、ほとんど、もぬけの殻。残っているのは、少し萎びたカブが数個と、泥のついたジャガイモが、籠の底に寂しく転がっているだけ。
「まあ、マーサおばさん! これはいったい、どういうことなの!? 野菜は、これだけ?」
エルマの声は、彼女自身が驚くほど、切羽詰まっていた。
野菜売りのマーサは、皺だらけの顔を、さらに深く顰めながら、答えた。
「聞かないでおくれよ、エルマ。今朝、市場に来てみたら、もうこの有様さ。どこの農家も、荷を運んでこないんだと。何でも、王家が、とんでもない税金をかけるっていう噂が流れててね。みんな、品物を出すのを、怖がってるのさ」
「税金ですって!?」
その言葉に、周りで買い物をしていた他の主婦たちが、一斉に振り返った。
「聞いたわよ、私も! 貴族様たちだけが、こっそり、良いものを買い占めているんですって!」
「ひどいわ! 私たちの食べるものが、なくなってしまうじゃないの!」
不安は、瞬く間に、伝染していく。
エルマの腕の中で、下の子供が、空腹を訴えるように、ぐずり始めた。「ママ、おなかすいた……」
その、か細い声が、エルマの心の中にある、最後の理性の糸を、ぷつりと断ち切った。
(このままでは、この子たちに、今夜、温かいスープさえ、飲ませてあげられないかもしれない)
その恐怖は、王家への、漠然とした不満を、明確な「怒り」へと変えた。
彼女だけではない。市場にいた、全ての母親が、全ての父親が、同じ、黒い感情を、その胸に宿し始めていた。
*
王都の港は、不気味なほど、静まり返っていた。
いつもならば、荷揚げ用のクレーンが軋む音や、船乗りたちの威勢のいい怒号が響き渡っているはずの場所が、まるで、巨大な墓場のように、しんと静まり返っている。
沖には、何隻もの貨物船が、まるで置き去りにされたかのように、ただ、ぷかぷかと浮かんでいるだけだった。
波止場の隅で、数人の港湾労働者たちが、手慰みに、サイコロを転がしながら、不満をぶちまけていた。
「ちくしょう、どうなってやがるんだ。もう、三日も、仕事らしい仕事がありゃしねえ」
腕に、碇の刺青を入れた、大男のクラウスが、地面に悪態をつく。
「仕方ねえだろ、クラウス。一番でかいクレーンが、『故障』してるんだからよ。あれが直らなきゃ、沖の船の荷物は、降ろせねえ」
年配の男が、諦めたように言った。
「故障だぁ? ふざけるんじゃねえ! あれは、先週、点検したばかりじゃねえか!」
クラウスは、立ち上がると、港の管理者たちがいる事務所の方を、忌々しげに睨みつけた。
「どうせ、お偉いさんからの、命令なんだろ。貴族様のお偉い船だけは、夜中にこっそり、荷を降ろしてるって噂だぜ。俺たち平民には、食い物を渡さねえって、魂胆なんだ」
「……本当かよ、そりゃ」
「ああ、本当だとも。このままじゃ、俺たちの家族も、飢え死にだ。今日の、中央広場での処刑とやらも、俺たちへの、見せしめなんだとよ」
処刑。
その言葉が、男たちの間に、重く、のしかかる。
それは、もはや、他人事ではなかった。今日、処刑台に送られるのは、一人の商人かもしれない。だが、明日は、自分たちの番かもしれないのだ。
クラウスは、唾を吐き捨てると、仲間たちに、低い声で言った。
「……おい、お前ら。少し、様子を見に行かねえか」
「様子って……どこをだよ」
「決まってんだろ」
クラウスは、王都の中心、王宮がそびえ立つ方角を、顎でしゃくった。
「中央広場だ。今日、何が起こるのか、この目で、しっかりと、見てやろうじゃねえか。俺たちが、ただ黙って、殺されるだけの、家畜じゃねえってことを、あいつらに、教えてやるために、な」
その声に、他の男たちも、無言で、しかし、力強く、頷いた。
彼らは、サイコロを懐にしまうと、一人、また一人と、立ち上がっていく。
同じ頃。
王都の、あちこちで。
パン屋の前で、市場で、裏通りの酒場で。
食料を失い、不安と怒りに満ちた人々が、まるで、見えざる磁石に引き寄せられるかのように、自然発生的に、一つの場所を目指し始めていた。
その群れは、最初は、小さな小川の流れだった。
しかし、大通りに出るたびに、別の流れと合流し、徐々に、その勢いを増していく。
やがて、それは、王宮へと向かう、巨大な、人の河となっていた。
*
王都の警備兵詰所。
二人の若い警備兵が、窓の外の、その、異様な光景を、青ざめた顔で見つめていた。
「……おい、見たかよ、あの人の数。あれは、ただの、処刑の見物人じゃねえぞ」
「ああ、分かってる。あいつらの目、見たか? 飢えた、狼の目だ。俺たちを、食い殺しそうな……」
先輩の兵士が、ごくりと、唾を飲み込む。
「……まずいな。これは、本当に、まずいことになるかもしれん」
「隊長に、報告すべきじゃ……」
「馬鹿野郎! 報告して、どうなる! 俺たちだけで、あの群衆を、止められるとでも思うのか!」
後輩の兵士は、言葉に詰まった。
彼の視線の先、人の河は、今もなお、その勢いを増し続けている。その、不気味なうねりを見つめながら、彼は、震える声で、呟いた。
「……もう、これは、ただの、パンの話じゃ、なくなってる……」




