第30話 正義への昇華
静寂が、第三訓練場を支配していた。
先ほどまでの、剣戟の音も、騎士たちの荒い息遣いも、今はもうない。ただ、ノアが放った、恐るべき言葉だけが、カイン・アシュフィールドの頭の中で、木霊し続けていた。
『――さて、どうしますかな? 貴女の『一番の剣』たる、あなた様』
カインは、拳を、強く、強く、握りしめた。爪が、掌に食い込むほどの力で。
反逆。
その一言が、彼の騎士としての全てを、根底から揺さぶっていた。
幼い頃から、叩き込まれてきた教え。騎士は、王家に忠誠を誓い、国の秩序を守るための、剣であり、盾である、と。その誓いを破ることは、自らの魂を、名誉を、捨てることに等しい。
(……だが)
彼の脳裏に、別の光景が、鮮やかに蘇る。
血と、絶望の中で、自分を包み込んだ、あの、黄金の光。
全てを再生し、自分に、新しい命と、力を与えてくれた、あの、神々しいまでの奇跡。
そして、あの人の、瞳。
全てを諦めたような、深い悲しみを湛えた、紫の瞳。
(あの人が、間違っているはずがない)
「……悩むお姿も、絵になりますな」
ノアが、まるで面白い芝居でも見ているかのように、軽薄な口調で言った。
「ですが、あまり、時間はございませんぜ? あなたが、ここで否と答えれば、お姫様は、別の『剣』をお探しになるだけのこと。もっとも、あなたほど、切れ味の良い剣は、そうそう見つからないでしょうがね」
その、挑発的な言葉。
それは、カインの心に、小さな火を灯した。
「……黙れ」
低い、唸るような声が、カインの口から漏れた。
「貴様のような男に、あの人の、お心の何が分かるというのだ」
「おや、手厳しい。ですが、俺には分かりますぜ。あの人が、今、たった一人で、どれほど重いものを背負い、心を痛めているか。この国の、誰も気づかぬ腐敗を、一人で見つめ、絶望しているか」
ノアの言葉は、毒のように、しかし、甘い蜜のように、カインの心へと染み込んでいく。
「この指令は、反逆ではございません。いえ、もしかしたら、そうかもしれませんな。ですが、それは、腐敗した『王家』という名のシステムに対する反逆であって、この国が本来持つべき『正義』に対する、裏切りでは、決してない」
正義。
その言葉が、カインの心の中で、大きく、大きく、反響した。
そうだ。
わたくしが誓ったのは、国王という個人ではない。この国の、民の、そして、正義そのものを、守るということではなかったか。
今の王家は、本当に、その正義を体現していると言えるのか?
何の罪もない商人を、見せしめのために処刑しようとする、あの王子が?
そして、イザベラ様は。
彼女は、その、失われた正義を、ただ、取り戻そうとしているだけなのではないか。
その、あまりに重く、孤独な戦いを、誰にも理解されず、たった一人で、続けているのではないか。
だから、あの瞳は、いつも、あれほどまでに、悲しいのだ。
(……ああ、そうか。わたくしは、勘違いをしていたのだ)
カインの中で、霧が、晴れていく。
彼女が、わたくしに力を与えたのは、ただ、彼女の剣となるため。彼女の、その聖なる戦いを、支えるための、剣となるために。
ならば、わたくしが進むべき道は、初めから、一つしかなかった。
彼は、ゆっくりと、顔を上げた。
その翠の瞳から、もはや、一切の迷いは、消え去っていた。
そこにあるのは、鋼のような、揺るぎない、覚悟の光だけ。
「……その指令、お受けしよう」
カインの声は、驚くほど、静かだった。
「ですが、一つだけ、訂正させていただく。これは、反逆などではない。あの人が、この国に、真の光を取り戻すための、聖戦だ」
その、あまりにも純粋で、まっすぐな答え。
ノアは、一瞬だけ、その銀の瞳を見開いた。そして、すぐに、その口元に、満足げな、そして、どこか、憐れむような笑みを、深く刻んだ。
「――ええ、ええ。その通りですとも、騎士様」
カインは、もはや、ノアを見てはいなかった。
彼は、その視線を、夕日で赤く染まる、王宮の方角へと、まっすぐに、向けていた。
「我が主に、お伝えしろ」
その声は、静かで、しかし、訓練場にいる、全ての者の耳に、届くほど、はっきりと、響き渡った。
「――あなたの剣は、ここに。いつでも、その御心のままに、振るわれる準備は、できております、と」




