第26話 最初の駒、最初の囁き
王立古代文献研究所の地下深く。
わたくしが、ノアに「女王」として、その魂の忠誠を捧げられた、あの瞬間。
けれど、わたくしたちの間に、感傷的な沈黙が流れる時間は、一秒たりとも存在しなかった。わたくしには、そのような無駄な時間はないのだから。
「よろしい。ならば、わたくしの『手足』たる、あなたに、最初の仕事を与えますわ」
わたくしは、跪いたままの彼を見下ろし、淡々と、しかし、絶対的な命令として、最初の言葉を紡いだ。まるで、食後のデザートを注文するかのように、ごく自然に。
ノアは、顔を上げた。その銀の瞳には、もはや驚きはなく、ただ、これから始まる壮大な遊戯への、純粋な期待だけが、煌々と輝いている。
「――何なりと、我が女王陛下」
「三日後、王都は、混乱の渦に叩き込まねばなりません。ですが、パニックは不要ですわ。パニックは、人の理性を奪い、予測不能な行動を誘発する。それは、わたくしの完璧な脚本にとっては、ノイズでしかありませんの」
わたくしは、指を一本、すっと立てた。
「わたくしたちが、市民の心に植え付けるべきは、恐怖ではありません。**『不安』**ですわ。じわじわと心を蝕む、低い、けれど、確かな不安。それが、やがて王家への『不満』へと熟成していくのです」
「……なんと、悪趣味な。それでいて、最高に効果的なやり方だ」
ノアが、楽しそうに喉を鳴らす。
「まず、あなたには、王都の商人たちの間に、一つの『噂』を流していただきます」
わたくしは、処刑当日までの三日間で、王都の経済を緩やかに麻痺させるための、具体的で、緻密な情報操作の計画を、彼に語って聞かせた。
その声は、平坦で、感情がなく、まるで、美しいが、決して間違えることのない、機械のようだった。
*
その日の午後。
王都の商人ギルドが立ち並ぶ一角は、表向きは、いつもと変わらない活気に満ちていた。しかし、その水面下では、一つの毒が、音もなく、広がり始めていた。
「――これは、ここだけの話なんだがね、ヤコブ殿」
グライフスワルト通商ギルドの長、ヤコブの執務室。ノアは、昨日までの飄々とした情報屋の顔をかなぐり捨て、今は、深刻な顔つきの、信頼できる同業者という仮面を被っていた。
彼は、声を潜め、まるで、とんでもない秘密を打ち明けるかのように、ヤコブの耳へと囁きかける。
「どうやら、王家は、近々、全ての食料品に、新たな税を課すおつもりらしい。それも、今までの比ではない、えげつない額を、だ。先日、あんたが捕まったのも、その見せしめだという噂だぜ」
「な……なんだと!?」
ヤコブの顔から、血の気が引く。彼は、先日、目の前で奇跡を語った「投資顧問」――その背後にいる、謎の主の存在を思い出し、ノアの言葉が、神の神託であるかのように、絶対の真実だと信じ込んだ。
「……どうすればいい。わしは、どうすれば……」
「まあ、落ち着きなされ。これは、我らが『主』からの、ささやかな助言でもある。来るべき『飢え』に備え、今のうちに、倉庫の穀物を、確保しておくべきだ、とね。市場に流す分は、少しだけ……ほんの少しだけ、調整した方が、賢明かもしれんぜ?」
ノアは、そう言って、ヤコブの肩を、ぽん、と軽く叩いた。
同じ頃、王都の、別の場所。
薄暗い酒場では、ノアは、王家に不満を持つ、中小の商人たちを集めていた。ここでは、彼の口調は、より扇動的になる。
「聞いたか、お前ら! 俺たちの汗と涙の結晶を、また、王家の連中が吸い上げようとしてるぜ! 小麦に、野菜に、しまいには、俺たちが飲む、このエールにまで、税金をかけるつもりらしい! このまま、黙って、むしり取られ続けるのかい?」
商人たちの間から、怒号と、グラスを叩きつける音が響く。
ノアは、その光景を、満足げに眺めていた。
さらに、その日の夕刻。
王都の港では、ノアは、港湾労働者をまとめる、顔役の男と、何事か言葉を交わしていた。小さな金貨の袋が、闇から闇へと手渡される。
「――なるほどな。近頃、荷揚げ用のクレーンの調子が悪い、と。それで、いくつかの荷船の荷下ろしが、二、三日、遅れちまう、と。そりゃあ、仕方ねえや。機械は、正直だからな」
顔役の男が、にやりと笑う。
全てが、イザベラの描いた脚本通りに、着々と、進んでいた。
*
翌朝。
王都で一番と評判のパン屋「金の麦の穂」の店主、オットーは、店の前で、腕を組みながら、しきりに首を傾げていた。
「……おかしいな」
毎朝、日の出と共に届けられるはずの、グライフスワルト通商ギルドからの、最高級の小麦粉が、まだ、届かない。これほど遅れるのは、ここ数年で、初めてのことだった。
「親方、どうします? このままだと、朝一番のパンが、焼けやせんぜ」
若い弟子が、心配そうに尋ねる。
「ううむ……。仕方ない、もう少しだけ待ってみるか。まったく、ヤコブのところの連中も、たるんでるんじゃないのか」
オットーは、悪態をつきながらも、胸の中に、言いようのない、小さな不安の染みが、じわりと広がっていくのを感じていた。
そして、同じ頃。
市場で買い物をしていた、一人の主婦が、野菜売りの老婆の前で、眉をひそめていた。
「まあ、マーサおばさん! また、キャベツが値上がりしているじゃないの! たしか、昨日よりも、銅貨一枚、高いわよ?」
野菜売りのマーサは、困ったように、皺だらけの顔で、肩をすくめた。
「聞かないでおくれよ、奥さん。なんだか、昨日から、何もかもが、訳も分からず、高くなってるんだよ。まったく、この世界は、どうなっちまったのかねえ」
その主婦は、結局、キャベツを買うのを諦め、一つ、深いため息をついた。
「……仕方ないわね。今夜のスープは、少し、具を減らすことにしましょうか」
その、ささやかな、庶民のため息。
それこそが、イザベラが放った、最初の毒矢が、王都の心臓に、確かに、届いたことを示す、最初の兆候だった。
まだ、誰も、その真実に気づいてはいない。
自分たちの日常が、たった一人の少女の、壮大な「安眠計画」のために、静かに、そして、確実に、狂わされ始めている、ということに。




