第25話 我が女王陛下
地下の静寂を、ノアの、乾いた笑い声が、まだ震わせている。
彼は、ひとしきり笑い終えると、まるで宝物でも見るかのように、その銀の瞳をわたくしに向けた。
「お姫様、あんたは、もはや、人間じゃない。盤上の全てを支配する、悪魔か、あるいは、女神そのものだ」
その、最大級の賛辞。
九十九回の人生で、一度も浴びたことのない種類の、畏怖のこもった言葉。
けれど、わたくしの心は、一ミリたりとも、動かなかった。
「どちらでもありませんわ」
わたくしは、優雅に、アンナが用意してくれていたハーブティーを一口飲むかのような、落ち着き払った仕草で、彼の言葉を、静かに否定した。
「悪魔になるには、情熱が足りませんし、女神になるには、博愛の精神が、致命的に欠如しておりますの。あなた、わたくしが、何のために、この、ひどく面倒な計画を立てているのか、まだ、お分かりにならない?」
「……え?」
「わたくしはただの、自分の安眠を、この世の何よりも、誰よりも、愛しているだけの、一人の女ですのよ」
その、あまりにもあっけらかんとした、真実。
その言葉を聞いた瞬間、ノアの顔から、全ての表情が抜け落ちた。
驚愕も、畏怖も、歓喜も、全てが消え去り、ただ、空っぽの、呆然とした表情だけが、そこにあった。
彼は、理解したのだ。
わたくしの、その行動原理の、常軌を逸した「純粋さ」を。
この女は、権力が欲しいわけではない。
富が欲しいわけでもない。
誰かに復讐したいわけでも、世界を救いたいわけでもない。
ただ、ひたすらに。
ただ、まっすぐに。
誰にも邪魔されず、心ゆくまで、安心して眠りたい。
その、あまりに個人的で、あまりにささやかで、そして、あまりに絶対的な、たった一つの目的のために。
この女は、国を動かし、人を操り、歴史すらも、平然と、作り変えようとしているのだ。
狂っている。
けれど、なんと、美しいのだろう。
なんと、気高いのだろう。
欲望や、虚栄や、偽善といった、ありとあらゆる不純物から、完璧に解き放たれた、その、究極の利己主義。
それこそが、何百年もの間、腐敗した王家や、欲望にまみれた貴族たちを、影から見つめ続けてきた彼にとって、初めて目にする、真の「王」の器に見えた。
「……ははっ」
ノアの口から、乾いた笑いが、再び漏れた。
けれど、それは、先ほどまでの、狂気じみた笑いではない。
何か、大切なものを、ようやく見つけ出した子供のような、嬉しそうで、そして、少しだけ、泣き出しそうな、そんな笑い声だった。
次の瞬間。
彼は、音もなく、その場に、片膝をついた。
情報屋の、人を食ったような、飄々とした態度は、そこにはもうない。
ただ、一人の騎士が、自らの全てを捧げるべき、唯一無二の君主を見出したかのように。
深く、深く、頭を垂れている。
石畳に、彼の膝がつく、硬い音が、静かな地下に、こつん、と響いた。
「……訂正します」
彼は、顔を上げないまま、静かに、しかし、はっきりと、そう言った。
「あんたは、悪魔でも、女神でもない。あんたこそが、俺が、ずっと探し求めていた……」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
その銀の瞳には、もはや、一片の遊びの色もなかった。
そこにあるのは、絶対の、揺るぎない、魂からの忠誠。
「――我が女王陛下、だ」
それは、誰かに与えられた称号ではない。
彼が、自らの意志で、わたくしに捧げた、魂の契約だった。
わたくしは、その、あまりにも大仰な言葉と、芝居がかった行動に、本日何度目になるか分からない、深いため息をついた。
「……呼び方は、お好きになさいな」
わたくしは、彼に背を向け、再び、王都の地図へと視線を落とした。
「ただし、その呼び名に相応しいだけの働きは、きっちりと、していただきますわよ。さあ、おしゃべりは、もう終わりです。わたくし、この面倒な計画を、一刻も早く終わらせて、お昼寝に戻りたいのですから」
その、どこまでもブレない、わたくしの言葉。
それこそが、彼が、最も聞きたかった答えであるかのように。
ノアは、跪いたまま、その口元に、心の底からの、満足げな笑みを、深く、深く、刻んだのだった。
「――その、狂気じみた、完璧な『害虫駆除』計画。このノア、謹んで、お手伝いさせていただきますぜ。ああ、まったく……」
彼は、わたくしには聞こえないほどの、小さな声で、呟いた。
「こんなに、胸が躍るのは、一体、いつ以来だろうな!」




