第23話 女王陛下の損益分岐点
重い沈黙が、地下の聖域に落ちていた。
それは、わたくしの返答を待つ、ノアの沈黙だった。彼の銀の瞳は、今はただ静かに、合理的な判断を促すように、こちらを見つめている。
駒を切り捨てる。それが、この局面における、唯一の正解。
わたくしも、そう思う。
そう、思うからこそ。
「ええ、割に合いませんわね」
わたくしは、彼の言葉を、静かに肯定した。
その一言に、ノアの張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ、緩んだのが分かった。彼も、わたくしが、ようやく「理性的」な判断を下したのだと、安堵したのだろう。
「ヤコブ殿一人を救うために、わたくしたちが築き上げてきたものを、全て危険に晒す。まさに、愚者の選択ですわ。その通りよ、ノア。あなたの意見は、何一つ、間違ってはいない」
「……ならば、話は早い。すぐに次の手を……」
「ですが」
わたくしは、彼の言葉を、優雅に、しかし、きっぱりと遮った。
「あなたも、一つ、大きな勘違いをなさっている」
「……何です?」
わたくしは、ゆっくりと、彼に向き直った。そして、まるで、子供に物事の道理を説いて聞かせるかのように、懇切丁寧に、語り始めた。
「わたくしにとって、この世で最も割に合わないこと。それは、金銭や地位、あるいは、計画の成否などという、些細な問題ではございませんのよ」
「……」
「それは、『後味の悪い眠り』を、これから先、毎晩、迎えなければならないという、その、耐えがたい事実ですわ」
「…………は?」
ノアの口から、間の抜けた、素っ頓狂な声が漏れた。彼の銀の瞳が、「この女は、一体、何を言っているんだ?」と、雄弁に語っている。
わたくしは、構わず続けた。
「考えてもごらんなさいな。わたくしが、彼の処刑を、ただ座して見過ごしたとする。すると、どうなるでしょう?」
わたくしは、指を一本、すっと立てる。
「まず、間違いなく、夢に見ますわ。断頭台の露と消える彼の、最後の表情をね。そのたびに、わたくしは、この、胸のあたりに残る、もやもした不快な罪悪感で、目を覚ますことになる」
次に、二本目の指を立てる。
「寝覚めが悪い、ということは、睡眠の質が著しく低下する、ということですわ。そして、睡眠不足は、お肌の大敵。せっかくのヴァレンシュタイン家の血筋に、シミや隈など、あってはならないこと」
三本目の指。
「何より、睡眠不足は、思考力と判断力を、致命的に鈍らせます。今日のわたくしが、明日のわたくしの足を引っ張る。ああ、なんて非効率的で、愚かなことでしょう。それは、さらなる面倒事を引き寄せる、最悪の悪循環を生み出しますわ」
そして、最後に、四本の指を、彼に見せつけるように、ひらひらと振った。
「結論として、ヤコブ殿を見殺しにするという選択は、短期的なリスクを回避する代わりに、わたくしの心身と美容、そして、今後の計画全体に、長期的かつ、計り知れないほどの『不利益』をもたらす、ということ。お分かりになりましたか?」
つまり、わたくしにとっては、彼を救出することこそが、最も合理的で、最も損失の少ない、唯一の「正解」なのですわ、と。
わたくしの、完璧な論理展開に、ノアは、ただ、呆然と、口を半開きにしたまま、固まっていた。
やがて、彼は、まるで信じられないものを振り払うかのように、ぶるぶると、頭を振った。
「……つまり、あんたは……」
彼は、自分の頭の中を整理するかのように、ゆっくりと、言葉を紡いだ。
「自分の、快眠と、美容のために……これから、この国を、そして、あのユリウス王子を、敵に回す、と。そう、言いたいのか……?」
その問いかけに、わたくしは、くすりと、小さく笑みを漏らした。
その笑みは、九十九回の人生で、彼が一度も見たことのない、冷徹で、そして、どこか楽しげな色を、宿していた。
「まあ、大げさですこと、ノア」
わたくしは、王都の地図の上に、指を置いた。その指先は、これから始まる、壮大なゲームの、最初の一手を、示していた。
「これは、戦争などという、エネルギッシュなものではございませんわ。ただの、**『害虫駆除』**ですのよ。わたくしの安眠を、しつこく、そして、無粋に妨げる、騒がしい害虫を、少しだけ、お掃除する。ただ、それだけのことですわ」




