第22話 凶報と、天秤
王立古代文献研究所の地下深く。
そこは、地上の時間さえも置き去りにしたかのような、永遠の静寂に満ちていた。
魔法の光球が放つ青白い光だけが、わたくしたち二人と、目の前に立ちはだかる巨大な石の壁を、ぼんやりと照らし出している。
「……この魔術式、どうやら術者の『感情の波長』を読み取っているようですわ。恐怖や怒りといった負の感情を感知すると、それをエネルギーに変換して、結界の強度を増している。実に、厄介な仕組みですこと」
わたくしは、壁に刻まれた微細なルーン文字を指でなぞりながら、分析結果を口にした。隣に立つノアが、顎に手を当てて、ふむ、と唸る。
「ほう。ならば、逆に、穏やかで、ポジティブな感情をぶつければ、あるいは緩むかもしれませんな」
「試してみる価値はありますわね。例えば、最高に寝心地の良い枕のことを考えるとか」
「お姫様、あんたのポジティブの基準は、少し世間とズレていますぜ」
軽口を叩き合いながらも、わたくしたちの思考は、かつてないほどに冴え渡っていた。
九十九回分の断片的な知識を持つわたくしと、専門的な技術を持つノア。一人では決して解けなかったであろう、この未知のパズルが、二人で知恵を出し合うことで、少しずつ、しかし確実に、その全貌を現し始めていた。
面倒だ。実に、面倒だ。
けれど、この、知的な格闘技のような時間は、不思議と、わたくしの心を蝕んでいた「退屈」という名の病を、忘れさせてくれていた。
この静寂が、永遠に続けばいい。
そう、思った、その時だった。
ノアの表情が、ふっと、曇った。
彼は、何もない空間に、すっと手をかざす。彼の指先で、小さな光の蝶が生まれ、羽ばたき、そして、儚く消えた。彼の情報網からもたらされる、緊急の知らせだ。
「……どうしましたの?」
わたくしの問いに、彼は答えなかった。
ただ、その銀の瞳から、いつもの軽薄な光が消え、代わりに、氷のような、冷たい光が宿っていく。その変化だけで、わたくしは、何かが起きたことを悟った。それも、極めて、良くない何かが。
やがて、彼は、重い口を開いた。その声は、いつものような、人を食った響きではなく、低く、そして、硬質だった。
「……緊急速報ですぜ、お姫様」
彼は、一拍、間を置いた。
「つい、一時間ほど前。グライフスワルト通商ギルドの長、ヤコブが、王宮の近衛騎士団によって、逮捕されました」
「……!」
「罪状は、大逆罪。『イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインと共謀し、王国転覆を企てた』、と。そして……」
ノアは、わたくしの目を、まっすぐに見つめた。
「――三日後、王都の中央広場にて、公開処刑に処される、そうです」
静寂が、落ちる。
今度は、先ほどまでの心地よい静寂ではない。全てを凍てつかせるような、絶対零度の沈黙だった。
ユリウス王子。
あの男が、動いたのだ。わたくしが、最も嫌う、最も非道で、最も面倒なやり方で。
「……これは、罠だ」
ノアが、静寂を破った。
「お姫様を、公の場に引きずり出し、罪を認めさせるための、見え透いた罠だ。ここで動けば、王子様の思う壺。我々が、水面下で進めてきた計画が、全て、水の泡となる」
彼の声は、冷静だった。分析官として、彼は、常に、最善手と、最悪手を、天秤にかける。
「ヤコブは、ただの駒だ。優秀な駒だったが、失っても、代わりはいる。ここで、彼一人のために、全てを危険に晒すのは……あまりにも、割に合わない。非情なようだが、ここは、彼を切り捨てるべきだ」
彼の言うことは、正しい。
全て、正しい。
九十九回前のわたくしなら、迷うことなく、彼の意見に同意しただろう。それが、最も合理的で、最も損失の少ない、唯一の正解なのだから。
わたくしは、何も答えなかった。
ただ、目の前の、古代の結界が刻まれた、冷たい石の壁を、じっと見つめていた。
その向こうにあるはずの、ループの元凶。
そして、今、地上で、わたくしのせいで、命を奪われようとしている、一つの駒。
その二つが、わたくしの心の中にある、巨大な天秤の両皿に、ゆっくりと乗せられていく。
どちらが、重いのか。
どちらを、選ぶべきなのか。
「お姫様……?」
ノアが、心配そうに、わたくしの名を呼ぶ。
わたくしは、ゆっくりと、彼に視線を戻した。
魔法の光球が、わたくしの顔を、青白く照らし出す。その光の中で、わたくしの紫の瞳が、どんな色を宿していたのか。
おそらく、それは、ノアにさえも、分からなかっただろう。
「……」
わたくしは、ただ、黙って、そこに立っていた。
答えの出ない、問い。
選ぶことのできない、選択肢。
その、重い沈黙だけが、この地下の迷宮に、どこまでも、どこまでも、響き渡っていた。




