第21話 ユリウスの非道な一手
王立古代文献研究所の地下深く。
わたくしとノアは、あの未知の結界の前で、もう何日も、昼夜の感覚すら忘れ、その解析に没頭していた。
「……この魔術式、どうやら術者の『感情の波長』を読み取っているようですわ。負の感情――恐怖や怒り――を感知すると、それをエネルギーに変換して、結界の強度を増している。実に、厄介な仕組みですこと」
「ほう。ならば、逆に、穏やかで、ポジティブな感情をぶつければ、あるいは緩むかもしれませんな」
「試してみる価値はありますわね。例えば、最高に寝心地の良い枕のことを考えるとか」
「お姫様、あんたのポジティブの基準は、少し世間とズレていますぜ」
軽口を叩き合いながらも、わたくしたちの思考は、高速で回転していた。
九十九回分の断片的な知識を持つわたくしと、専門的な技術を持つノア。二人の知恵が合わさる時、そこには、これまでにない化学反応が起きていた。
面倒だ。実に、面倒だ。
けれど、この、未知のパズルが一つ、また一つと解き明かされていく感覚は、不思議と、わたくしの心を蝕んでいた「退屈」という名の病を、少しだけ癒してくれるようだった。
眠ることさえ、忘れるほどに。
わたくしたちは、この静かな地下の聖域で、ループの核心に、着実に近づいていた。
しかし、わたくしたちは、忘れていたのだ。
地上には、わたくしたちの平穏を、何よりも不快に思う男がいる、ということを。
*
王宮の執務室。
ユリウス・テオ・ド・ラ・ファイエットは、側近からの報告を聞き、手にしていた水晶の杯を、ギリ、と強く握りしめた。
「――イザベラ様は、ここ数日、研究所の地下に籠りきり、情報屋のノアという男と共に、何かの研究に没頭している、と?」
「はっ。そのようでございます。研究所の他の研究員も、気味悪がっておりました。まるで、何かに取り憑かれたように……」
ユリウスの脳裏に、あの、自分に見向きもせず、紅茶を飲んでいたイザベラの顔が蘇る。自分を退屈そうに見つめていた、あの、無感動な瞳。
あの女が、何かに「没頭」しているだと?
この、わたくし以外の、何かに?
そして、あの、情報屋の男。
どこからともなく現れ、わたくしの知らない顔で、イザベラの隣に侍る、あの、胡散臭い影。
許せない。
許せるはずがなかった。
イザベラは、わたくしのものだ。わたくしの駒であり、わたくしの美しい人形。彼女の心と時間を独占するのは、このわたくしでなければならない。
彼女が興味を持つのは、わたくし一人でなければならないのだ。
焦りが、嫉妬が、そして、コントロールできないものへの苛立ちが、ユリウスの心を、黒い炎のように焼き尽くしていく。
「……もう、待つのは終わりだ」
彼は、冷たく呟いた。
直接、あの女を捕らえてもいい。だが、それでは、あの孤高の魂は、決して屈服しないだろう。
ならば、どうする。
彼女の、手足を、奪えばいい。
彼女が、自分の意のままに動くと信じ込んでいる、その、哀れな駒を、彼女の目の前で、無慈悲に、砕いてやればいいのだ。
ユリウスは、歪んだ笑みを浮かべると、側近に、氷のように冷たい声で命じた。
「近衛騎士団に伝えよ。今すぐ、グライフスワルト通商ギルドの長、ヤコブを、逮捕しろ」
「……罪状は、いかがいたしましょう?」
「決まっているだろう」
ユリウスは、楽しそうに、その言葉を紡いだ。
「――『イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインと共謀し、王国転覆を企てた』。その大逆罪だ」
「……!?」
「ああ、それと、こうも付け加えろ。罪人ヤコブは、三日後、王都の中央広場にて、公開処刑に処す、とね」
それは、イザベラに対する、明確な、そして、この上なく非道な、脅迫状だった。
さあ、どうする、イザベラ。
お前が可愛がっていた駒のために、わたくしの前に、ひざまずきに来るか。
それとも、無力な人形に戻り、駒を見殺しにして、自分の無力さを、その身に刻むか。
どちらを選んでも、お前は、もう、わたくしの手の中だ。
*
「――緊急速報ですぜ、お姫様!」
地下の聖域の静寂は、ノアの情報網からもたらされた、一つの凶報によって、無残に打ち破られた。
ノアから、ことの次第を聞かされたわたくしは、ただ、黙って、解析途中の羊皮紙を見つめていた。
「……ヤコブが、逮捕。罪状は、わたくしとの共謀。そして、三日後に、公開処刑、ですって?」
「ああ。どうやら、俺たちの動きが、王子様の癇に障ったらしい。これは、明らかな罠だ。お姫様を公の場に引きずり出し、罪を認めさせるためのな。関わるべきじゃない。ヤコブは、ただの駒。切り捨てるべきだ」
ノアの判断は、合理的で、そして、正しい。
ここで動けば、ユリウスの思う壺だ。わたくしたちが築き上げてきた、水面下の計画が、全て、水の泡となる。
黙って見殺しにする。それが、最善手。
静寂が、落ちる。
わたくしは、ゆっくりと、立ち上がった。そして、壁に立てかけてあった、わたくしの『計画表』――安眠妨害リストへと、歩み寄る。
「……いいえ、ノア。あなたの意見は、間違っていますわ」
「何?」
「あの男は、ただの駒かもしれません。けれど、わたくしが、自らの意思で、盤上に置いた駒ですわ」
わたくしは、羽ペンを手に取ると、リストの一番上に、美しい、しかし、怒りに満ちた文字を、刻みつけた。
「わたくしが置いた駒を、わたくしの許可なく、勝手に盤上から取り除くなど、プレイヤーに対する、最大の侮辱行為。そして……」
わたくしは、続ける。その声は、氷点下の静けさを、宿していた。
「そのせいで、無実の人間が死ぬ。そんな、後味の悪い結末を迎えたら……それこそ、これから先、百年は、安心して眠ることができませんわ」
わたくしの動機は、正義ではない。
ヤコブへの、同情でもない。
ただ、一つ。
わたくしの、安眠のため。その、至上の目的のため。
「ノア。ヤコブを、救出いたしますわよ」
わたくしは、振り返り、ノアをまっすぐに見据えた。その瞳には、もはや、退屈も、諦観もなかった。
「そして、ユリウス・テオ・ド・ラ・ファイエット王子……。あの男は、わたくしの『安眠妨害リスト』の、最重要ターゲット(プライムターゲット)に、本日、正式に認定いたします。必ず、その愚かな行いを、心の底から後悔させて差し上げますから」




